コラム投稿記事
 

コラム目次

前ページ

次ページ

戦争は止められるか  海翔


平成17年12月7日の「人間魚雷回天」(松林宗恵監督)の試写会に続いて行われた講演の記録です。講師(海翔)が時間的制約から講話に至らなかったものを加筆して整理したものです。講師(海翔)は風来坊の知人です。


 何故戦争は避けられないか

 何故、戦争は避けられないか。 一言で言えば、人間の本能である我が子、我が家族、我が故郷、我が民族、我が国が可愛いという感情が、なくならないからだと思います。この本能が無くなり、「我が子より、他人の子のほうが可愛い。」となった場合、貴方は、「それが、良い」と考えますか。

 盂蘭盆会を考えれば、一目瞭然です。それは、我が子が可愛い、つまり言い換えると不公平な感情によって行動したことにより餓鬼道に入ってしまっている母なる女性を救うための法事と聞きます。理性は、本能を制御できますが、超えることは出来ません。だから戦争は無くならないのだと私は考えています。

 人は、自分、そして自分の家族が生きることに頑張ります。「これで生きられる」と感じたら、今度は「安心して、安定して暮らしたい」と考え、例えば食料を備蓄するなどに努力します。こうした過程において、人間は安心と安定を得るため、どんどん集団化していきます。集団化すると、その集団が、住んでいる風土に適合した農耕等の産業を安定させ、またその生活様式を守るために、ある道義を生み出し、そして掟を作り、更に律令へと集団の約束事を進歩させていきます。

 こうして体系化された考えが、即ち思想であり、主義であり、集大成されて文化となります。そうして余裕を得てくると、こうした価値体系に添った芸術、文学、スポーツ、延いては哲学、更に宗教を生んでいきます。このようにして我が主義、我が思想がよりしっかりしたものへと進展していくのだと考えます。これらが達成されると、更に「より豊かに、より自分の主義で」生きようとするのが、人間なのであります。

 ある地域には、その風土に似合った産業が生まれ、それに適した生活様式が育まれ、これに添って文化が体系化されていきます。従って、世界には風土の数ほどの文化、価値観が存在することになると思います。



 「軍艦マーチ」、皆さんご存知と思います。「マーチ」とは、行進曲、そう、軍隊が外に向かって行進を起こす曲という意味であります。秋に収穫が終ると、より豊かな暮らしを得よう、そうするためには、より大きな収穫が必要だ、そのためには土地と労働力の人が要る。そこで、手っ取り早い軍事力で外征して奪取しようとするわけです。 ところが冬は雪が山々にあって行進が起こせない、ギリシャでは、その雪解けを待って行進を起こそうとすると、それは3月、Marchだったそうであります。
若しこの地域が、ギリシャではなく北欧だったら、マーチではなく、メイとか、ジューンとなり、「軍艦マーチ」も「軍艦ジューン等」になっていたかも知れません。

 富の獲得の対象は、主要産業の進展に伴い、農業時代には穀物、工業が生まれて鉱石などと変化していきますが、不変の物的目標は、普通の土地であり、人であり、そして自由貿易確保のための海洋という土地であり、市場という土地・人であり、また地下資源のための海洋の土地であります。


 近年、海洋技術の進展に伴い、資源獲得のため海洋が注目されました。1996年7月20日、奇奇なるも日本の祝日「海の日」と同じ日に、国際条約「海洋法」が成立し経済水域200マイルが加わりました。因みにこの海洋法の成立以前は、領海を含む日米の面積比は、「1対20」であったそうですが、この法の成立により、「1対3.5」へ縮まりました。

 どうでしょう、この数値を見て頑張ろうと言う気迫が湧いてきませんか。 しかし、事は全てが易しくは運ばず、東シナ海の石油開発に係る中国とのトラブルなどは、品性のない利益第一の国際社会を表す代表例の一つであり、資源の獲得には、利害の対立を伴うのが通例となっています。



 人間がより幸せな生活を求めた一例が、「国家」と言う単位です。人間が生きるための単位は、個人でも、家族でも、部族でも・・・となるのですが、人間は長い経験の中から、物的、精神的自己利益の達成のために国家と言う単位を選びました。この組織化された単位は、個人対個人の社会とは一味違った面子をもっており、その動員力の大きさもあり、際限の無い戦争へと無秩序に拡大したりするわけです。

 国家は、「我が国は福祉国家なり、いや自由主義、文化国家なり」などと美しい言葉で己の国家を飾りがちですが、組織という視点で見れば、民間の会社組織とそう大きく違いはありません。美しい十二単衣の着物を着た国家も、他の組織と同じものを一枚一枚剥がしていくと、残るのは、余り美しくない、警察力、監獄、そして軍隊という内向け外向けの強制力であります。それ故に、力、特に大きな力である軍事力は、使い方によっては、己の欲望に添って暴走することもあるのです。

 「足るを知る」、自然と人との共生を図る時、「これで足りる」という概念は共生、つまり和を保つために大事であります。「我も、我も」では、「和」の精神も生まれないと思います。

 「和」の精神、自然にも人間にも意思がある、お互いにそうした意思を尊重し、生を分け合い、益を分け合い仲良く暮らす、こうした色々な価値を認める多文化である日本文化が世界の主流となれば、戦争はなくなると確信します。しかし、出来るでしょうか? 人間の英知を集め、国際法を作り、国際連合のように調整機関を設けている、成るほど一見上手く行きそうに見えます。しかし、現実は各国ともに、ナショナリズムは悪としながらも、実際は裏では自己利益の追求というナショナリズムが剥き出しであり、ダブルスタンダードの世界であります。上手く行くはずがありません。

