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歓迎の横断幕と坂本龍馬像
立会川駅
東京龍馬会の第51回史跡探訪に参加しました。 今回のテーマは、『龍馬の若かりし頃の品川宿を訪ねて』です。 今回の史跡探訪のコースは次のとおりです。 京急線立会川駅→龍馬像見学→浜川砲台跡→浜川中学校(土佐藩下屋敷跡)→山内容堂の墓を見学→京急線鮫洲駅→京急線新馬場駅→品川神社(板垣退助の墓見学)→聖蹟公園(品川宿本陣跡)→一心寺(井伊直弼が開いた寺)→土蔵相模跡(長州藩使用の宿)→品川駅解散
受付開始時刻の12時30分過ぎに京急線立会川駅に到着し、受付で会費を支払うと名札と東海道品川宿まち歩きマップ、そして今回の史跡探訪の資料が渡されました。 史跡探訪の資料は、東京龍馬会の幹事の方によって作成されたものですが、市販の資料よりもずっと詳しいもので、このレポートでも配布された資料から一部抜粋させていただいております。 写真は後日撮影したものも混じっています。
スタッフによる受付
出発前の説明
佐藤会長代行挨拶
東京龍馬会佐藤会長代行の挨拶の後、史跡探訪が開始になりました。 最初のスポットが、北浜川児童公園にある坂本龍馬像です。 江戸時代、立会川駅近くの旧東海道浜川橋より海沿いの地域は土佐藩の鮫洲抱屋敷のあった場所です。 土佐藩は黒船来航時、防衛のため屋敷内に砲台を築き、19歳の龍馬が砲台要員として加わったという説が残っています。
坂本龍馬像
2004年3月、屋敷跡から砲台の礎石が見つかり、そのうちの一つを高知市に寄贈しました。 その御礼として贈られたのが、坂本龍馬の屋敷跡に建つ「ホテル南水」にあったプラスチック製の龍馬像でした。 立会川に来た龍馬像は、その後しばらくイベントごとに移動していましたが、2008年10月に北浜川路道公園の現在地に固定されました。
どのような味が?
立会川繁栄会
坂本龍馬像の置かれている前の商店街が「立会川繁栄会」です。 「ようこそ龍馬のまちへ」の歓迎の横断幕が架けられています。 商店街を抜けた丁字路を左右に走っている道路が旧東海道です。 丁字路を右折して50mほど進んだところが「浜川橋」です。
浜川橋
立会川が海に注ぐこの辺りの地名の浜川から名付けられた「浜川橋」は、またの名を「涙橋」ともいいます。 この橋が架けられたのは、徳川家康が江戸入府後の1600年頃と推定されています。 現在の橋は、昭和9年(1934年)に架け替えられたものです。
慶安4年(1651年)、品川にお仕置き場(鈴ヶ森刑場)が設けられました。 鈴ヶ森で処刑される罪人は、裸馬に乗せられて江戸府内から刑場に護送されてきました。 この時、親族らが密かに見送りに来て、この橋で共に涙を流しながら別れたというとことから、「涙橋」と呼ばれるようになりました。
立会川に沿って海側へ
浜川砲台跡
浜川砲台跡付近の光景
浜川橋の手前を左折し、立会川に沿って100mほど進んだところに「浜川砲台跡」があります。 浜川橋のたもとから立会川が海に注ぐところまでが「土佐藩抱屋敷」で、広さは869坪です。 ここは土佐から送られてくる物資の荷揚げ地であり、立会川から荷を陸上に揚げていました。 抱とは拝領とは異なり、買い入れ、借用していたものをいいます。
ペリー来航の嘉永6年(1853年)土佐藩は砲台築造の「願」を幕府に提出し許可を得て、翌年砲台を造りました。これが浜川砲台です。 砂浜のやわらかい土地を、石、砂で埋め立て、2300坪に拡大させています。 砲台は8門設置していました。
警備陣は大井村の下屋敷を宿所としてこの砲台に配置されていました。 浜川砲台と下屋敷を結ぶ、連絡路は現在の立会川商店街の道路であり、その距離は約200mです。 若き日の坂本龍馬も警備陣に加わっており、この道を毎日歩いていました。
「浜川砲台跡」から「浜川橋」に戻り、左折して「浜川橋」を渡ると右手が「天祖諏訪神社」です。 「天祖諏訪神社」を右に見て100mほど進んだ信号を右折し、200mほど進むと第一京浜の「南大井1丁目」の信号です。 横断歩道を渡って右折し、300mほど進んだ左手が「浜川中学校」です。 浜川中学校のある場所が大井村の「旧土佐藩下屋敷跡」です。
前方の信号を右折です 右手前が天祖諏訪神社です
旧土佐藩下屋敷跡
旧土佐藩下屋敷の敷地範囲の表示
江戸時代の大名は国元の城や陣屋のほかに、江戸に屋敷を持っていました。 公用で使うのが上屋敷、私用で使うのが中屋敷と下屋敷ですが、いずれも幕府からの拝領です。つまり借家です。 立会川沿いの下屋敷は、総面積16901坪で、同じ下屋敷のあった築地や砂村に較べると2〜4倍の大きさです。 下屋敷の敷地範囲は浜川中学校の敷地の数倍の大きさです。
大井公園入口
