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第51回東京龍馬会史跡探訪 その2 (H24.10.27)
『龍馬の若かりし頃の品川宿を訪ねて』


品川神社富士塚からの展望 正面が北馬場参道通り



北馬場参道通り

品川神社から「北品川3丁目」の信号で第一京浜を横断して真っ直ぐ進むと「北馬場参道通り」です。

「北馬場参道通り」を200mほど進むと丁字路になっており、左右に走っているのが旧東海道で、丁字路のすぐ右手が「東海道北品川」の交差点です。

丁字路を左折して50mほど進むと歩道の右側に車止めがあります。



旧東海道


車止めの中に進んでいったところが「聖跡公園」です。

「聖跡公園のある場所が、品川宿本陣跡です。

品川宿は、江戸4宿の一つで、東海道五十三次の第一番目の宿駅として発達しました。

宿内の家屋は1600軒、人口7000人の規模だったといわれています。


聖蹟公園への入口



聖蹟公園



聖蹟公園:品川宿本陣の図を眺める参加者



東海道品川宿本陣跡の掲示

宿場では、旅館が本陣、脇本陣、旅籠屋、木賃宿などにランク付けされていました。

本陣は、大名や旗本、幕府役人、勅使、公家などの宿泊所として指定された家で、一般の者は泊まることが許されていませんでした。

本陣は一般の家には許されていない、門や玄関、上段の間を構えていました。

本陣に次ぐ格式の宿として脇本陣がありました。


品川宿には北と南に1軒ずつ本陣がありましたが、江戸時代の中期以降は北の本陣だけとなりました。

明治19年(1886年)に明治天皇が行幸の祭、ここに行在所が建てられたことから「聖蹟公園」として整備されています。

旧本陣の遺跡は復元井戸ぐらいで、後は何も残っていません。


聖蹟公園:品川宿本陣



聖蹟公園:品川日之出 歌川広重


聖蹟公園:御殿山花見品川全図 歌川広重



一心寺



一心寺

「聖蹟公園」から旧東海道に戻り、北の方向(東京の方向)に100mほど進んだ右手が「一心寺」です。

真言宗智山派の寺院で、安政2年(1855年)に大老井伊直弼によって開山したと伝えられています。

江戸三十三観音霊場の30番札所で、東海道七福神の寿老人が祀られています。



旧東海道



品海公園



旅館の看板


「一心寺」から旧東海道を北方向に200mほど進んだ右手が「品海公園」です。

「品海公園」は正面は旧東海道に面し、裏は八ツ山通りまでつながる細長い公園です。

公園正面には「日本橋より二里」の道標や街道松「品川宿の松」が植樹されています。


品川宿の松



八ツ橋通り

「品海公園」を八ツ山通りに抜けると左手に歩道橋があります。

歩道橋の脇の横断歩道を渡って、真っ直ぐ50mほど進むと正面が台場小学校で、学校の入口右手に「御殿山下台場(砲台)跡」の標識があります。

嘉永6年(1853年)、ペリーが4隻の軍艦を率いて浦賀に来航し、日本に開国を求めました。


鎖国をしていた当時の日本は大騒動となり、徳川幕府は江戸の町を守るため、急いで品川沖から深川洲崎にかけて11の台場を造ることにしました。

伊豆韮山の代官・江川太郎左衛門英龍がオランダの書物をもとに砲台造りの指導に当たり、第一から第三台場と第五・第六台場は完成させましたが、残りの第四・第七は中途で工事を中止し、第八以下は着工にも至りませんでした。

その代わりとして、陸続きで五角形の砲台を造ることになりました。これが御殿山下台場(砲台)です。


第二台場に造られた品川灯台の模型



品川浦舟だまり付近の光景 右は船宿

明治になると埋め立てられて姿を消しましたが、台場の輪郭は道として残り、現在でもその位置と形を知ることができます。

跡地に建つ台場小学校の敷地は、この台場の半分程の面積を占めています。台場跡から石垣が発見され、小学校にはその石垣を使った記念碑が建てられました。

石垣の上に立つ灯台は、明治3年(1870年)、日本で3番目の洋式灯台として第二台場に造られた品川灯台を模したものです。

品川灯台は、国の重要文化財として犬山市の明治村に移設されています。



品川浦舟だまり


台場小学校前を左折して細い路地を200mほど進み、丁字路を左折して50mほど進むと北品川橋です。

北品川橋の右手が「品川浦舟だまり」で数多くの屋形船が係留されています。

北品川橋を渡り、八ツ山通りを横断して、細い路地を100mほど進むと旧東海道に戻ります。


品川浦舟だまり



旧東海道 右前方が土蔵相模跡



土蔵相模跡の案内板

右折して旧東海道を北方向に100mほど進んだ右手に「土蔵相模跡」の案内板が建っています。

旅籠屋を営む相模屋は、外壁が土蔵のような海鼠壁(なまこかべ)だったため、「土蔵相模」と呼ばれていました。

この宿を有名にしたのが、文久2年(1862年)12月13日夜に行われた、「御殿山英国公使館」焼き討ち事件です。


その前日の12日、長州藩の高杉晋作、久坂玄端、伊藤俊輔、井上聞多らが「土蔵相模」集まり焼き討ちの手はずを整えました。

長州藩の攘夷運動の一環です。

この事件は、当時宿場の繁栄を開国によって横浜に奪われていた、品川の人々を密かに喜ばせたとも伝えられていますが、残念ながらこの事件以降も、品川宿は次第に衰えています。


お休み処



お休み処から御殿山方向の景観



海鼠壁のトイレ

「土蔵相模跡」から旧東海道を北の方向に300mほど進むと京浜急行の踏切があります。

この踏切付近が品川宿の北の端です。

踏切を渡ったところに休憩する広場があり、海鼠壁のトイレなどが設置されています。

広場から八ツ山橋を渡って道なりに進んだ右手が今回の史跡探訪のゴールである品川駅です。

箱根駅伝で放映されるのは、200m程南側の「新八つ山橋」です



関連のホームページ


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       風来坊


八ツ山橋


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