 世界には、5000の民族とその正義、200の国家とその正義があります。各民族の主張は5000分の1、各国家の主張は200分の1とすれば世の中、円く収まるでしょうが、これができないことを誰もが悟っています。そうした中、更に駄目押し的にグローバリゼーションという一見格好の良い論理を示しながら、自己正義を正しいとし、自己論理を他国に押し付けていく、そうして多分近い将来貧富の差が更に拡大します。どうして円く収まるのか、信じられない方向性があるものです。



 産業革命と総力戦


 日本では江戸中期、1765年ワットが蒸気機関を発明しました。これが、イギリス中南部の石炭と結びつき産業革命が起きます。遅れて1789年、フランス革命が起こり共和制となります。この時「市民よ、武器を取れ」がスローガンとなりました。その10年後、ナポレオンは、国民軍を率いて外征したのであります。


 このナポレオン現象は、産業革命による同一規格の武器の大量生産と、フランス革命による国民皆兵である兵士の大量徴収の二つが合体して生じたものであります。そして、武器の発達と言う質的向上が「人対人の殺戮」を「武器対武器の殺戮」に置き換え、不幸にも人道という殺戮抑止の精神が消えていき、無差別大量の殺戮となりました。こうして、戦いは国家総力戦へと進展し、戦闘はいよいよ熾烈化していきました。熾烈化は、自明の理であります。


 その結果を数字で見てみましょう。二次大戦で米国が生産した武器でありますが、銃は600万丁、弾は410億発、航空機30万機、艦船7万1千隻となっています。次いで、被害について数例見てみましょう、戦争の熾烈度が感じられます。 B-29、334機による一回の東京空襲で25万戸が焼失し、8万4千人が死亡、12万人が傷つきました。 また、一次大戦では、戦域がヨーロッパに限定されましたので、戦没者は850万人でしたが、二次大戦では、軍人1500万人、市民3000万人、合計4500万人が戦没しました。

 国力の使い方は、国の資源の使い方でありますので、国民の平均年齢にも影響が現れてまいります。二次大戦終了時の日本の男の平均年齢は、何と23.9歳でした。理由はご想像下さい。熱戦でなくとも同様なことが言えます。冷戦最中の1985年のソ連は、男58歳、北朝鮮も同じく、男58歳でありました。


 私は、世界で、農耕文化国家が戦争に勝った事実は無いと認識しています。世界四大文明を見ると、それらの国は、殆ど河川流域の農耕文化国家といえますが、文明の利器である武器を製造し使用できたにも拘らず、現代まで連続して栄え続けてきた国家は全くありません。不思議に思いませんか。

 実は、私38歳の時、運良くイギリス海軍大学留学を命じられ渡英しました。このとき、JALの飛行機の中で「どうしてだ、どうしてだ、戦いは単なる武力だけで決せられるものではない、思考方式も一つのパワーだろう、日、没する処なしと言われた英国の思考方式はどうだろう、米国とはどう違うだろう。」と考えました。

 この前年1981年、機雷戦の専門コースで米国留学したとき、冗談でしょうが、米海軍の全世界の機雷戦を指揮するフォーン司令官から「上田少佐は、ソ連の上空を飛ばない方が良いよ、何せウラジオ、ペトロの機雷攻撃を計画したのだから、若しかしたらばれているかも・・・」と言われました。ソ連を回り込むようにフライトしている
JALの機中で「国家と戦争、そして英国は・・・」について考えに耽っていたからでしょう。

 その後、この時の「何故四大文明国家は・・・」という疑問はその後の私を刺激続けました。

 そこで、日本文化、つまり農耕文化の精神構造で戦争が出来るかと良く考えました。英留中に教授連、英海軍同期生等と議論もしました。「日本も、国内戦争を経験しているが・・・」と言うと、「日本は、蒙古襲来もあったが、「戦争」の経験は無いのと同じ」と言うのです。彼らは、「日本の国内戦争は、単なる喧嘩である。」と評価するのです。

 日本国内の戦争では、勝負がついた時、長である敗者の殿や重臣の処分で事が終りました。たまには、その殺害が家族・一統に及ぶこともありましたが、一般に欧米に比べますと非常に情け深いものです。永い時を経て醸成された武士道に則った日本流の戦いとなったわけです。


 戦後は、米国によるハーグ条約に違反する言論統制から教育手法の変更など、日本を骨抜きにするための各種政策に影響を受け、日本人は、二次大戦で国民の5%弱を失っただけで、5%でという様な言い方は戦没された方々に非礼ではありますが、この程度で日本の伝統と文化体系に基づく自立の精神を放棄しました。

 一方ヨーロッパでは、色々な戦争を研究しますと歴史的に国民の30%から70%の喪失に至るまで戦っている事実があります。それは何故かというと、敗れることは、生命、財産を失うのみならず文化までが奪取され、破壊されるのが戦争だからです。国民に至るまでこのように認識しているわけです。私の留学で初めて海外生活を経験した妻が、彼方此方の博物館などを訪れるたびに、「あなた、こっちの絵画は、日本と違って、血の絵が多いね。」と何度となく印象を語りましたが、正に絵画がその凄惨さや文化を語っているのです。



