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東京スカイツリーを眺めながらぐるり墨田まち歩き その1 (H24.11.4)


JR両国駅



両国観光案内所

JR東日本の「駅からハイキング&ウォーキングイベント」の「東京スカイツリーを眺めながらくるり墨田まち歩き」に参加しました。

サブタイトルは「魅力再発見! 隅からスムまで、まだ知らなかった墨田のまちをぐるっと散策」です。



歩道の力士像と手形


コースの概要は次のとおりです。

JR両国駅→両国観光案内所(受付)→回向院→吉良邸跡・本所松坂町公園→勝海舟生誕の地→葛飾北斎生誕の地→ささやカフェ(チェックポイント)→牛嶋神社→見番通り(向島観光案内板)→すみだ郷土文化資料館→鳩の街通り商店街→高木神社・飛木稲荷神社→墨田区総合体育館・名誉区民顕彰コーナー「王貞治のふるさと墨田」→テルミナ(ゴール)→JR錦糸町駅


貴乃花の手形



曙の手形

コースの歩行距離は約10.2km、歩行時間は約2時間30分(施設での見学時間を除く)、所要時間約3時間30分(施設での見学時間等を含む)です。

写真を撮りながら廻りましたので、所要時間4時間、約2万歩でした。

コースの歩行距離にしては、歩数が多いですが、どこか廻り道をしたのかな?


JR両国駅の南約100mにある「両国観光案内所」で受付を済ませて、南に200mほど進むと「回向院」です。

両国駅から「回向院」までの道路脇にはいろいろな力士像が並んで両国ならではの雰囲気です。


回向院参道


回向院は、明暦3年(1657年)に開かれた浄土宗の寺院です。
この年、江戸には「振袖火事」の名で知られる明暦の大火があり、市街の6割以上が焼土と化し、10万人以上の尊い人命が奪われました。
この災害により亡くなられた人々の多くは、身元や身寄りのわからない人々でした。


当時の将軍家綱は、このような無縁の人々の亡骸を手厚く葬るようにと隅田川の東岸、当院の現在地に土地を与え、「万人塚」という墳墓を設け、遵誉上人に命じて無縁仏の冥福に祈りをささげる大法要を執り行いました。
このとき、お念仏を行じる御堂が建てられたのが回向院の歴史の始まりです。

有縁・無縁に関わらず、人・動物に関わらず、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説くという理念のもと、「諸宗山無縁寺回向院」と名付けられ、後に安政大地震、関東大震災、東京大空襲など様々な天災地変、人災による被災者、海難事故による溺死者、遊女、水子、刑死者、諸動物などありとあらゆる姓名が埋葬供養されています。

回向院の境内には、猫の報恩伝説で知られる「猫塚」を始めとして、「唐犬八之塚」、「オットセイ供養塔」、「犬猫供養塔」、「小鳥供養塔」など、さまざまな動物の慰霊碑、供養碑があります。このように諸動物の供養が行われることになったのも、回向院の成り立ちの理念に基づくものです。

回向院の参道左側の玉垣の中に「力塚」の碑があります。
日本の国技である相撲は、江戸時代は主として公共社会事業の資金集めのための勧進相撲興行の形態をとっていました。その勧進相撲が回向院境内で初めて行われたのは明和5年(1768年)のことで、寛政年間を経て文政年間にいたるまで、勧進相撲興行の中心は回向院とされてきました。

やがて天保4年(1833年)より回向院は春秋2回の興行の定場所となり、明治42年(1909年)の旧両国国技館が完成するまでの76年間、「回向院相撲の時代」が続きました。



力塚



回向院相撲記

力塚の碑は、昭和11年(1936年)に相撲協会が歴代相撲年寄の慰霊のために建立したものですが、その後も新弟子たちが力を授かるよう祈願する碑として、現在も相撲と回向院とのつながりを示す象徴になっています。

力塚の後方に江戸時代からの相撲の歴史を刻んだ「回向院相撲記」の石碑も建てられています。


回向院の境内北側が旧国技館跡です。

旧国技館は、天保4年(1833年)から回向院で相撲が行われていたことから、明治42年(1909年)に、その境内に建設されました。
ドーム型屋根の洋風建築で、収容人員は1万3千人でした。

しかし、東京大空襲までに、3度の火災に見舞われるなど御難続きで、戦後は米軍に接収されました。ただし、相撲興行は国技館で行われていました。


返還後は日大講堂として使用されていましたが、昭和58年(1983年)に解体されました。

両国シティコアビル中庭にはタイルの模様で、当時の土俵の位置が示されています。

大相撲は昭和29年(1954年)から蔵前国技館で行われるようになりましたが、地元の誘致運動により、昭和60年(1985年)に新国技館が復活し、「相撲の町両国」が復活しました。


