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北千住駅西口ベデストリアンデッキ
エレベータの左側の階段を下りる
駅からハイキングの「宿場町から学園都市まで下町情緒あふれる千住の魅力再発見」に参加しました。 コースの概要は 北千住駅→ルミネ北千住店(受付)→千住街の駅と旧日光街道の街並み→安養院(かんかん地蔵)→千住大川町氷川神社→元宿場(浮世絵「武州千住」)記念碑→お化け煙突モニュメント→千住芸術村→千住スポーツ公園→石洞美術館→矢立初めの句碑(大橋公園)→足立市場:千住宿奥の細道プチテラス→荒川土手(3年B組金八先生ロケ地)→東京電機大学(ゴール)→北千住 です。
コースの歩行距離は約10km、歩行時間は約3時間です。 写真を撮りながら歩きましたので、所要時間は約3時間30分でした。 今回はコースのみで約1万8千歩でした。
ベデストリアンデッキから
千住駅西口の商店街
JR北千住駅北口改札前の「ルミネ北千住インフォメーション3F」で受付を済ませ、西口の階段またはエスカレーターで下ると2Fのベデストリアンデッキに出ます。 ベデストリアンデッキをそのまま西方向に進むと一番西端にエレベーター及び階段があります。 階段を下りて右折し、最初の信号を右折すると「宿場町通り(北千住サンロード商店街)」です。
宿場町通り
「宿場町通り(北千住サンロード商店街)」は、日光街道の千住宿のあったところです。 千住宿は荒川と隅田川の曲流部に設置された宿場町ですが、千住が宿場町として栄えたのは、慶長2年(1579年)人馬引継の地に指定されてからです。
千住ほんちょう公園
日光東照宮の建立によって、寛永2年(1625年)には日光街道及び奥州街道の初宿に指定され、東海道品川宿、中山道板橋宿、甲州街道内藤宿と並んで江戸四宿の一つとされています。 また、水戸街道は千住宿から分岐していました。
宿場町通りに入って400m程進んだところに、横山家住宅と千住絵馬屋・吉田家があります。 横山家住宅は、宿場町の名残として、伝馬屋敷の面影を今に伝える商家です。 伝馬屋敷は、街道に面して間口が広く、奥行も深い。戸口は、一段下げて造るのが特徴で、これはお客様をお迎えする心がけの現れとのことです。
横山家住宅
横山家は、屋号を「松屋」といい、江戸時代から続く商家で、戦前まで幅広く地漉紙問屋を営んでいました。 現在の母家は、江戸時代後期の建造ですが、昭和11年に改修が行われています。 間口が9間、奥行が15間あり、大きくてどっしりとした桟瓦葺きの2階建てです。 広い土間、商家の書院造りといわれる帳場2階の大きな格子窓などに、一種独特の風格が感じられます。
吉田家は、江戸中期より代々絵馬をはじめ地口行灯や凧などを描いてきた際物問屋です。 手書きで描く絵馬屋は都内では殆ど見かけなくなっており、希少な存在です。 当代の絵馬師は8代目で、先代からの独特の絵柄とその手法を踏襲し、江戸時代からの伝統を守り続けています。 縁取りした経木に、胡粉と美しい色どりの泥絵具で描く小絵馬が千住絵馬とのことです。
吉田家
安養院
かんかん地蔵尊
「宿場町通り」を抜けた最初の交差点を左折し、100m程進んだ右手が「安養院」です。 「安養院」は、元は千住元町にあり、鎌倉時代に北条時頼が創建したと伝えられており、西林山長福寺と称していました。 慶長3年(1598年)兵火にあき、現在地に移り真言宗西林山長福寺安養院と改めました。 本尊は、金銅仏の阿弥陀如来で、鎌倉末期のものと推定されています。
中興開基第1世は賢智上人で、北条氏の臣高梨氏の出身です。 以来歴代の住職と檀家の努力で幸運栄え、江戸末期から明治初期にかけては真言密教の檀林となり、多くの仏弟子を世に送りました。 現在の本堂は、大正12年(1923年)に再建されたものです。
仲良し地蔵尊
芭蕉句碑
境内にはかんかん地蔵尊と仲直し地蔵尊が並んで祀られており、毎月24日に法要が営まれています。 かんかん地蔵は、自分の体の痛い(病んでいる)部分と地蔵の同じ部分を石で叩くと良くなるといわれ、このとき出る音から「かんかん地蔵」とも呼ばれています。 このため、叩かれる部分がへこんでいます。
千住は松尾芭蕉が「奥の細道」の旅に出た出発地ということで、芭蕉の句「ゆく春や 鳥なき魚の 目は泪」の碑があります。 また、樹齢500年前後といわれる黒松があります。
樹齢500年の黒松
「学びピア」の信号を左折 前方の高架は日光街道
安養院から200m程進んだ「「学びピア21」の信号を左折して200m程進むと「千住5丁目」の信号で、日光街道(国道4号)に合流します。