 ところで、日本では建軍そのものが、諸外国と異なっているように思います。国は、もう「軍艦マーチ」の項で紹介したとおり、自分たちの利益拡大のため、軍を送り出したわけです。つまり、軍は自分たちの一部だったわけです。ところが、日本では、極端に表現しますが、明治の建軍の動機は、黒船来航、つまり軍事的脅威への対抗でした。

 残念ながら、二度目の戦後に行われた自衛隊の建軍もそうでした。ソビエトを軸とした東側の軍事的脅威に対抗するため、自衛隊を創設しました。この際悲しくも、いや、非常識にも軍の法ではなく、警察法と同じ概念で法制化してしまいました。その結果未だに歪んだ体質を引きずっています。しかしながら、そうした不具合を内蔵しつつも20年ぐらい前からやっと自衛隊も「軍事力を使用した政治活動」をするようになりました。勿論戦争そのものが、政治の最終手段という強制力の行使であることに間違いはありませんが、その運用の幅は、政治活動のみならず、国民の経済活動まで大きく領域を広げる要があると思います。


 話を戻します。こうした建軍を経験した結果、不幸にも日本は政治家も国民も軍の機能について諸外国とは異なった認識に終始しています。一度踏み外した足を正しい道へ戻すのは、大変なことです。そうです、軍事力は、軍事的脅威が生起しない情勢を作為するために、災害対処から民生活動、更には経済活動支援をも含む活動まで国民と一緒になって、運用されるべきであります。世界常識で軍事力を運用することが、世界の国々と共通の国際感覚を共有することにもなります。こうして経験を積み重ねていくことが大事と思います。


 我が国の国際感覚からずれて行動した結末を紹介します。国際政治に時効はありませんが、時効となった事例を話します。

 一次大戦では、日本は日英同盟の同盟国として、また連合軍の一員として参戦しました。各戦域には武官が派遣され、また地中海には、第2特務艦隊が派遣され、諸報告がなされました。そうして大戦についての研究もなされました。しかし、臨場感に溢れた現地からの報告書も国内の意識の薄い上司や関心の薄い官僚を通った時、報告書の色は褪せ、結局二次大戦に生かされることはありませんでした。二次大戦では、開戦直前の昭和15年9月30日総力戦研究所が設置されました。

 しかし、これでは時既に遅く、総力戦の教育も行き届かず、世界情勢に対応した政戦略・戦術が生まれようも無く、国内の諸活動から前線での兵の戦いまでが総力戦とは乖離してしまったのだと考えております。


 また、一次大戦で日本外交は、日英同盟の条文や国際法の読解に終始し、そして自己評価は、「誠心誠意、最大限の戦争(国際)協力をした。その成果も大であった。」としたのでした。 ところが、欧米の日本に対する評価は、「日本は、単なる脇役に終始したに過ぎない。なのに、戦争特需を受け、得をした。」であったのです。

 世界の主流なる常識・大義は、意外と不変のように見えても、情勢が変われば、既定既存の条約や取り決めとは関係なく、意外と簡単に変わっていくものです。現在でもそうでありますが、特に大国の利益に適う論理が先行し既存の常識が急速に変化することがあります。この時、条約の解釈に固執した日本は、この変化に気が付かず、善し悪しは別として世界主流の常識からはずれてしまったのであります。このような認識のギャップが原因となり欧米諸国家の対日警戒感を生みました。結局これが、二次大戦の遠因となったと思いませんか。



 第2次世界大戦後の兵器の変遷


指揮管制・武器システム

 Sensor to Shooter
という言葉があります。情報や指揮管制の命令がグローバルに即時に伝えられ、即時に兵器が運用されます。 例えば、北海道にいる兵士があるセンサーで探知した情報が、九州にいる兵士へ伝えられ、勿論指揮に基づき、即時に北海道の目標に向かって武器が発射される。このような武器システムになっているということであります。そして、人である兵士は、科学技術の進展に伴いロボットへ置き換えられていっております。

 近年、UAV:
Unmanned Aerial Vehicle、 USV:Unmanned Surface Vehicle UUV: Unmanned Underwater Vehicleというような言葉が耳に入りますが、兵器がロボット化されていることを意味しており、TVゲーム的に変化しているのであります。勿論、科学技術の発展は、空中、水上、水中、地上(原野)などで大きく異なっており、その置き換えには大きな濃淡があります。全体で捉えると未だ人へ依存する分野は、まだまだ大きいと思います。


陸上武器――砲(ミサイル)

 WW
T〜Uにおいて、航空機1機を撃墜するのに、ヨーロッパ方面のデータでは、12000発だったといいます。現在は、防御態勢でも異なりますが、ミサイル1〜2発で撃墜します。未だ研究開発段階のものですが、レーザも2MWの電力を短時間に放出することにより、30Kmハードキル、300Kmソフトキルが可能といわれております。近い未来に、まるで宇宙戦争映画のようになるかもしれませんね。


陸上武器――戦車

 旧陸軍97式戦車と陸上自衛隊90式戦車、これらは、運用構想が97式は歩兵支援、90式は対戦車戦等と異なっており、本来は比較してはいけないのですが、敢えて紹介しますと、旧陸軍の97式は、16トン、170馬力、38Km/h、57mm砲、 陸上自衛隊の90式は、50トン、1500馬力、70Km/h、120mm、12.7mm、7.62mmの銃砲を備えており、夜間射撃、走行中射撃が可能であり、世界一流のレベルにあると言われております。


