散策スポット・北海道東北

散策スポット目次

HOME

前ページ

次ページ

第50回東京龍馬会史跡探訪 その1 (H24.6.3)
『彰義隊の風を感じる上野の一日』


旧岩崎邸洋館



スタッフによる受付

東京龍馬会の第50回史跡探訪に参加しました。

今回のテーマは、『彰義隊の風を感じる上野の一日』です。

今回の史跡探訪のコースは次のとおりです。

東京メトロ千代田線湯島駅天神下交差点方面改札口→旧岩崎邸→上野公園内の「彰義隊墓」「西郷隆盛の銅像」を見学→各個に昼食→寛永寺(上野戦争の碑)→大雄寺(高橋泥舟の墓)→全生庵(山岡鉄舟・三遊亭円朝の墓)→谷中霊園(徳川慶喜墓所、渋沢栄一墓、島田一郎墓、伊達宗城墓、阿部正弘墓、岡内俊太郎墓、大原重徳墓、勝精の墓など)→解散


受付開始時刻の6月3日午前10時の10分ほど前に、湯島駅天神下交差点方面改札口に到着すると既に多くの方が集まられていました。

早速に会費を支払うと名札と今回の史跡探訪の資料が渡されました。

この資料は東京龍馬会の幹事の方によって作成されたものですが、市販の資料よりもずっと詳しいもので、このレポートでも配布された資料から一部抜粋させていただいております。


佐藤会長代行挨拶



旧岩崎邸入口

東京龍馬会佐藤会長代行の挨拶の後、東京龍馬会理事(スタッフ)の先導で出発しました。

参加者の安全を確保するために、スタッフが先頭、中間、最後尾に配置されています。

湯島駅から徒歩5分で最初のポイント、旧岩崎邸に到着です。



旧岩崎邸洋館


旧岩崎邸の敷地は、不忍池の南西方、台東区池之端一丁目(旧下谷区茅町)に位置しており、文京区湯島と境を接しています。

旧岩崎邸庭園として公開されているのは旧邸宅敷地の一部にすぎず、かつての敷地は、西側の湯島合同庁舎、南側の湯島四郵便局や切通公園一帯を含んでおり、その敷地は1万5千坪もありました。


旧岩崎邸洋館



旧岩崎邸庭園

旧岩崎邸の敷地は、江戸時代には越後高田藩榊原家の中屋敷でした。

明治時代初期に牧野弼成(旧舞鶴藩主)邸となり、明治11年(1878年)に三菱財閥初代の岩崎弥太郎が牧野弼成から邸地を購入したものです。



旧岩崎邸洋館


旧岩崎邸は岩崎財閥3代目の岩崎久弥によって岩崎家本邸として建てられました。

英国人ジョサイア・コンドルによって設計されたもので、明治29年(1896年)に竣工しています。

現存するのは洋館、和館、撞球室の3棟です。


旧岩崎邸洋館



旧岩崎邸洋館

木造2階建て、地下室付きの洋館は、本格的なヨーロッパ式邸宅で近代日本住宅を代表する西洋木造建築です。

館内の随所に見事なジャコビアン様式の装飾が施されていて、同時期に多く建てられた西洋建築にはない繊細なデザインが、往事のままの雰囲気を漂わせています。


別棟として建つコンドル設計の撞球室(ビリヤード場)は当時の日本では非常に珍しいスイスの山小屋風の造りの木造建築で、洋館から地下道でつながっています。

洋館と結合された和館は書院造りを基調にされていて、広間には、橋本雅邦が下絵を描いたと伝えられる日本画などが残っています。

現存する広間を中心に巧緻を極めた当時の純和風建築をかいま見ることができます。


今回は工事中で見学できませんでした。


旧岩崎邸撞球室(ビリヤード場)



旧岩崎邸庭園

大名庭園の形式を一部踏襲する庭は、本邸建築に際して池を埋め立てて広大な芝庭とし、庭石、灯篭、築山などを配した和洋併置式の庭園として改修されました。

現在の庭園は国有化以降の用地転用、売却により大幅に削り取られていますが、現在でも残されている雪見灯篭や亭跡の石敷が往時の姿を偲ばせています。



不忍池


旧岩崎邸から不忍池の傍を通り、蛙の噴水の傍を通って急な石段を登り西郷隆盛の銅像が建っている山王台跡に到着しました。

山王台は上野戦争で黒門口とともに激戦地になった場所です。

現在は西郷隆盛像のある山王台跡へ上野広小路方面から行く場合は急な石段を上ることになりますが、江戸時代はこれが崖のようになっていて男の袴の後ろ姿に似ているというので袴腰と呼ばれていました。

