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龍馬と近代日本の礎を築いた人々の足跡を訪ねて その2 (H24.11.10)


日本橋



日本橋親柱の獅子

日本橋が初めて架けられたのは徳川家康が幕府を開いた慶長8年(1603年)でと伝えられています。

幕府は東海道をはじめとする5街道の起点を日本橋とし、重要な水路であった日本橋川と交叉する点として江戸経済の中心となっていました。

橋詰には高札場があり、魚河岸があったことでも有名です。

幕末の様子は、安藤広重の錦絵でも知られています。



中央柱の麒麟


日本橋は火災などにより改築すること19回を経て、明治44年(1911年)3月、石造二連アーチの道路橋として完成しました。

橋銘は第15代将軍徳川慶喜の筆によるもので、青銅の照明灯装飾品の麒麟は東京市の繁栄を、獅子は守護を表しています。


親柱の獅子



日本国道路元標のレプリカ

橋の中央にある日本国道路元標は、昭和42年に都電の廃止に伴い道路整備が行われたのを契機に、昭和47年に柱からプレートに変更されました。

プレートの文字は当時の総理大臣佐藤栄作の筆によるものです。

橋のたもとにレプリカが展示されています。



日本橋のレプリカ?



東京市道路元標

現在、日本橋を始点としている国道は次の7本です。

国道1号(終点:大阪市梅田新道)

国道4号(終点:青森市青い森公園前)

国道6号(終点:仙台市苦竹IC)

国道14号(終点:千葉市広小路交差点)

国道15号(終点:横浜市青木通交差点)

国道17号(終点:新潟市本町交差点)

国道20号(終点:塩尻市高出交差点)



日本橋里程標(東日本方面)


日本橋里程標(西日本方面)



日本橋北詰交差点 左が日本橋三越本店新館



日本橋三越本店新館

日本橋を渡った左手が日本橋三越本店です。

江戸時代の延宝元年(1673年)に伊勢商人の代表格三井家の三井高利が江戸本町1丁目(現在の日本銀行所在地辺り)で、呉服屋「越後屋」を開業したのが始まりです。

「現銀掛け値なし」のスローガンを掲げ、現在では当たり前になっている正札販売を世界で初めて実現し、当時富裕層だけのものだった呉服を、ひろく一般市民のものにしました。

商号の「三越」は、三井家の「三井」と創業時の「越後屋」から取ったものです。


三越の隣が「三井本館」です。

「三井本館」は、明治35年(1902年)に竣工した旧三井本館が関東大震災で被災したため、立て替えられたもので、昭和4年(1929年)に竣工しました。

アメリカのトローブリッジ・アンド・リヴィングストン事務所が設計しジェームズ・スチュワート社が施工を行ったもので、昭和初期を代表する洋風建築として国の重要文化財に指定されています。


日本橋三越本店



三井本館



三井本館



三井本館と日本橋三井タワー

現在でも三井不動産の本社、三井住友銀行日本橋支店、三井住友信託銀行日本橋営業部などが入居しているほか、7階には三井記念美術館が平成17年(2005年)に開館しました。

三井美術館は、江戸時代以来続く三井家が収集した約4000点を所蔵しています。

国宝、重要文化財をはじめとする三井11家から寄贈された名宝の数々を展示、公開しています。

三井各家のコレクションは、茶道具、絵画、筆跡、能面、能装束、拓本、刀剣、調度品、切手など多岐にわたっています。

これらは戦後、段階的に三井文庫に寄贈され、三井文庫別館で一般公開されていましたが、現在は三井記念美術館に引き継がれています。


「日本橋三井タワー」は三井本館に隣接する地上39階、地下4階の高層ビルです。

三井本館の歴史・文化を受け継ぎつつ日本橋地区の再開発を両立させるというコンセプトのもとに建築された都市再生の象徴と見える超高層ビルで、オフィスやショップ、レストラン、ホテルなどがあり、広々としたアトリウムではクラシックやジャズなどのコンサートが付2回程度開催されます。

「日本橋三井タワー」の地下1階が「駅からハイキング」のチェックポイントです。



椙森神社

「室町2丁目」の交差点に戻り、東の方向に300mほど進んだ「本町2丁目」の交差点で昭和通りを横切り、さらに500mほど進むと「堀留町」の交差点で、「人形町通り」にぶつかります。

「掘留町」交差点の右手前100m程のところに「日本橋保健センター」がありその奥に「掘留公園」があります。

この「掘留公園」付近(日本橋掘留町1丁目付近)が、嘉永6年(1853年)12月改正の絵図にある「千葉定吉道場跡」ですが、今回はパスしました。


また、「堀留町」交差点の30m程手前を左に30mほど入ったところが「椙森神社」です。

椙森神社は、江戸が未だ武蔵野の原と言われた時代の創建で、2012年で創建1081年を迎えます。

江戸時代には、神田の柳森、新橋の烏森とともに江戸三森の一つであり、また江戸商人の発祥の地としても栄えてきておりますが、さらに神社が街の中心にあるため、江戸三富の一つに数えられるほど数多くの富籤が興行されました。