空の兵器――戦闘機

空対空
 旧海軍のゼロ戦と航空自衛隊のF-15を比較します。 

 自重3tのゼロ戦、当時は世界一流の戦闘機であり、ご存知のとおり緒戦において空中戦での敵はありませんでした。時速560km
/h、13mmと20mmの機銃×5、爆弾は、60kg×2でありました。

 F-15は、自重25tに4tの爆弾を搭載し、9Gから10Gに抗して直角に上昇、短・中距離ミサイルで交戦する戦闘機です。ゼロ戦が何十機襲ってもF15にアウトレンジされつつ、ミサイルで撃墜されるということになります。現在は「質を量で置き換えられない」と言えましょう。

空対地
 米軍爆撃機B-17と戦闘爆撃機F-117を、ピンポイント1点への攻撃・破壊効果で比較します。B-17の900kg爆弾×20発搭載×450機=9000発と、F-117の900kg誘導爆弾×1〜2発×1機=1〜2発が同等の破壊効果となります。

 ピンポイント攻撃という言葉を湾岸戦争などでよく聞きましたが、これが二次大戦であったとしたら、F-117 1機の代わりにB-17 450機が束になって出撃したという計算になるわけです。


海上――戦闘艦

 私は艦艇幹部でしたので、私の専門分野に入ることになります。 昔は、乗員が日焼けして帰港すると、「おっ、塩気が付いた(訓練が行き届き、練度が上がった)な」と言われたものです。今は、どうでしょう。今は、青白い顔が良く訓練したシンボルとなります。なぜかと言うと、次のような戦闘艦へ変化しているからです。

 昔々の手漕ぎのガレー船、そして帆船時代は、船同士が横付けし合って、相互に乗り込んでの戦闘になりました。陸上の戦闘を甲板で行っていたわけです。これが、大砲の出現で、船対船の打ち合いとなります。この頃は、砲が甲板にあり乗員も甲板でした。ところが、武器の発展に伴い、徐々に操作室が艦内奥深くに入り込んでいきます。今では、ミサイル攻撃を考慮し、防御の観点からも重要区画は奥深くにあり、武器を遠隔操縦しているわけです。だから実戦もそうですが乗員は訓練の時太陽に当たらないわけです。したがって訓練に熱中すればするほど、青白い顔へと変わるわけです。

 艦艇の世界でも、前にお話したように、「人」を科学の力で「装備品」へ置き換えてきております。旧海軍空母飛龍とイージス護衛艦の見張り機能を比較してみたいと思います。


 昭和17年6月5日、午前の空母赤城、加賀、蒼龍の3隻が被弾し戦闘から脱落した日の午後でした。空母飛龍は、午前の敵攻撃の推移から被攻撃の公算は低いと判断し、1330、「第一戦速(20Kts)」、1340、「戦闘配食の準備をなせ」、1355、「各部対空警戒を厳にしつつ戦闘配食をとれ」を下令しました。そして、6分後、その運命の一瞬となります。


1401:

吉田見張士「敵急爆本艦直上」と報告、
長航海長 「面舵一杯、最大戦速急げ」、
加来艦長 「対空戦闘打ち方始め」次々と号令がかかる。

1404:

5機目が機体を捻って降下、高度200mから爆弾投下、飛龍艦橋前部を直撃。
大阪で未だご健在の田村掌航海士、当時戦闘配置が艦橋ですので山口司令官、加来艦長の傍に居た人ですが、田村氏の話によれば、直感で「当たる!」と感じ、艦橋内に伏せたという。



 長期の戦闘の疲労から見張り員の視力は低下し、戦闘配食で戦闘待機が緩んだ中、敵の攻撃が始まり、遂には、被弾し、火災が発生したのであります。「今のうちに配食を・・・」と進言した田村掌航海士は、今でもこの一瞬を思い出し、戦闘配食により見張りが弱くなり、射撃の態勢が緩んだことについて責任を感じると、いかにも悔しそうに語ります。


 以後、空母飛龍は、敵の再攻撃が予測される中、味方の被害を局限するため、消火して本国へ曳航することを諦め、味方駆逐艦の魚雷により沈めることとなります。

 戦史公報によれば、生存者600名、戦死1200名と記載されているそうであります。
 しかし、田村氏によれば、山口司令官の指示により自分で何回となく艦内を走り廻り、総員離艦を促し続けたときの艦内の状況から判断すると、戦死1200名中600名は、生きており、重傷、軽傷の乗組員から無傷でありながら配置を離れない者であったそうです。

 山口多聞司令官は、この状況を知りつつ、加来艦長と共に艦に残り、駆逐艦へ魚雷発射を命じたそうであります。思いますに、味方生存者の存在を知りつつ撃沈を命じる指揮官の悲壮な決断は、実に心に重く残ります。戦闘中に敵にやられて死ぬほうがどれだけ楽なことでしょう。



 今のイージス艦の見張り能力は、素晴らしいものがあります。イージス艦4隻を配列すれば、日本列島を概ねカバーすることになります。攻撃能力は、搭載ミサイルの性能からこの見張り範囲より狭くなっていますが、この何百もの小型レーダーを束ねたようなイージスのレーダー見張りと連動したミサイル発射、攻撃能力は、同時に12のミサイル、航空機を撃破できるものであり、世界一であります。

