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龍馬と近代日本の礎を築いた人々の足跡を訪ねて その1 (H24.11.10)


神田駅西口商店街



神田駅西口商店街



対馬から直送の魚を味わえる居酒屋

「駅からハイキング」のウォーキングイベント「龍馬と近代のほんの礎を築いた人々の足跡を訪ねて」に参加しました。

サブタイトルは「江戸の記憶をめぐる坂本龍馬〜岩崎弥太郎〜千葉定吉〜千葉佐那〜」です。

コースの概要は次のとおりです。


神田駅南口(受付・スタート)→學習院(家族學校)開校の地→常盤橋→三菱一号館美術館→千葉定吉道場跡(案内板)→三井記念美術館(三井本館)→日本橋三井タワー(チェックポイント)→玄武館跡→神田駅南口(ゴール)


コースの歩行距離は約7.7km、歩行時間は約2時間(施設での見学時間を除く)、所要時間約3時間(施設での見学時間等を含む)です。

写真を撮りながら歩きましたが、所要時間は約3時間でした。

コースのみで約1万2千歩でした。


神田駅西口商店街



目印の四国銀行

JR神田駅南口のみどりの窓口内で受付を済ませて、西口に出ると目の前が「神田駅西口商店街」です。

9時過ぎに受付を済ませてスタートしましたので、商店街は殆どの店がまだ開業していません。

西口商店街を300mほど進むと「神田西口通り」の交差点です。


交差点を渡ってさらに200mほど進むと、変則的な四叉路で、左手前が懐かしい四国銀行です。

四叉路を横切って100mほど進んだ「宝栄錦町ビル」の先の交差点を左折して100mほど進んだ右手が「學習院(家族學校)開校の地」です。


弘化4年(1847年)京都御所の日御門前に設立された公家の学習所「学習院」は、明治10年(1877年)に華族学校「学習院」としてこの地に創立されました。


目印の宝栄錦町ビル



學習院(家族學校)開校の地

明治21年(1888年)に、麹町区三年町(虎ノ門)の旧工部大学校跡地に移転しました。

現在は、豊島区に大学、高等科、中等科と幼稚園が、新宿区戸山に女子大学、女子高等科、女子中等科と、新宿区四谷に初等科があります。

千葉定吉の次女で、北辰一刀流小太刀免許皆伝の千葉佐那は、明治15年〜21年に学習院女子部の生活指導や監督をしたとのことです。



この外堀通りとの丁字路を左折です


そのまま100mほど進むと広い道路にぶつかり、その上を高速道路が走っています。

広い道路が外堀通りです。

広い道路の手前を左折すると左側が「日清製粉グループ本社」です。


前方の竜閑橋交差点を右前方へ



竜閑橋架道橋

外堀通りに沿って「神田橋」「鎌倉橋」「竜閑橋」の交差点を渡ると、JRのガードがあります。

「竜閑橋架道橋」で、上を走っているのが中央線、山手線、京浜東北線です。



日本銀行


ガードを潜ったすぐ先が「新常盤橋」の交差点です。

さらに200mほど進んだ右手が「常磐橋」で、左手が日本銀行です。

「常磐橋」は、元は「大橋」と称され、江戸城の大手門から浅草に直接向かう本町通り(現在の江戸通り)に、天正18年(1590年)に架けられた東京で最も古い橋の一つです。

浅草に通じる橋であることから「浅草口橋」とも呼ばれていました。


日本銀行



修理中の常磐橋 左前方の石垣が常盤橋門

寛永6年(1629年)、「大橋」の前に常盤橋門が設置され、その頃から「常盤橋」と呼ばれるようになりました。

現在の橋は、明治10年(1877年)に建造されましたが、手狭であることから、現在の常盤橋が造営されて、旧橋は「常磐橋」と呼ばれるようになりました。

老朽化が著しく、東日本大震災でも被害を受けて、現在補修中です。

常磐橋、常盤橋はともに千代田区景観まちづくりの重要物件に指定されています。



常盤橋からの常磐橋の展望



ガードを抜けた右手一帯が福井松平家上屋敷跡


常磐橋を過ぎて、常盤橋を渡って右折すると右手が「常盤橋門」ですが工事中のため見学できませんでした。

「常盤橋門」を右手に見て道なりに200mほど進むとJRのガードがあり、さらに200mほど進むと右手が「通信総合博物館ていぱーく」です。

この右手一帯は福井松平家上屋敷跡です。

「通信総合博物館ていぱーく」は、情報通信関係の総合博物館です。


通信総合博物館ていぱーく



丸の内オフィス街



東京駅丸の内駅舎



新丸ビル付近

「通信総合博物館ていぱーく」前の信号を左折すると高層ビルが左右にそびえ立つ東京丸の内のオフィス街です。

300mほど進むと「大手町駅前」交差点で、さらに300mほど進むと右手が新丸ビルで、左手前方には復元の完成した東京駅丸の内駅舎が現れます。



東京駅丸の内駅舎


東京駅丸の内復元駅舎については、次でレポートしております。



 東京駅丸の内復元駅舎


新丸ビル



三菱1号館美術館



三菱1号館美術館

新丸ビル、丸ビルの前を通って500mほど進んだ右手が「三菱1号館美術館」です。

岩崎弥太郎が創設した三菱社が明治27年(1894年)に建てた洋風事務所建築で、イギリス人建築家ジョサイア・コンドルの設計です。

老朽化のため昭和43年に解体されましたが、設計図や解体時の実測図、各種文献、写真、保存部材などを調査し、また階段部の手すりの石材など、保存されていた部材を一部建物内部に再利用して忠実に復元され、平成22年(2010年)に「三菱1号館美術館」としてオープンしました。