国技館土俵跡



ねずみ小僧次郎吉の墓と削るための石

境内にねずみ小僧次郎吉の墓があります。

時代劇で義賊として活躍するねずみ小僧は、黒装束にほっかむり姿で闇夜に参上し、大名屋敷から千両箱を盗み、町民の長屋に小判をそっと置いて立ち去ったといわれ、その信仰は江戸時代より盛んでした。

長年捕まらなかった運にあやかろうと、墓石を削りお守りに持つ風習が当時より盛んで、現在も特に合格祈願に来る受験生方があとを絶たないとのことです。


鼠小僧次郎吉の墓の前側には、削るための墓石と削る道具として石が準備されています。


回向院の右側の住友不動産両国ビルの右奥に「両国花火資料館」があります。

両国花火資料館は、瞬間の芸術といわれる花火の歴史や芸術性をより深く理解してもらうために、日本の納涼花火大会発祥の地である両国に、平成3年3月開館したものです。

2尺玉から3号玉まで原寸大の大きさの花火玉と花火の仕組みがわかるカットモデルや、実際に使われている打ち上げ筒などが展示されています。

また、隅田川花火大会の年表や錦絵など、隅田川花火大会の今昔もわかります。


両国花火資料館



春日野部屋 最近の相撲部屋は鉄筋コンクリートの高層ビルです



春日野部屋

回向院の境内の裏手から出て右方向に50mほど進んだ交差点を左折し、「一の橋通り」に沿って50mほど進んだ最初の交差点を右に50mほど入ると「春日野部屋」があります。

「一の橋通り」に戻り200mほど進んだところが「一之橋」です。

江戸幕府は低湿地であった本所の開発にあたり、洪水の被害を最小限に止めるため排水路を碁盤目状に開削し、掘り出した土を陸地の補強、嵩上げに利用しました。

排水路は隅田川に対し、縦・横に開削されました。


万治元年(1659年)縦の代表格、堅川の開削と同時に架けられ、隅田川から入って一つ目の橋という意味で命名されたのが、この「一之橋」で長さ13間、幅は2間半ほどありました。

堅川の両岸には全国から水運でもたらされる様々な物品を扱う商家や土蔵などが建ち並び、橋を行き交う人も多く、大いに賑わいました。

「一之橋」は赤穂浪士が泉岳寺に引き揚げる際に、最初に渡った橋としても知られています。


一之橋



一之橋から隅田川の方向を望む



江島杉山神社

「一之橋」を渡って2つ目の細い路地を左手に入ったところが「江島杉山神社」です。

鍼術の神様・杉山和一が、5代将軍綱吉から・ここ本所一つ目に約1万2千平方メートルの土地を拝領し総禄屋敷を建て、その西隣に弁天材の一社を建立したのが、江島杉山神社の始まりです。

江の島の江の島弁財天と杉山和一総検校が祀られています。



江島杉山神社



江島杉山神社


杉山和一は、現在の三重県津市の出身で幼い頃に失明しましたが、江戸に出て鍼術を学び、江の島弁天の岩屋に籠もり鍼術の一つである管鍼術を授かりました。

その後、京都でも鍼術を学び、再び江戸に戻り鍼の名人として活躍しました。

この評判を聞いた綱吉は、和一を「府持検校」として召し抱え、日夜自分の治療に当たらせました。

治療の功績により、一つ目の土地と関東総禄検校職が、綱吉から与えられました。


杉山和一総検校の碑



出羽の海部屋

「江島杉山神社」から東方向に50mほど進んだ最初の交差点を左折し、「塩原橋」で堅川を渡り、3つ目の交差点を右折して100mほど進んだ左手が「吉良邸跡・本所松坂町公園」です。

「塩原橋」から「吉良邸跡・本所松坂町公園」に向かうまでの間に、「出羽の海部屋」「吉良邸裏門跡」「相撲写真資料館」などがあります。



吉良邸裏門跡


「相撲写真資料館」は、昭和4年から67年間、相撲協会専属を務めてきた工藤写真館が、その間に撮られた所蔵写真を展示しています。

「旧国技館から新国技館までの人や街の変遷」「写真で見られる幕内力士番付表」等々、相撲ファンのみでなく訪れた人の目を楽しませてくれます。

さらに、公式行事以外に各相撲部屋から依頼された写真もあり、お相撲さんの「七五三」や「お宮参り」の写真なども見ることができます。

開館日は毎週火曜日のみです。


相撲写真資料館



吉良邸跡・本所松坂町公園



吉良上野介義央の座像

本所松坂町公園は「忠臣蔵」で広く知られる、赤穂義士の討ち入りがあった、吉良上野介義央の上屋敷跡です。

その昔、吉良邸は松坂町1、2丁目(現両国2、3丁目)のうち約8400平方メートルを占める広大な屋敷でしたが、年を経て一般民家が建ち並び、いまではその面影もありません。