「千住5丁目」の信号の傍にある歩道橋に登ると日光街道の様子を眺めることができます。 北方向には千住新橋の一部を望むことができます。
日光街道に合流
歩道橋からの千住新橋方向の展望
歩道橋からの北千住駅入口方向の展望
大黒湯
「千住5丁目」の次の「千住寿町」の信号で日光街道を横断し、そのまま真っ直ぐ50m程進むと右手に「大黒湯」があります。 威風堂々とした構えは「暖簾」がなければ、神社仏閣といった感じです。 銅板葺きの唐破風作りで、懸魚は鳳凰、塀の上には大黒と恵比寿がいます。 昭和2年の創業で、現役バリバリの銭湯です。
「大黒湯」の先を右折し、真っ直ぐ伸びた細い道を500m程進むと荒川の土手にぶつかります。 丁字路を左折すると、道が2つに分かれており、左側の道を50m程進んだ右手が「千住大川町氷川神社」です。
大黒屋の先を右折すると細い路地に
突き当たりを左折 前方は荒川土手
左折して左側の道を進む
千住大川町氷川神社 左手にあるのが旧千住新橋の石柱
千住大川町氷川神社
「千住大川町氷川神社」は、永仁年間(1293年〜1299年)の創建で氷川、稲荷、浅間の三社からなり、安養院別当でしたが、神仏分離で現在のような神社となりました。 元は旧日光街道をはさんだ北側にあり、千住5丁目地域の鎮守として置かれました。 明治44年(1911年)からの荒川放水路の大改修計画の一環として、大正4年(1915年)現在地に移転し、再建されました。
千住七福神の布袋尊を祀っています。 また、境内には旧千住新橋の石柱、紙すきの碑、富士塚が置かれています。 旧千住新橋は、荒川放水路の大改修計画の一環として、5年の年月をかけて長さ453m、幅7.2mの鋼板桁の鉄橋として大正13年(1924年)に完成しました。 交通量の増大に伴い、千住新橋を拡幅と嵩上げのために架け替えることになった際、その親柱を神社の中に保存することになったものです。
布袋尊
紙すきの歌碑
足立区は、江戸時代から紙すき業が盛んでした。 紙すきの歌碑は、天保14年(1843年)6月晦日、幕府の命により、地すき紙を献上した時の喜びの記念碑です。 碑文の上部に、永(永続連、同業組合の印)の題字があり、「水無月のつこもりの日公より岳のすき立仰付られる時」という前書きに続き、紙すきを自賛する歌が刻まれています。 また、台座には21軒の問屋石が記されており、足立の紙すきを物語る貴重な資料です。
富士塚
江戸後期に流行した富士講にともない富士山の溶岩で作られた標高3mの富士塚が文政7年(1824年)に構築されました。 山頂に、天保2年(1831年)銘の石祠が安置されています。 荒川放水路の改修工事で大正5年(1916年)に現在地よりやや西側に移築され、東京都の水道幹線工事のため昭和43年(1968年)に現在地に移築復元され、現在に至っています。
氷川神社から細い路地を進むと千住公園
千住大川町氷川神社から道幅の狭い道路を西方向に200m程進んだ左手が千住公園です。 千住公園から引き続いて道幅の狭い道路を300m程進んだ右手に「タカラ湯」があります。
千住公園
「タカラ湯」は「キングオブ縁側」または「キングオブ庭園」と呼ばれており、立派な縁側と日本庭園が自慢です。 日本庭園では錦鯉と四季折々の花を楽しむことができます。
細い路地を進みます
タカラ湯
「タカラ湯」の創業は昭和2年(1927年)で、現在のタカラ湯は昭和13年(1938年)に建てられたもので、宮造り千鳥破風の堂々たる構えとなっています。 「タカラ湯」の30m程先を右折し、30m程進んだところを左折すると桜並木が続いています。
この付近に荒川堤があり、堤防に明治中頃に桜が植えられて、大正末期まで桜土手の愛称をもって親しまれ、春爛漫の桜並木は多くの花見客で賑わいました。 しかし、関東大震災後は衰微の一途をたどり、その景観は見られなくなりました。 地元区民の熱望により、この地に桜並木を復元して、往時の風情を伝えているものです。
この先を右折します
桜並木
元宿神社
桜並木を100m程進んだ右手が「元宿神社」です。 「元宿神社」のある付近は、鎌倉時代に既に集落ができていた古い土地で、奥州路もここを通っていたといわれております。 江戸時代初期の日光道中開設とともに成立した「千住宿」に対して「元宿」と称されていました。
甲州から移ってきた人々によって、北部の川田耕地などが開墾され、その人々の守護神八幡神が鎮守としてここに祀られたとのことで、「元宿神社」は古くは「元宿八幡神社」と称されていました。 境内には、源信義がご神体を背負って信濃の戦場を駆け巡り、必勝を祈願したものと言われている八幡大菩薩像が安置されています。