当時は東海道と海を見下ろせる台地に位置していたようです。 下屋敷と抱屋敷は、東海道を挟んで東西に位置しており、ともに万治元年(1658年)に拝領、囲込よって取得したものです。 土佐藩下屋敷跡から500mほど進んだ鮫洲駅前の歩道橋のある場所を左手に進むと大井公園です。 大井公園の入口手前を左方向に100mほど進み、階段を登ったところに山内容堂の墓があります。
大井公園の手前を左に進みます
墓所は階段の上です
山内豊信(容堂)は、文政10年(1827年)に生まれ、分家の山内豊著の長子として生まれ、嘉永元年(1848年)に本家を継いで土佐藩第15代藩主となります。 吉田東洋などの人材と登用して、藩政改革を実行し藩の財政を安定させました。 将軍跡継ぎ問題では一橋派として行動したため、時の大老井伊直弼による弾圧にあい幕命にて隠居謹慎を命じられました。 その時謹慎していた場所が大井村の下屋敷です。
山内容堂墓所
文久2年(1862年)4月、謹慎を解かれて幕政に参与して、公武合体に力を尽くしました。 また、坂本龍馬が発想し、後藤象二郎が進言した大政奉還論を採用し、将軍徳川慶喜に建白、実現させるなど、幕府と朝廷間の斡旋に力を尽くしました。 山内容堂は、松平慶永、島津斉彬、伊達宗城らとともに、国政の方向について論議献策したので「幕末の四賢侯」と称されています。
山内容堂の墓
山内容堂の妻の墓
明治元年(1868年)に新政府の内国事務総長となりましたが、翌年引退し、明治5年(1872年)に45歳の若さでなくなりました。 遺言により、大井村の下総山(土佐山)と呼ばれていた、この地に埋葬されました。
品川神社
山内容堂の墓所から鮫洲駅に戻り、京浜急行に乗車して新馬場駅に移動しました。 新馬場駅の西方の小高い丘にあるのが品川神社です。 いきなり53段の石段がお出迎えです。 品川神社は、文治3年(1187年)に、源頼朝が海上交通安全と祈願成就の守護神として、安房国の洲崎明神から、天比理乃当ス(あめのひりのめのみこと)を勧請して、祀ったのが始まりとされています。
53段の石段
阿那稲荷神社
その後、鎌倉時代末期の元応元年(1319年)に二階堂道蘊が、宇賀之売命(お稲荷様)を、さらに室町時代中期の文明10年(1478年)に、太田道灌が素盞嗚尊(天王様)をそれぞれ祀りました。 明治時代に准勅祭社の一社に、現在は東京十社の一社に指定されています。 本殿に東海七福神の大黒天が祀られています。 社殿の老朽化に伴い、昭和39年(1964年)に現在の社殿が再建されています。
板垣退助墓所
品川神社の裏手の境内の外側に、板垣退助の墓所があります。 板垣退助は、天保8年(1837年)に土佐の上士・乾正成の長男として生まれました。 幕末に藩主山内容堂の側用人になりますが、倒幕思想の持ち主であり、君主山内容堂の公武合体論とは考えが異なりました。 後藤象二郎とは竹馬の友であり、中岡慎太郎とは交誼がありましたが、坂本龍馬とは生前には一度もあったことはありません。(明治以降に板垣家と坂本家は親戚関係になります)
板垣退助の墓
「板垣死すとも自由は死せず」の碑
戊辰戦争では土佐勤王党の流れを汲む隊士を集めた迅衝隊総督として土佐藩兵を率いて、東山道先鋒総督府の参謀として従軍し、甲州戦争、北関東、会津戦争で功績をあげました。 特に甲府城攻略に際しては、戦国時代の「武田家」の重臣「板垣氏」を名乗り、地元民を安心させ、甲州勝沼の戦いで近藤勇率いる新撰組を撃破し、北関東の戦いでは大島圭介との交渉で日光東照宮を戦火から守りました。
明治維新後は、明治2年(1869年)に木戸孝允、西郷隆盛、大隈重信とともに参与に就任し、明治3年に高知藩の大参事、明治4年に政府の参議となります。 しかしながら、征韓論に敗れて西郷隆盛とともに下野します。 明治7年(1874年)に高知に立志社を設立し、自由民権運動を展開していきます。 明治14年(1881年)には自由党を結成して総理となり、近代日本の政党の礎を築きました。
佐藤栄作の筆です
板垣退助について解説する幹事
明治15年(1882年)岐阜遊説中に刺客に襲われ負傷します。 この時「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだ言葉は、当時の若者達を感激させ湧かせました。 明治29年(1896年)から伊藤内閣や大隈内閣の内相を歴任しましたが、明治33年(1900年)政界を引退します。 大正8年(1919年)に死去し、この地に葬られました。
富士塚からの展望
富士塚
品川神社には富士塚があります。 富士塚は、富士信仰において富士山を遥拝するためのミニチュアの富士山のことで、品川神社の富士塚は、明治2年(1869年)に北品川の丸嘉講約300人によって造られたものです。 富士塚の頂上からの景観は素晴らしいですが、残念ながら富士山は森が邪魔しているようで望むことができません。
富士塚への登山口
富士塚への登山道
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