昭和9年(1934年)地元町会の有志が、遺跡を後世に伝えようと、邸内の「吉良の首洗いの井戸」を中心に土地を購入し、同年3月史跡公園として東京市に寄付したものです。

周囲の石壁は、江戸時代における高家の格式をあらわす海鼠壁(なまこべい)長屋門を模した造りで、園内には、元吉良邸にあった井戸や稲荷社などの遺跡があり、当時を偲ばせています。

また、内部の壁面には義士関係の記録や絵画が銅板で展示されています。


みしるしの井戸



時津風部屋

本所松坂町公園を出て、海鼠塀に沿って左折し、50mほど進んだ右手に「時津風部屋」があります。

時津風部屋の建物に沿って右折したところが玄関で上部に「双葉山相撲道場」と掲げられていました。


時津風部屋から道路を挟んだ東側が両国小学校で、その北西側に隣接して芥川龍之介の文学碑があります。

この文学碑は龍之介の代表作の一つである「杜子春」の一節を引用したものです。

両国の地に成育し、両国小学校で学んだ近代日本を代表する作家・芥川龍之介の人生観を学び、氏の文才を偲ぶものとして、両国小学校創立115周年の記念事業として、平成2年に建立されたものです。


芥川龍之介の文学碑



両国公園



勝海舟生誕の地の碑

両国小学校の東側が両国公園で、この公園内に「勝海舟生誕の地」の碑があります。

江戸無血開城や咸臨丸での日本人初の太平洋横断など、幕末から明治の激動期に活躍した勝海舟は、文政6年(1823年)に本所亀沢町(現在は墨田区両国4丁目)の父の実家である男谷家で生まれ、7歳まで育ちました。

男谷邸は両国公園となり、公園内に「勝海舟生誕の地」の石碑があります。

石碑は、西郷隆盛の孫で法務大臣の西郷吉之助の筆によるものです。



江戸東京博物館


両国公園から東方向に150mほど進むと広い道路が左右に走っています。

清澄通りです。左折して清澄通りに沿って進み、「緑1丁目」の交差点で京葉道路を横切り、200mほど進んだJR京葉線のガードを過ぎると、左手が「江戸東京博物館」です。

今回のコースには「江戸東京博物館」は含まれていません。

「江戸東京博物館」の建物を横目に100mほど進んだ「江戸東京博前」の信号を右折すると「北斎通り」です。


北斎通り



両国湯屋・江戸遊

「北斎通り」を200mほど進むと右手に緑町公園があります。

緑町公園の手前を右折して30mほど進んだところが、江川太郎左衛門屋敷跡です。

江川太郎左衛門は、伊豆韮山を本拠地とした幕府の世襲代官で、太郎左衛門とは江川家の代々の当主の通称です。

なかでも有名だったのが、36代の江川英龍です。


英龍は、洋学、とりわけ近代的な沿岸防備に強い関心を寄せました。

わが国に西洋砲術を取り入れ、韮山に反射炉を築いて、江戸防御のため江戸湾内の数ヶ所に砲台(お台場)を造りました。

また、国防上の観点から、パンの効用に着目して日本で初めてパンを焼いた人物です。

この屋敷は代官の役所も兼ねていて、米国から10年振りに帰国した中濱万次郎を敷地内の長屋に住まわせ、英語を講義させてといわれています。

江川太郎左衛門屋敷跡



野見宿禰神社



初代から46代までの横綱

北斎通りに戻り緑町公園から100m程東に進んだ右手が野見宿禰神社です。

かつてこの東側に高砂部屋がありました。

明治18年(1885年)に親方の高砂浦五郎が、津軽家上屋敷の跡地であったこの地に、相撲の神様として知られる野見宿禰を祀ったのが、この神社の始まりです。


石垣の石柱には、力士や相撲関係者の名前が刻まれており、本場所前には必ず、相撲協会の神事が行われます。

境内には、昭和27年(1953年)に相撲協会によって建てられた歴代横綱石碑があり、その一基には、初代の明石志賀之助から46代朝潮太郎までの名前が、もう一基には47代柏戸剛以降の名前が刻まれています。