葛飾北斎の「富嶽三十六景 武州千住」
元宿堀の変遷
平成24年の現在地
「元宿神社」から100m程進んだ「帝京科学大入口」の交差点を左右に走っているのが「墨提通り」です。 「墨提通り」を横断したところに「元宿堀(浮世絵『武州千住』)記念碑」があります。 江戸時代、ここには荒川(後の隅田川)につながる水路があり、元宿堀と呼ばれていました。
葛飾北斎の「富嶽三十六景 武州千住」は、この場所から描かれたと推定されています。 堰の前にネギを運ぶ馬子、その先に釣り糸を人たち、その先に荒川(後の隅田川)と思われる河川と富士山が描かれています。 昭和10年頃までの元宿堀は、荒川への船の出入口で、付近に十数人の船頭衆が住み、小さな港のようでした。 その後、公共下水道が整備されたことにより元宿堀はその役割を終え、昭和45年に水路は埋め立てられ、平成22年の道路改良工事等を経て現在の形になっています。
元宿堀の地理的位置
お化け煙突モニュメント
帝京科学大学
「元宿堀記念碑」からそのまま進むと右手に帝京科学大学があります。 帝京科学大学の前を通過し、その先にある階段を登ると隅田川の堤の上に出ます。 左前方に東京スカイツリーを眺めることができます。 堤に登って右折し、帝京科学大学に沿って進むと「お化け煙突モニュメント」があります。
「お化け煙突」は、大正15年(1926年)1月から昭和38年(1963年)3月まで、この地で操業した千住火力発電所に設置されて、約40年間親しまれてきました。 この煙突は4本ありましたが、時には3本になり、2本、1本に見えました。 これは4本の煙突が、薄い菱形に配置されていたため、見る角度のよって4本から1本に変化しました。 このように場所によって煙突の本数が異なって見えたのが名前の由来です。
お化け煙突モニュメント 上半分が実物の煙突
お化け煙突モニュメントと東京スカイツリー
東京スカイツリー
隅田川河畔
また、縮尺20分の1のモデルで煙突の見え方を体験できます。 「お化け煙突モニュメント」の場所から東京スカイツリーを眺めることができます。 「お化け煙突モニュメント」から隅田川沿いの道を700m程歩くと前方に背の高い都営アパートがあり、その手前左手に千住桜木町公園があります。 都営アパートの手前を左折し、千住桜木町公園に沿って30m程進んだ丁字路を右折します。
隅田川河畔の遊歩道
千住桜木町公園
都営アパートの横を通り、300m程進んだ最初の信号を左折し、100m程進むと信号のある丁字路です。 この丁字路を左右に走っているのが墨提通りです。 信号を右折し、墨提通りを100mあまり進んだ「千住緑町」の信号の右手前に「千住藝術村」があります。
「千住藝術村」は、下町に残る築約50年の空き店舗を改装したギャラリーです。 近接する東京芸術大学の学生たちを始めとする若手アーティストの活動の場として、地元企業や商店街、子供たちとのふれあいの場としてさまざまなアートイベントが催されています。
千住藝術村
千住スポーツ公園
「千住藝術村」から墨提通りを200m程進んだ右手が「千住スポーツ公園」です。 「千住スポーツ公園」は、テニスコート、少年サッカー場、弓道場、相撲場などがあるスポーツ施設で、市民の憩いの場となっています。 今回の「駅からハイキング」のチェックポイントでした。
「千住スポーツ公園」を反対方向に抜け、突き当たりを左折して京成本線に沿って200m程進むと「千住大橋駅」です。 「千住大橋駅」の手前のガードをくぐり、道なりに200m程進んだ交差点の左前方が「石洞美術館」です。
このガードをくぐります ガードの千住大橋駅です
石洞美術館
「石洞美術館」は、美術工藝を通しての国際間の文化交流、相互理解の促進、わが国文化の向上を図るため、2006年4月に設立されました。 所蔵品は、佐藤千壽の収集したコレクションを核としており、美術館の名称は佐藤の雅号「石洞」を採用しています。 石洞美術館が入っている建物は千住金属工業(はんだ製造)の本社ビルですが、銅板葺きおろしの屋根、煉瓦タイル貼の平面六角形のユニークな建物です。
橋戸稲荷神社
「石洞美術館」から千住金属工業に沿って進み、会社の先の交差点を右折して50m程進むと右手に「橋戸稲荷神社」があります。 橋戸稲荷神社は、延長4年(926年)の創建された、千住では歴史の古い神社です。 延徳2年(1490年)創建の本殿は、足立区内唯一の土蔵造り本殿で、区有形文化財に指定されています。
北千住散策その2へ 風来坊