 弾道ミサイル対処機能については、現在新聞などで報道されているように改造中であります。同艦は、戦闘配食にも、疲労にも左右されない見張り能力がありますので、空母飛龍と比較することは、英霊に対し、非礼極まるものであり、してはならないものであります。よって定量的比較は控えます。



 ここで、戦闘艦の変遷に入ります。当会の一部の会員は、この10月に呉を訪問し、戦艦大和の見事な模型を見、多くの解説を受けました。大和は、当時全艦冷暖房の新鋭艦でありましたので、最新鋭のイージス護衛艦「こんごう」クラスと比較することは許されると思います。

 護衛艦「こんごう」は、戦艦大和、64000tの9分の1の7200tの大きさであります。装備電力を見ますと、戦艦大和の電力4800kwに対し、「こんごう」は、7500kwとなります。したがって、護衛艦「こんごう」は単位重量当たり、戦艦大和の14倍の電力を保有していると計算されます。先に紹介しましたレーダーも代表例でありますが、イージス艦は近代化の塊と表現できます。


 以上、兵器の比較による変遷状況を述べてまいりましたが、総じて申し上げますと、現代の兵器は、質を量で代えられないレベルにあるとご認識いただければと考えます。しかし、山岳戦、ゲリラ戦などや水中での戦いでは、科学技術力が相対的に未発達であり、人対人の闘いの様相が強いと言えます。



 人の変遷(自衛官の使命と責任感)


 軍人の使命感と責任感の重要性は、古今東西、変わりありません。生死を伴うという極端な戦闘場裏において、平常心を持って戦闘を継続するには、強い精神力に基盤をおいた使命感と責任感が必要と考えます。旧陸海軍の先人は、国家存亡を一身に受け、過酷な戦陣で戦い続けました。 結論を先に言います。私は、今の自衛官も同じ使命感と責任感を持っていると確信しております。

 クラウゼビッツは、戦略の第一要素に「精神力」を挙げております。軍人には才知も勿論必要ですが、精神力に基盤を置く「性格」は、大変大事であります。私も、精神力は、2種があると考えています。その二つは、ゆるぎなき使命感を堅持する精神力と水火の中でも平然と任務を遂行する精神力であると思っています。

 その昔、戦国時代尼子家に仕え、毛利と戦った武将、山中鹿介は、「憂きことの なおこの上に積もれかし おのが力の底をためさん」と言葉を残しています。強い忠誠心と使命感を感じませんか。これは、山中鹿介の性格でしょう。

 また、司馬遼太郎は「坂之上の雲」の一節で、

 『戦術というものは、常に目的と方法を立て、実施を決心した以上、それについてためらってはいけないということが古今東西のその道の鉄則とされていながら戦場という苛烈で複雑な状況にあっては、安易にそのことがまもれない。真之はそれを工夫した。平素の心がけにあるとおもった。

 「明晰な目的樹立、そしてくるいのない実施方法、そこまでのことは頭脳が考える。しかしそれを水火のなかで実施することは頭脳ではない。性格である。平素、そういう性格をつくらなければならない。」と考えていた。』と述べています。


 性格の話は、このような戦術レベルのみに止まらず、戦略レベルでも言われております、ナポレオン言行録を要約してみました。

 『作戦計画を立てることは誰にでもできる。しかし、戦争をすることのできる者は少ない。出来事と情況に応じて行動するのは真の軍事的天才でなければできない。このために、最上の戦術家も将軍として凡庸だったのである。才気と同じ程度に性格をもっていなくてはならない。才気は非常にあるが性格は殆どない人々は軍人に向いていない。底荷とつりあわないマストのある船のようなものだ。才気は殆んどなくても性格はあった方がよい。才気はあまりなくともそれに釣り合った性格をもつ人々は成功することが多い。高さと同じ程度に根底がなければならない。才気が豊かで性格もそれに劣らぬ程度の将軍は、カエサル、ハンニバル、テュレンヌ、オイゲン公、フリードリヒである。』とあります。


 使命感と責任感に係る事例として、遺書などを紹介することは、失礼であると思われるかもしれません。しかし、それも後進の私たちが認識を新たにし、将来へ生かすのであれば許されることと考えますので、ここに紹介します。


(
神風特別攻撃隊敷島隊出撃(録音))

大東亜戦争で、最初の特攻となった神風特別攻撃隊、関大尉以下5名の話です。比島マバラカット基地から出撃する敷島隊5機、関行夫大尉(23歳)、中野磐雄(19歳)、谷暢夫(20歳)、永峰肇(19歳)、大黒繁男(20歳)の5名が昭和19年10月19日に特攻を打診され、21日以降4回出撃するも目標を発見できずに帰還、25日5回目の出撃を迎えた時の録音があります。流します。

・・・・・・・・・「搭乗員整列15分前、搭乗員整列15分前」
             (
)
・・・・・・・・・・・(発動機始動音)


(関大尉?)

「よろしい!」

(司令 山本大佐)

「今や将に、皇国の必勝を信じ、お前達の一命を捧げる時が来た。お前達は、生きながら既に神である。何らの欲望もないことと思う。然し、本日の戦果については、必ず陛下の御耳に達するようにするから、安心して征ってくれ。成功を祈る。終わり。

(関大尉?) 

「敬礼!」

(関大尉?) 

「只今より、各自、故郷の方を向いて家族の者に最後の別れを告げる。黙祷!」

(関大尉?) 