47代以降の横綱 日馬富士はまだ刻まれていません



葛飾北斎生誕の地の案内板

野見宿禰神社の傍の信号で北斎通りを横切った右手に「葛飾北斎生誕地」の案内板があります。

宝暦10年(1760年)江戸本所南割下水(現在の墨田区亀沢)に生まれた葛飾北斎は、浮世絵の役者絵を出発点として、狩野派、光琳派、大和絵など、様々な流派の技法を学び、新しい画風をどんどん確立させて、多くの名作を残しました。


代表作「冨嶽三十六景」は、天保2年(1831年)から天保4年(1833年)にかけて制作した作品です。

70歳を過ぎてからの作品です。

北斎は80歳を過ぎてからも創作意欲は衰えず、死の床に就いた嘉永2年(1849年)「あと10年、いや5年でも良いから生きさせてくれ。そうすれば真の画工になれる」といって息を引き取ったといわれています。

常に新しい画法に取り組んできた北斎らしい臨終の言葉といえます。


町歩き・北斎ギャラリー



町歩き・北斎ギャラリー

北斎通りに「町歩き・北斎ギャラリー」があります。

「町歩き・北斎ギャラリー」は、北斎通りの街路灯や公園内トイレに、北斎の浮世絵シールを貼り、街歩きしながら葛飾北斎に親しんでもらおうというものです。

作品は墨田区所蔵の北斎の作品から選ばれた103点です。

103箇所の北斎画街歩きマップも配布されています。



長崎橋跡の傍の広場 最初のスカイツリー撮影スポット


「葛飾北斎生誕地」の案内板から東方向に500mほど進むと「大横川親水公園」です。

「大横川親水公園」は、平成5年(1993年)4月に大岡川を埋めて緑と清流を復活させた公園です。

業平橋の北から堅川の合流地点まで、約1.8Kmにわたり、5つのゾーンに分かれています。




大横川親水公園からの東京スカイツリー


大横川親水公園からの東京スカイツリー


今回は北斎通りの「長崎橋跡」から大横川親水公園に入りましたので、4つのゾーンを歩きました。


最初のゾーンが「パレットプラザゾーン」で、総武線鉄橋〜長崎橋跡〜清平橋のエリアです。

長崎橋跡から大横川親水公園に入ると広い広場が広がっており、その前方に東京スカイツリーが聳えており、今回の「駅からハイキング」のテーマの「東京スカイツリーを眺めながら・・・・」の最初のスポットです。



大横川親水公園・紅葉ゾーン


「パレットプラザゾーン」の上流が「花紅葉ゾーン」で、清平橋〜法恩寺橋〜紅葉橋です。

小川に沿って草木が生い茂り、緑の多いエリアです。

紅葉橋に近づくと紅葉の木が増え、少し色付いている紅葉も見られました。


大横川親水公園・紅葉ゾーン



大横川親水公園・紅葉ゾーン この先が紅葉橋



大横川親水公園・河童川原ゾーン

この手前を左に行くと能勢妙見堂

紅葉橋から西方向に100mほど進んだところに「能勢妙見堂」があります。

勝海舟が9歳の時、読書の勉強から帰宅の途中、暴れ犬にかまれて大怪我をします。

このため父・小吉が能勢妙見堂に日参して水垢離をしながら看病し、九死に一生を得たといわれています。

境内に海舟の胸像がありますが、今回はパスしました。


「花紅葉ゾーン」の上流が「河童川原ゾーン」で、紅葉橋〜横川橋〜平川橋です。

散策路も広がり、やや開放的なゾーンです。

滝やせせらぎもあり、子供たちが水と親しめるようになっています。

このゾーンに「ささやカフェ」(チェックポイント)があります。


ささやかカフェ



大きな釣り堀



新しくできた花壇 右前方が東京スカイツリー



業平橋からの東京スカイツリー


業平橋からの浅草通りの展望


「河童川原ゾーンの上流が「釣り川原ゾーン」で、平川橋〜業平橋です。


大きな釣り堀があります。

釣り堀の業平橋寄りの花壇は、東京スカイツリー開業に伴い、新しく整備された花壇です。


業平橋の北側に船の形をした公園管理事務所があります。

船の上から地面まで長いすべり台があって、子供たちの遊び場になっています。

また、東京スカイツリーを背景に自分の写真を撮影できるミラーが設置されています。新しい人気スポットです。



東京スカイツリーを眺めながらぐるり墨田まち歩き その2へ


        風来坊


新しい散策スポット


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