普通は左側の緩やかな参道を行き黒門から上がったそうです。


不忍池と弁天堂



上野恩賜公園袴腰広場

上野恩賜公園は、明治6年の太政官布達によって、芝、浅草、深川、飛鳥山と共に、日本で初めて公園に指定されました。

ここは、江戸時代、東叡山寛永寺の境内地で、明治維新後官有地となり、大正13年に宮内省を経て東京市に下賜され「恩賜」の名称が付いています。


当初は、寛永寺社殿と霊廟、東照宮、それに境内のサクラを中心にした公園でしたが、その後、博物館や動物園、美術館などが構築され、文化の薫り高い公園へと衣替えがされました。


西郷隆盛像

上野のシンボルの西郷隆盛さんは、筒袖に兵児帯をしめた着流し姿、右手に犬を引いています。

この銅像の作者は、高村光太郎の父、高村光雲です。


明治10年(1877年)の西南戦争で朝敵となった西郷隆盛ですが、明治22年(1889年)2月の大日本帝国憲法発布の大赦で正三位を追贈されて、逆賊の汚名から名誉を回復しました。


石段を登ると山王台跡



西郷隆盛の銅像



西郷隆盛の銅像

明治24年、宮内省次官だった吉井友美が発起人となり、2万5千人から寄付金を集め、上野に銅像を建てることになりました。

明治31年(1898年)12月18日に、上野公園で除幕式が行われました。「除幕式」という言葉が使われたのはこれが最初だそうです。


除幕式に参列した夫人のイトさんは「うちの人はこんなみすぼらしい格好をしてなかった」と嘆き、2度と上京はしなかったそうです。

ちなみに郷里鹿児島の円山公園の西郷像は軍服姿です。

西郷隆盛の銅像は鹿児島の方向に向いているとのことです。


西郷隆盛の銅像



彰義隊戦死者の碑


彰義隊

鳥羽・伏見の戦いの後、徳川慶喜は江戸城へ移りましたが、1868年2月11日に新政府に対する恭順の意を表し、翌12日上野寛永寺に蟄居しました。

これに不満をもった幕臣の本多敏三郎と陸軍調役の伴門五郎が11日に檄文を発し、有志へ会合をもちかけます。翌12日、雑司ヶ谷の酒楼「茗荷屋」に、一橋家ゆかりの者ら17名が集まり、寛永寺に謹慎した徳川慶喜の復権や助命について話しあいました。2月17日には円応寺に場所を移し30名ほどで会合が行われました。

21日に開かれた会合には、一橋家に仕える幕臣の渋沢成一郎を招いただけでなく、幕臣以外にも有志を求めたため、諸藩の藩士や旧幕府を支持する志士までもが参加しています。その結果、会合は組織へと変化し尊王恭順有志会が結成され、「尽忠報国(国に報いて忠を尽くす)」とともに「薩賊」の討滅を記した血誓書を作成しました。

23日に浅草の東本願寺で行われた結成式では、阿部杖策の発案で「大義を彰(あきら)かにする」という意味の彰義隊と命名し、改めて血誓状を作成しました。頭取には渋沢成一郎、副頭取には天野八郎が投票によって選出され、本多敏三郎と伴門五郎は幹事の任に付きました。天野は幕臣ではないものの胆力があり、隊士の支持をうけ中心人物となりました。旧幕府は彰義隊の存在が新政府に対する軍組織と受け取られることを恐れ、また彰義隊と治安改善を願う江戸住民に対する懐柔を兼ねて江戸市中取締に任じました。結成の噂を聞きつけた旧幕府ゆかりの者のみならず、町人や博徒や侠客も参加し、隊が千名を越える規模になりました。4月3日に拠点を本願寺から寛永寺へ移動します。

ところが、元来一橋家の家臣である渋沢成一郎と、いわゆる「関東浪人」と呼ばれるような天野八郎との間で方針を巡り亀裂が生じます。4月11日に江戸城が無血開城し、徳川慶喜が死一等を免じられて水戸へ退去する際に、渋沢の一派はこれを見送りに行くと、その亀裂は決定的となります。
慶喜の警護を目的とした渋沢は、上野を離れて新たに「振武隊」を結成し、田無の西光寺(現在の総持寺)を本陣としました。

主導権を握った天野は、身分、器量にかかわりなく、積極的に入隊希望者を採用して勢力を拡大し、その数2千人から3千人といわれる規模に膨れあがります。
その後、彰義隊は、寛永寺貫主を兼ね同寺に在住する日光輪王寺門跡公現入道親王の協力を得て、徳川慶喜が水戸に移った後も、徳川家霊廟守護を名目に寛永寺を拠点として江戸に残り続けました。