「時間整合、0630に合わせる。10秒前、・・5秒前、・・時間! 直ちに出発、掛かれ!」


・・・・・・・・・・(発動機音)
・・・・・・・・・・(航空機発進音)


(副長 玉井中佐)

「万歳、万歳」


 この出撃は5回目であり、出撃と帰還の繰り返しの影響が出ているのでしょうが、何故か淡々とし、悠然としている様子が伺え、これに先立ち、死を意識しての出撃と目標なく特攻成らずして帰還した思いの繰り返しが非業に思えてなりません。


(特攻戦死、古谷少佐の遺書)

 次は、海軍予備学生、東京都出身、昭和20年5月11日、沖縄特攻により戦死した古谷真二海軍少佐の遺書を紹介します。これに先立つ昭和18年9月、21歳の時にしたため、温めていたものです。

 敢えて全文を読ませていただきます。


 『ご両親はもとより小生が大なる武勇を為すより、身体を毀傷せずして無事帰還の誉を担はんこと、朝な夕なに神仏に懇願すべくは之親子の情にして当然なり。

 然し時局は総てを超越せる如く重大にして徒に一命を計らんことを望むを許されざる現状にあり。

 大君に対し奉り忠義の誠を至さんことこそ、正にそれ孝なりと決し、すべて一身上の事を忘れ、後顧の憂いなく干戈を執らんの覚悟なり。』


 三島由紀夫が生前この遺書に接した時、「凄い名文だ、命がかかっているのだから敵わない。俺は命をかけて書いていないから・・・」と漏らし号泣したと聞きます。

 人間は誰しも公と私の両方の立場に立ちます。この両者の間で人間は悩み、最後は、使命感と責任感で己の道を決断するのだと思います。

 菜根譚には「操守というものは、厳明でなければならない。しかし、激烈であってはならない。」と述べられておりますが、古谷少佐の自己の使命観に添って覚悟を述べる姿は肩を張らずに正に淡々としております。それ故に言の表裏に誠が滲んでいると感動を覚えます。



(フォークランド戦争:特攻)

 表題のとおり、日本の話ではなく、1982年フォークランド戦争時、英海軍で起こった話であります。私は、英海軍大学留学時、運良くフォークランドから帰還した英海軍士官の学生と共に学ぶ機会を得、多くの実戦経験を耳にし、議論する機会を得ました。

 英海軍は、アルゼンチンの仏製エグゾセミサイルによる艦艇攻撃を受け、有効な対処法を見出せないまま、数隻のフリゲート艦を失い、ミサイル攻撃の脅威に曝される破目に陥っていました。こうした情勢下、英国は、戦域を自国に有利な作戦環境とするため、大英帝国時代から自国利益保守のために自らが確立した「海洋の自由使用」の国際法を自ら破り、排他的水域EZを設定し、第3国船舶の海域進入・通過を禁止し、敵味方識別の容易化、つまり被攻撃機会の減少を図ったのであります。

 一方、部隊は、ヘリコプターによるミサイル監視など工夫を重ねていましたが、有効な対抗手段が見つからないまま推移している中、以前の対ミサイル戦闘の分析から、ミサイルが艦載ヘリコプターへ追従することが判明しました。このときパイロット達が、自艦を救うためミサイルの飛来警報が発令された時 自らがミサイルの標的となる、いわば艦艇の擬目標デコイとして、ミサイル飛来の方向へ進出し待機したといいます。正しく防御的特攻であります。

 本日の映画「人間魚雷回天」のなかで、沼田曜一扮する関屋中尉が敵駆逐艦の執拗な攻撃から母艦である潜水艦自身を救うため、自ら出撃を申し出、敵の爆雷攻撃を回避行動の最中に発進、敵艦に体当たり撃破した行為と同じであります。


 平成11年でしたか、第1術科学校校長時、フォークランド戦争でヘリコプターパイロットとしてこの特攻に参加していたアンドリュー王子(海軍中佐)が来校しました。呉の某料亭で酒を酌み交わしながら、海軍大学同期生から聞いていた王子の特攻作戦参加について確認してみました。王子は、とうとうと特攻にいたる経緯やミサイルのヘリコプター追尾の技術的判断などを話しました。

 特攻の発案は、パイロット自身によるものであり、数チームに区分してジャンケンで出撃順序を決め、その順序で待機する、ミサイル警報が出たら待機チームが出撃する。そのチームがミサイル攻撃がなく帰艦したら、次のチームが待機となる仕組みにしたそうです。 結局この待機開始から以後ミサイル攻撃を受けることがなかったため、特攻による犠牲は生起しませんでしたが、王子も何回か出撃したようでした。


 こうした気質、性格は、軍人共通の誉れとするところであり、古今東西同じであります。同じく校長在任中、新生ロシアの大佐クラス50名が日本外務省の招聘行事として江田島に来校し、教育参考館の日露戦争展示、中でも、日本海海戦に係る展示を食い入るように見ていました。このときの彼らの感想も、日本海海戦の日本勝利に全く拘るところなく意外と淡々としたもので「立派な軍人だったのですね。」とむしろ褒めていました。勇敢に戦って任務を遂行する、これは、軍人には当然のことでありますが、やはり軍人の第一要素だと思います。


(掃海部隊ペルシャ湾派遣)

