彰義隊
鳥羽・伏見の戦いの後、徳川慶喜は江戸城へ移りましたが、1868年2月11日に新政府に対する恭順の意を表し、翌12日上野寛永寺に蟄居しました。
これに不満をもった幕臣の本多敏三郎と陸軍調役の伴門五郎が11日に檄文を発し、有志へ会合をもちかけます。翌12日、雑司ヶ谷の酒楼「茗荷屋」に、一橋家ゆかりの者ら17名が集まり、寛永寺に謹慎した徳川慶喜の復権や助命について話しあいました。2月17日には円応寺に場所を移し30名ほどで会合が行われました。
21日に開かれた会合には、一橋家に仕える幕臣の渋沢成一郎を招いただけでなく、幕臣以外にも有志を求めたため、諸藩の藩士や旧幕府を支持する志士までもが参加しています。その結果、会合は組織へと変化し尊王恭順有志会が結成され、「尽忠報国(国に報いて忠を尽くす)」とともに「薩賊」の討滅を記した血誓書を作成しました。
23日に浅草の東本願寺で行われた結成式では、阿部杖策の発案で「大義を彰(あきら)かにする」という意味の彰義隊と命名し、改めて血誓状を作成しました。頭取には渋沢成一郎、副頭取には天野八郎が投票によって選出され、本多敏三郎と伴門五郎は幹事の任に付きました。天野は幕臣ではないものの胆力があり、隊士の支持をうけ中心人物となりました。旧幕府は彰義隊の存在が新政府に対する軍組織と受け取られることを恐れ、また彰義隊と治安改善を願う江戸住民に対する懐柔を兼ねて江戸市中取締に任じました。結成の噂を聞きつけた旧幕府ゆかりの者のみならず、町人や博徒や侠客も参加し、隊が千名を越える規模になりました。4月3日に拠点を本願寺から寛永寺へ移動します。
ところが、元来一橋家の家臣である渋沢成一郎と、いわゆる「関東浪人」と呼ばれるような天野八郎との間で方針を巡り亀裂が生じます。4月11日に江戸城が無血開城し、徳川慶喜が死一等を免じられて水戸へ退去する際に、渋沢の一派はこれを見送りに行くと、その亀裂は決定的となります。
慶喜の警護を目的とした渋沢は、上野を離れて新たに「振武隊」を結成し、田無の西光寺(現在の総持寺)を本陣としました。
主導権を握った天野は、身分、器量にかかわりなく、積極的に入隊希望者を採用して勢力を拡大し、その数2千人から3千人といわれる規模に膨れあがります。
その後、彰義隊は、寛永寺貫主を兼ね同寺に在住する日光輪王寺門跡公現入道親王の協力を得て、徳川慶喜が水戸に移った後も、徳川家霊廟守護を名目に寛永寺を拠点として江戸に残り続けました。
江戸開城以降、関東各地で旧幕府陸軍兵士等の盗賊が各地で幕府復興を名目に放火や強盗を起こし、江戸では彰義隊の新政府への敵対姿勢が改まらず、彰義隊隊士の手で新政府兵士への集団暴行殺害が繰り返されていました。
事態の沈静化を願った勝海舟ら旧幕府首脳は、徳川慶喜の警護役をしていた幕臣・山岡鉄舟を輪王寺宮の側近・覚王院義観と会談させ彰義隊への解散勧告を行いました。しかしながら、覚王院義観は彼を裏切り者と呼び説得に応じませんでした。
彰義隊の背後には、朝敵とされて新政府に敵対する会津、庄内両藩と同情的な東北諸藩の存在があり、また主力艦を温存している榎本艦隊があり、東征軍(官軍)と一戦交えようと各地から脱藩兵が参加して最盛期には3千人〜4千人の規模に膨れあがります。
京都の明治新政府は関東の騒乱の原因の一つを彰義隊の存在と考え、彰義隊を討伐する方針を決定し、西郷隆盛に代わる統率者として京都から大村益次郎を着任させました。
新政府側は、1868年5月1日に彰義隊に江戸市中取締の任を解くことを通告、新政府自身が彰義隊の武装解除に当たる旨を布告しました。
これにより彰義隊との衝突事件が上野近辺で頻発し、軍務局判事(兼江戸府判事)として江戸に着任していた大村益次郎の指揮で武力討伐が決定されました。
大村益次郎はこの討伐作戦を単なる「彰義隊の討伐」に終わらせるのではなく、江戸の市民に「徳川の世が終わった」ということを決定的に印象づけるための戦略的なものとして計画を立案します。
作戦計画ができあがると、作戦遂行前日の5月14日に江戸市中に「翌日上野寛永寺の彰義隊を討伐する」という布告を出します。
この布告により彰義隊の中には隊を脱走するものが続出し、最盛期には3000人といわれていた彰義隊も、上野戦争当日は1000名程度しか残っていなかったといわれています。
上野戦争
5月15日未明、大村益次郎が指揮する政府軍は、寛永寺一帯に立てこもる彰義隊を包囲し、雨中総攻撃を行いました。戦闘は黒門口で始まりました。午前中、新政府軍は上野山王台に陣地した関宿藩卍隊の正確極まる激しい砲撃と黒門口に主力を集めた屈強な彰義隊の抵抗に会い撃退されました。
しかし正午から肥前佐賀藩が保持する射程距離が長いアームストロング砲の砲撃が山王山に着弾し始め、午後は射程と圧倒的人数に勝る新政府軍が優勢に戦闘をすすめ、1日で彰義隊を撃破、寛永寺も壊滅的打撃を受けました。
この戦争で、政府軍の死者は30名、戦傷70余名、彰義隊の死者は200余名といわれていますが、正確の数はわかっていません。
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