江戸開城以降、関東各地で旧幕府陸軍兵士等の盗賊が各地で幕府復興を名目に放火や強盗を起こし、江戸では彰義隊の新政府への敵対姿勢が改まらず、彰義隊隊士の手で新政府兵士への集団暴行殺害が繰り返されていました。
事態の沈静化を願った勝海舟ら旧幕府首脳は、徳川慶喜の警護役をしていた幕臣・山岡鉄舟を輪王寺宮の側近・覚王院義観と会談させ彰義隊への解散勧告を行いました。しかしながら、覚王院義観は彼を裏切り者と呼び説得に応じませんでした。
彰義隊の背後には、朝敵とされて新政府に敵対する会津、庄内両藩と同情的な東北諸藩の存在があり、また主力艦を温存している榎本艦隊があり、東征軍(官軍)と一戦交えようと各地から脱藩兵が参加して最盛期には3千人〜4千人の規模に膨れあがります。

京都の明治新政府は関東の騒乱の原因の一つを彰義隊の存在と考え、彰義隊を討伐する方針を決定し、西郷隆盛に代わる統率者として京都から大村益次郎を着任させました。
新政府側は、1868年5月1日に彰義隊に江戸市中取締の任を解くことを通告、新政府自身が彰義隊の武装解除に当たる旨を布告しました。
これにより彰義隊との衝突事件が上野近辺で頻発し、軍務局判事(兼江戸府判事)として江戸に着任していた大村益次郎の指揮で武力討伐が決定されました。

大村益次郎はこの討伐作戦を単なる「彰義隊の討伐」に終わらせるのではなく、江戸の市民に「徳川の世が終わった」ということを決定的に印象づけるための戦略的なものとして計画を立案します。
作戦計画ができあがると、作戦遂行前日の5月14日に江戸市中に「翌日上野寛永寺の彰義隊を討伐する」という布告を出します。
この布告により彰義隊の中には隊を脱走するものが続出し、最盛期には3000人といわれていた彰義隊も、上野戦争当日は1000名程度しか残っていなかったといわれています。


上野戦争

5月15日未明、大村益次郎が指揮する政府軍は、寛永寺一帯に立てこもる彰義隊を包囲し、雨中総攻撃を行いました。戦闘は黒門口で始まりました。午前中、新政府軍は上野山王台に陣地した関宿藩卍隊の正確極まる激しい砲撃と黒門口に主力を集めた屈強な彰義隊の抵抗に会い撃退されました。

しかし正午から肥前佐賀藩が保持する射程距離が長いアームストロング砲の砲撃が山王山に着弾し始め、午後は射程と圧倒的人数に勝る新政府軍が優勢に戦闘をすすめ、1日で彰義隊を撃破、寛永寺も壊滅的打撃を受けました。

この戦争で、政府軍の死者は30名、戦傷70余名、彰義隊の死者は200余名といわれていますが、正確の数はわかっていません。



彰義隊戦死者の碑


彰義隊戦死者の碑

西郷隆盛の銅像から30mほど離れた、木陰の中に彰義隊戦死者の碑があります。

5月15日の上野戦争で戦死した彰義隊の遺体は、新政府をはばかって、長いこと上野山内に放置されていましたが、南千住円通寺の住職仏磨や寛永寺御用商人三河屋幸三郎などによって、政府の許可を得て当地で火葬されました。


生き残った小川興郷(椙太)ら彰義隊士は、明治7年(1874年)にようやく政府の許可を得て、激戦後であり隊士の遺体の火葬場となった当地に彰義隊戦士の墓を建立しましたが、思うように募金が集まらず、その墓は取り壊されたようです。

紆余曲折を経て明治14年(1881年)に、彰義隊の隊士を火葬にした場所に、山岡鉄舟筆による「戦士之墓」が建てられました。

政府をはばかって「彰義隊」の文字はありません。


説明を熱心に聞く参加者



史跡探訪担当幹事

墓碑の台座上に小さな墓碑が乗せられていますが、これは「戦士之墓」建立時に地中から発掘されたもので、明治2年(1869年)に上野山内の護国院と寒松院関係者により建立されたといわれています。