 以後、実戦経験の無い自衛隊に係る話であります。イラクのクウェート侵攻の後処理として、日本は掃海部隊をペルシャ湾へ派遣しました。派遣の決断が遅くなることは、部隊の現地到着が遅れることになります。このことは、先着順に安全な海域から先着の海軍艦艇が掃海を始めるわけですので、遅れて到着する部隊は、危険な海域を担当せざるを得ないということになります。日本掃海部隊は、海部政権の時でしたが、案の定、派遣決定が遅れ、部隊は思いのほか遅れてペルシャ湾へ到着し、危険な海域のなかでも最も危険な海域を担当することとなったわけです。

 機雷は、ハーグ条約で海面を漂流しないようにすることとなっていますが、ペルシャ湾では、ナント(実戦ですから、当たり前といえば当たり前ですが)流れていました。海面又はその直下に漂流する機雷を発見することは、光の反射や海面の波立ちがあり大変難しいものです。若しこの漂流している機雷に掃海艇が触雷したら、水柱・爆煙が半径50m、高さ150mぐらいには達し、前半分が吹き飛ぶ被害を受けるでしょう。

 このとき、年取った上級の下士官が、「若い者は、後ろにおれ、前方見張りは、もう残り短い俺たちに任せろ」と言って、艦首の見張り配置に付いたといいます。あとは、ご想像下さい。


(北朝鮮武装工作船の追尾)

 日本海能登沖で北朝鮮の武装工作船を追尾したことは、未だ皆さんにも記憶があると思います。追尾は海上保安庁から、対応能力の高い海上自衛隊へ「海上警備行動」を発令して受け継がれました。この時の艦艇部隊と飛行部隊の現場での活動について一件ずつ紹介しましょう。


(護衛艦はるな臨検隊)

 「海上警備行動」の下令によって、「警察権」が付与されたわけですので、武装工作船が停船に応じた場合直ちに相手船に乗り込んで臨検する必要があります。よって、護衛艦「はるな」では、海上自衛隊創設以来、初めての実動の20名の臨検隊(この時は検査隊と呼称)編成となりました。勿論訓練においては何回も編成し想定商船の臨検をしていましたが、防衛出動下ではなく警察権に限られた中での武装工作船に、それも過去に自爆行為を含み相当な武器を平然と使用している船に乗り組む必要性が生じたわけです。

 しかし、正直言って、それまでは商船臨検が主として想定されていたため臨検隊の装備は、現在のテロ組織へは対応できる代物ではありませんでした。防弾チョッキはなくヘルメットに短銃、警棒という軽装備であり、まるで無防備で乗り組むような状態となったわけです。


 そして、『臨検隊』を編成し、工作船追跡中、待機状態としたのです。人間は緊張すると、尿意をもよおし・・・と、体調が変化するものです。指定された隊員は、無言でトイレへの通いが激しくなりましたが、誰一人として「交代してくれ」とか「体調が悪い」とか言うものは居ませんでした。結果的に工作船が停止するに至らず臨検隊の派出はありませんでした。

 しかし、かなり後に医官が精神調査などを行ったところ、20人のうち転勤者を除く18名中、10名の隊員が「死亡する、負傷する」と思い、5人が「パニックに陥る」と言い、工作船に移った後はとの質問には、「火災、自爆」が17人、「銃撃戦」が13名、「乱闘」が10人でした。隊員はそのような想いで待機していたのです。後はご想像下さい。



(対潜哨戒機P3Cによる警告爆弾投下)

 武装工作船を停船させ、領海侵犯、漁業法違反でしたか、調査しなければなりません。

 護衛艦も警告として、工作船前方に、船体に弾が当たらぬように警告射撃を行うこととなりました。しかし、護衛艦には射手が目で見て射撃する機銃が装備されておらず、この警告射撃は、射撃指揮管制装置で弾が当たるように装備した砲を、目標に当てないように工夫して射撃することになるのですから大変です。

 この間、当方の法的制約を見通したかのように、笑うように工作船は高速航行で北方への離脱を図ります。そこで、P3C哨戒機により対潜爆弾を前方に投下する警告をも行うこととなりました。2機がこの任務に当たりました。1番機は爆弾投下任務、2番機は予備、兼ねて状況確認の任務がありました。


 時は夜です。1番機は、爆弾投下のため工作船の前方へ進入します。勿論工作船の反撃を少しでも避けるため、全ての灯火を消しました。真っ暗です。 2番機は、クルーが、「機長、灯火はどうしますか」と機長に判断を求めました。機長は、「全部出せ」と命じました。機は煌々と明かりをつけて飛行しました。 後はご想像下さい。


 こうした活動は、戦時下戦闘のものではありませんが、自衛官がどのように育てられているかを評価できる一部と考えます。私は、海上自衛隊では指揮官以下一心同体、運命共同体としての絆をもって統制された行動をしている、旧海軍の伝統が未だ生きており、軍人としての精神基盤は出来ていると確信しています。


次は、旧海軍の戦闘の一単位である艦艇の乗組員心得たるものであります。

艦船職員服務規程綱領


 艦船は、名誉ある歴史を保有し、崇高なる国家的精神の下に結合して終始分離すべからざる海上軍隊の基本単位にして、乗員の為には存亡を同じうする干城たると同時に、喜戚を偕にする家庭たり。

 故に乗員たる者は宜しく公私相和し、緩急相援け、上官は躬行実践、以って部下を指導し、部下は誠心誠意を以って上官に信頼し、上の下に接する寛厳相済い、思威並びに行わるること、師父の子弟に於ける如く、下の上に対する専ら恭敬を主とし、その教訓を恪守し、之を仰ぐこと、猶子弟の師父に於けるが如く、上下融合、全艦を挙げて一心同体と為り、艦の任務を完全に遂行するに努力すべし。(以下、略)


