回向院は、明暦3年(1657年)に開かれた浄土宗の寺院です。
この年、江戸には「振袖火事」の名で知られる明暦の大火があり、市街の6割以上が焼土と化し、10万人以上の尊い人命が奪われました。
この災害により亡くなられた人々の多くは、身元や身寄りのわからない人々でした。
当時の将軍家綱は、このような無縁の人々の亡骸を手厚く葬るようにと隅田川の東岸、当院の現在地に土地を与え、「万人塚」という墳墓を設け、遵誉上人に命じて無縁仏の冥福に祈りをささげる大法要を執り行いました。
このとき、お念仏を行じる御堂が建てられたのが回向院の歴史の始まりです。
有縁・無縁に関わらず、人・動物に関わらず、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説くという理念のもと、「諸宗山無縁寺回向院」と名付けられ、後に安政大地震、関東大震災、東京大空襲など様々な天災地変、人災による被災者、海難事故による溺死者、遊女、水子、刑死者、諸動物などありとあらゆる姓名が埋葬供養されています。
回向院の境内には、猫の報恩伝説で知られる「猫塚」を始めとして、「唐犬八之塚」、「オットセイ供養塔」、「犬猫供養塔」、「小鳥供養塔」など、さまざまな動物の慰霊碑、供養碑があります。このように諸動物の供養が行われることになったのも、回向院の成り立ちの理念に基づくものです。
回向院の参道左側の玉垣の中に「力塚」の碑があります。
日本の国技である相撲は、江戸時代は主として公共社会事業の資金集めのための勧進相撲興行の形態をとっていました。その勧進相撲が回向院境内で初めて行われたのは明和5年(1768年)のことで、寛政年間を経て文政年間にいたるまで、勧進相撲興行の中心は回向院とされてきました。
やがて天保4年(1833年)より回向院は春秋2回の興行の定場所となり、明治42年(1909年)の旧両国国技館が完成するまでの76年間、「回向院相撲の時代」が続きました。
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