椙森神社



椙森神社 富塚

この富興行は、江戸庶民の楽しみの一つでもあり、庶民の泣き笑いが今に思い浮かべることができます。

富塚は庶民の心の記念として大正9年に建立されましたが、関東大震災で倒壊しました。

現在の富塚は昭和28年に再建されたものです。

この富塚は、他に類を見ないといわれ、日本で唯一のものです。



十思公園 吉田松陰終焉の地


「掘留町」交差点を左折して、人形町通りに沿って北方向に400mほど進むと「小伝馬町」の交差点で「江戸通り」を横切ります。

ここから「人形町通り」から「水天宮通り」に通りの名称が変わります。

「小伝馬町」交差点から「水天宮通り」を50mほど進んだ左手が「十思公園」です。

「十思公園」はいまでこそ非常にのどかな公園ですが、十思公園に隣接する大安楽寺、十思スクエアを含む地域には、慶長年間から明治8年に市ヶ谷監獄が設置されるまでの約270年間、伝馬町牢屋敷が置かれていました。


大安楽寺



十思公園

江戸時代の刑法では、現代で言う懲役、禁固に類するものが存在せず、伝馬町牢屋敷は、刑務所というよりも未決囚を収監し、死刑囚を処断する拘置所に近いものでした。

よく時代劇で耳にする「江戸市中引廻しのうえ討ち首」の台詞の意味は、この伝馬町牢屋敷を出て、江戸市中を見せしめのためぐるりと廻り、伝馬町下屋敷に戻り、死刑にするという意味なのです。

幕末期の安政の大獄では、橋本佐内、頼三樹三郎、吉田松陰など多数が収監され、所内の刑場において処刑されています。


つまり、十思公園は「吉田松陰終焉の地」であり、公園内には吉田松陰の石碑があります。

その石碑には辞世の句が刻まれています。

身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留置まし大和魂

吉田松陰の遺骸は、門下生であった桂小五郎や伊等俊輔らに引き取られ、現在は小塚原の回光院に葬られています。


吉田松陰終焉の地の碑



お玉が池種痘所跡の標柱

「十思公園」から水天宮通りを200mほど進むと路地の入り口に、「お玉が池種痘所跡」の標柱があります。

天然痘予防のための牛痘接種の普及を図ることを目的として、安政5年(1858年)に伊東玄朴、大槻俊斎らの呼びかけで、82名の江戸在住の蘭方医が資金を出しあって神田お玉が池にあった川路聖謨の下屋敷に種痘所を開設しました。

これがお玉が池種痘所で、その場所に標柱が立てられています。


お玉が池種痘所は、牛痘接種の普及が名目でしたが、蘭方医の団結と医学の教育、研究、普及が真の目的であったようです。

ところがわずか半年後に類焼にあい、下谷和泉橘通りに移転し幕府直轄となりました。

慶応4年には明治新政府に接収されて、大病院、ついで医学校兼病院となりました。東大医学部の前身です。

「お玉が池種痘所跡」から200mほど進むと「岩本町3丁目」の交差点ですが、その一つ手前の路地を左に30mほど入ったところに「お玉が池稲荷」があります。


お玉が池稲荷



岩本町交差点

かつてこの地には、石神井川に注ぐ、不忍池よりも大きな桜が池がありました。

池の畔の茶屋の看板娘お玉は美人で有名で、二人の男の間で悩み、桜ヶ池に身を投げたという言い伝えがあって、池の畔にお玉の霊を鎮めるためにお玉が池稲荷が建てられました。

このことから桜が池はお玉が池といわれるようになりました。

そのお玉が池も安政の頃には小さなものにあり、現在ではその跡形もなく、史蹟としてお玉が池稲荷を祀ってあるのみとなっています。



昭和通り 上は首都高速道路


「岩本町3丁目」交差点から100mほど進んだところが「岩本町」の交差点です。

水天宮通り、昭和通りの2つの通りと靖国通りが交叉する大きな交差点です。

「岩本町」の交差点を左折し、昭和通りを横切って靖国通りに沿って50mほど進むと斜め左方向に進む路地があり、靖国通りと路地の間に「岩本町交番」があります。

「岩本町交番」を右に見て50mほど進んだ左手が「玄武館跡」です。


右前方の交番を右に見て進みます



玄武館跡



玄武館跡の案内板

玄武館は、北辰一刀流で知られる千葉周作が開いた剣術道場で、斉藤弥九郎の新道無念流「練兵館」、桃井春蔵の鏡心明智流「士学館」と並んで江戸の三大道場と呼ばれました。

文政8年に日本橋品川町からお玉ヶ池に移転しました。

坂本龍馬の師匠、千葉定吉の桶町千葉を小千葉。お玉ヶ池の玄武館を大千葉と称しています。


隣には幕末の漢学者として知られる東條一堂の漢学塾「瑶池塾」があり、互いに塾生が通ったので並んで隆盛したとのことです。

さらに近所には梁川星巌の「玉池吟社」、佐久間象山の「象山書院」があり、昔ながらに武芸と学問の盛んなところだったようです。



碑文「武尚之右」



JRのガードの手前を左折です

玄武館は、最盛期には門弟数3000人、敷地面積3600坪で、道場の広さだけでも8間四方もあったとのことです。

坂本龍馬も安政5年以降には、一時期この玄武館で学んだという話もあります。

跡地にある碑文「武尚之右」は千葉周作と東條一堂両名の偉業を讃えるものです。


神田ふれあい通り



神田一番街


「玄武館跡」から路地を200mほど進むとJRのガードがあります。

JRのガードの手前を左折し、JRに沿った街並みを500mほど進むとJR神田駅南口(ゴール)です。


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         風来坊


神田一番街


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