あらゆる組織は、運命共同体という意識をもった上司、部下で構成されます。「会社と社員」という関係ではなく、「会社の社員、社員の会社」の関係であるべきと考えます。軍事組織のみならず、一般においても同じであると思います。最近、会社は、株主のものか、社員のものかという議論がありましたが、その前に、会社のために運命共同体の一員として犠牲的精神をどちらが持っているのかを考えれば、更なる議論は不要と思います。



 戦争はなくなるか


 人間中心主義、自由、平等、競争原理・・・色々と原理原則なるものが世の中を大手を振って歩き出してもう5世紀近いと思います。これらは、何一つ人類のための、勿論人類は自然の一部ですが、人類の普遍の原則かというと、全くそうではありません。記憶に新しいイラク戦争もそうでした。そして今、イラクでフセイン裁判が始まりました。私は決してフセインを担いでいるわけではありません。

 世界では、あらゆることが、強者の論理で事が進められ、自然の破壊から、人類の破壊へと進んでいます。東京裁判もそうでした。皆が、最近はこの原則の不具合を見抜いています。この不具合により戦後は日本文化が破壊され、国内では信じられないような事故、事件が多発するという世の中になりました。同様に世界の殆どの国が、心が犯され、自己保存、自己主義の主張、自己利益追及に走り自然破壊、人間破壊を続けています。


 話は戻りますが、フセインの裁判、どうして、その前のコソボ教訓から生まれ、普遍的管轄権を持つ法廷として2002年に発足した国際刑事裁判所を使わないのでしょうか? 人道を裁くのであれば、国際人道裁判所・・・適切な裁判所をなぜ使わないのでしょうか。それは、誰も自己を裁きたくないからでしょう。ダブルスタンダード結構ではないか!と、理不尽な話ですが、強者の論理が闊歩するわけです。

 5000の民族の正義、200の国の正義、もう前に触れましたが、過度の自己主張は、よくありません。「正義の振りかざしは、正義という名の不正義なり」であります。フォークランド戦争で英国が海洋の自由使用の原則を曲げたEZの話をしました。海軍大学のクラスメートの何人かに「何故曲げてまで・・・」と糺してみました。殆どの者が少佐クラスですが、答えは「First of all, Victory」、勝てば官軍ということでありました。予期したとおりの答えが返ってきました。

 私は、アングロ流の論理がまだまだ当分世界を凌駕するでしょうし、その間は、戦争はなくならないと思っています。グローバリゼーションも同じことですが、結局差別を生み、貧富の差を拡大させ紛争の要因を増やし続けるからです。勿論現実の世界に対応するため、こうした意味において防衛力を保持することは不可避の重大事と考えます。


 私は講演などでよく主張することですが、日本文化は、自然との和、人との和という和の文化、つまり非人間中心主義、多文化主義であります。 お互いの、例えば5000の民族の、そして200の国の価値観を相互に認識し共存できるのが日本文化であります。

 日本は神代の時代から外来文化を受け入れ、それも上手に消化不良を起こすことなく、同化させ独自の文化を築いてきました。これについては、歴史が証人であります。日本は、「文明の衝突」を著した米ハーバード大ハンチントン教授が言う一つの特殊な文明圏です。

 こうした日本の特殊な能力は、大陸と直接接することなく、つまり対立を生む位置関係になく、時間をかけて交流がボツボツとなされたこと、そして、国内においても、国土の85%が山という陸地の特徴が人の生活圏を程よく分断し、交流の速度を落とし、摩擦少なく国内へ伝播させていったことによると私は考えています。こうした性格的なものは、日本人にDNAとして根付いており、既述の理由から戦後かなり破壊され、消えかかってはいますが、その復元は可能と思います。

 日本は、こうした文化大国の一面をもって世界に風を送り、少しでも紛争の少ない世界を創るよう貢献しなければならないと思います。日本は、今からは、勿論国家の存立と衣食住の満足のため、科学技術立国は必須ですが、和の精神を早期に復元し、ソフトパワーで世界に貢献することが大事なのです。

 戦争を止められるのは、国際法でもなく、論理でもなく、軍縮でもない。それは、思想、価値観の相互認識と言う文化活動であると思いますが如何でしょうか。

 小林一茶は、北からの遠来の客、渡り来る雁の姿を観て、次のような俳句を詠いました。

   『今日からは 日本の雁ぞ 楽に寝よ』



 私は、ある正月故郷の種子島で正月を迎えました。その元旦、東海岸へ妻と車を走らせ、何一つ邪魔物の無い水平線から上る初日を拝もうとしました。東の空が白み明けいく中に偶然にも雁が編隊を組んでやって参りました。雁は、悠然と羽ばたく飛び方でなく、パタパタと繰り返しが速く、今にも疲れ果てて墜落しそうな飛び方でありました。

 私はこの時、一茶は雁が疲れていそうなので、「早く降りてきて、休め! 休め!」という気持ちになって詠ったのだと思いました。しかし、もう一歩踏み込んで考えますと、「日本は和の文化で争いの少ない安全な国だよ、警戒を解いて気楽になって休むが良い・・・」と日本の国柄を含めて詠ったのかもしれません。「今日からは 何処へ行っても 楽に寝よ」ができる世界にしなければなりません。

                            海翔

  目次 TOP 前ページ 次ページ