三菱財閥の創立者の岩崎弥太郎は、土佐国安芸郡井ノ口村の地下浪人の岩崎弥次郎の長男です。

伯父・岡本寧浦の塾「紅友社」で歴史と漢詩を学び、次いで江戸の儒官である安積良斎の私塾、さらに高知城外の吉田東洋の「少年塾」で治国経世の理論を学びました。

後藤象二郎の知遇を得て慶応3年(1867年)長崎の土佐商会に派遣され、艦船、武器の買い付けと土佐物産の輸出について欧州の各商社と渡り合い、事業家としての腕を磨いたとのことです。

この間、海援隊の金庫番を務め、坂本龍馬ともおおいに付き合いがあったといわれています。


三菱1号館美術館



三菱電機本社ビル

明治元年に土佐商会が閉鎖されると、大阪の大阪商会に移り、海運業に従事します。明治6年(1873年)に後藤象二郎の肝いりで土佐藩の負債を肩代わりする条件で船2隻を入手して海運業を始め、三菱商会を設立します。この三菱商会は弥太郎が経営する個人企業で、この時点で弥太郎の経営権と所有権が確立します。

明治7年(1874年)に本店を東京に移し、翌年に郵便汽船三菱会社と改称しました。

佐賀の乱(1874年)から西南戦争(1877年)まで、西日本で相次いで起こった内乱や、征台の役(1874年)、江華島事件(1875年)において、新政府の要請に応じて三菱会社の船で兵員と軍需品を現地に輸送し、政府の勝利に貢献した。

岩崎弥太郎は海運業以外にも、吉岡銅山、三菱製鉄所、三菱為替店、千川水道、高島炭鉱などの事業を手がけるとともに、東京海上保険、貿易商会、明治生命、日本鉄道などに出資して、財閥の基礎を築きました。


「三菱1号館美術館」の信号を左折して200mほど進んだ左手が「三菱電機本社ビル」、右手が「東京国際フォーラム」です。

「三菱電機本社ビル」の建っている場所が、新撰組屯所跡です。

慶応4年1月3日に鳥羽伏見の戦いで幕府は大敗します。そして将軍慶喜は大阪城を密かに出て、江戸へ向かいます。新撰組も多くの負傷者、戦死者を出したのち、海路、江戸へ引き上げることになります。

品川に上陸した新撰組は、重傷の近藤勇、重病の沖田総司や軽傷者を除いて品川宿の釜屋へと停泊します。

20日に幕府は、新撰組に江戸の屯所を用意します。江戸城鍛冶橋門内の、日向高鍋藩主秋月種殷の実弟、若年寄秋月種樹の役宅だった屋敷に入ることになります。

現在、三菱電機本社ビルが建っている場所です。
そして、ここで負傷入院していた隊士たちと合流し、3月、新たに甲州鎮撫隊を組織して江戸から出撃しますが敗戦します。


三菱電機本社ビル



東京フォーラム



東京フォーラム

現在、東京フォーラムの建っている場所が、かつて土佐藩上屋敷のあった場所です。

司馬遼太郎の「竜馬がゆく」では、坂本龍馬はここ上屋敷に寄宿して桶町千葉へ通ったと書かれていますが、鍛冶橋御門内にあって、現在の大使館にも等しいような上屋敷に一般の藩士が寄宿していたのであろうか。

まして、御門を通るときには鑑札が必要で、一郷士の倅がそのようなものを手にしていたのかは疑問符の残るところです。


東京フォーラムからJRのガードを潜って東に進んだ最初の交差点が鍛冶橋です。

鍛冶橋の交差点を渡って100mほど進んだ右側の歩道上に「千葉定吉道場跡」の案内板があります。

千葉定吉は、北辰一刀流剣術の創始者千葉周作の弟で、自身も北辰一刀流の使い手として知られています。

千葉周作は、文政5年(1822年)に道場を品川町(現在の日本橋室町1丁目付近)に開き、その後、神田お玉ヶ池(現在の千代田区岩本町付近)に移転しました。


鍛冶橋交差点



「千葉定吉道場跡」の案内板

玄武館と名付けられたこの道場は、江戸三大道場の一つに数えられるほど隆盛を極めました。

定吉は、兄周作の玄武館道場の隆盛に貢献した後、自らもこの付近に「小千葉道場」と称される道場を開きました。

定吉の名前は、嘉永6年(1853年)12月改正の絵図には新材木町(現在の日本橋掘留町1丁目付近)に、嘉永7年正月改正の絵図には狩野屋敷と呼ばれていた、この地域に確認することができます。



嘉永7年正月改正の絵図:左下のエリアに千葉定吉の文字が


嘉永6年、剣術修行のために江戸に出てきた坂本龍馬は、定吉の門に入ったとされています。

この時定吉は、鳥取藩池田家に仕官していたため、龍馬は定吉の息子千葉重太郎のもとで修行に励んだとも考えられています。

また、安政3年(1856年)に江戸に再出府した際にも、定吉の道場で剣術修行を行い、安政5年正月には定吉から「北辰一刀流長刀兵法」の目録を伝授されています。

千葉定吉の次女が千葉佐那です。


京橋交差点



中央通り



中央通り



高島屋

「千葉定吉道場跡」の案内板から東方向に200mほど進んだ「京橋」の交差点を左折すると「中央通り」です。

右折して300mほど進むと銀座1丁目です。

「中央通り」のビル群を眺めながら、約1Km進むと「日本橋」です。



???


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            風来坊


丸善


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