当墓碑は、建立後120年余りにわたり、小川一族によって守られてきましたが、現在は歴史的記念碑として東京都の管理下に置かれています。


彰義隊戦死者の碑から上野恩賜公園を東京国立博物館の方に進み、東京国立博物館の前を左折し旧因州池田屋敷表門の前を通過し、最初の交差点を左折して道なりに真っ直ぐ進んだ正面が寛永寺の旧本坊裏門です。


旧因州池田屋敷表門



寛永寺



寛永寺境内


東叡山寛永寺

上野の山はかつて藤堂高虎の江戸屋敷があった場所で、城造りの名手高虎が自ら縄張りしたために半要害させていました。このため彰義隊は立て籠もる場所としてこの地が選ばれたようです。
徳川家康が江戸入りした時に、その居城の場所を決める際には、上野の山も候補地の一つだったといわれています。

藤堂高虎は徳川家康が逝去すると、自らの屋敷内に東照宮を建てました。
これに飽き足らなかった3代将軍家光は、絢爛豪華に東照宮に再造営させました。

寛永寺は上野の山一帯の広大な寺地を有する36ヶ院の総称です。
寛永寺は天台宗の関東総本山で、家康・秀忠・家光の政治顧問として活躍した天海僧正によって、寛永2年(1625年)に建立されました。創建当時は、江戸城の鬼門を守る祈願所でしたが、のちに芝増上寺とともに徳川将軍家の菩提寺となりました。歴代将軍のうち6名(家綱・綱吉・吉宗・家治・家斉・家定)の墓所があります。

寛永寺は東の比叡山ということから山号を「東叡山」と称しています。
天台宗本山延暦寺と対抗できる関東の天台宗本山寛永寺を造営するということから、上野の山を比叡山に、不忍池を琵琶湖に見立てるとともに、また竹生島にならって弁天島を作り、清水寺を模して清水観音堂を建てたといわれています。

天海僧正のあと、三代目からの山主には必ず皇族(皇子もしくは天皇の養子)を迎えることになりました。これが輪王寺宮で、比叡山延暦寺、東叡山寛永寺、日光輪王寺の3山を統轄しました。
鎌倉幕府は皇子を将軍に迎え、実権は北条氏が執権として握っていましたが、徳川幕府は、輪王寺宮に皇族を迎えることで、公卿との共生を図りました。

現在、上野公園の噴水のあるところは、竹の台と呼ばれていた処ですが、ここに元禄11年(1698年)には将軍綱吉によって、寛永寺最大の建造物根本中堂が建てられました。輪王寺宮が寝泊まりする本坊はその奥の国立博物館のところにありました。
将軍参拝に参列する諸大名が、着替える場所として宿坊をきそって建立、寄進したことから、多くの子院が生まれました。



寛永寺根本中堂



上野戦争の碑

宝永6年(1709年)に、徳川慶喜が謹慎したことで知られる大慈院が建立されました。

慶応4年(1868年)5月15日の上野戦争で主要な伽藍の殆どが焼失してしまいました。官軍は寛永寺を旧体制の象徴とみて徹底的に焼き払ったといわれています。

明治維新以降、上野の山一帯は焼け野原となり放置されていましたが、明治6年の太政官布達によって、上野恩賜公園は、芝、浅草、深川、飛鳥山と共に日本で初めて公園に指定されました。

寛永寺は、かつて慶喜が謹慎していた寛永寺大慈院の跡地に移されています。

現在の寛永寺本堂・根本中堂は、天海ゆかりの川越喜多院の本地堂を、明治12年(1879年)に移建したものです。


上野戦争の碑

寛永寺根本中堂の傍に上野戦争の碑が建立されています。



徳川綱吉霊廟勅額門


徳川綱吉霊廟勅額門

寛永寺には徳川将軍家の家綱、綱吉、吉宗、家治、家斉、家定の墓所があります。

当初は将軍人一人の霊廟が建てられていましたが、吉宗の代以降はすでにある霊廟に合祀されるようになりました。

写真は5代将軍徳川綱吉霊廟勅額門で、この霊廟内には篤姫墓所もあります。


徳川綱吉霊廟勅額門



徳川綱吉霊廟勅額門

綱吉の霊廟は宝永6年の12月に竣工しましたが、それは歴代将軍の霊廟を通じて、最も整ったものの一つでした。

ただし、その一部は維新後に解体され、第2次世界大戦で焼失しました。


この勅額門と水盤舎は、その霊廟とともに、これらの災いを免れた貴重な遺構です。

勅額門の形式は四脚門、切妻造、前後軒唐破風付、銅瓦葺きです。



関連のホームページ


 東京龍馬会



東京龍馬会第50回史跡探訪その2へ



         風来坊


寛永寺境内


目次  TOP  HOME