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風情ある荒川区の街並み散策と歴史ある寺院めぐり その1 (H24.11.20)


JR西日暮里駅から北東に向かいます 前方は日暮里・舎人ライナー



童子像「飛翔」

JR東日本の「駅からハイキング&ウォーキングイベント」の「風情ある荒川区の街並み散策と歴史ある寺院めぐり」に参加しました。

サブタイトルは「『荒川区』の語源って近くを流れる隅田川が昔『荒川』だったことから付いたなんて知っていましたか?」です。


コースの概要は次のとおりです。

JR西日暮里駅(受付)→円通寺→ドナウ広場→JR南千住駅(チェックポイント)→回向院→善性寺→本行寺→よみせ通り商店街→ツーリストインフォメーションYANEAEN(ゴール)→JR西日暮里駅

コースの歩行距離は約11.1km、歩行時間は約2時間50分(施設での見学時間を除く)、所要時間約3時間50分(施設での見学時間等を含む)です。

写真を撮りながら廻りましたが、所要時間は3時間50分、約1万8千歩でした。


日暮里・舎人ライナー



京成本線

JR西日暮里駅で受付を済ませ、右方向に出ると前方に日暮里・舎人ライナーのガードが見えます。

ガードの下に「童子像」が置かれています。

二体のブロンズ像は、不動明王に従う童子をモチーフとし、悪事災難を取り除き、あらゆる困難を打ち破る武具として男の子は「金剛棒」、女の子は「三鈷杵(さんこしょ)」「輪宝(りんほう)」を手にしています。

「力強さ」や「知恵」「思いやり」を表現している童子たちに、未来を担う子供達の成長への願いが込められています。



宮地交差点 左前方のガードを潜って右折です


日暮里舎人ライナーのガードの先に京成本線のガードがあります。

これらのガードを過ぎて道なりに1Kmほど進むと「宮地」の交差点です。

「宮地」の交差点を横切り、その先のガードを潜って右折すると明治通りです。

明治通りに沿って500mほど進んだ左手が「荒川公園」です。


明治通りに合流します



荒川公園



荒川公園

「荒川公園」は荒川区役所の正面玄関の南東に広がる公園で、区役所公園とも呼ばれています。

春にはソメイヨシノやシダレザクラが咲き誇る人気のお花見スポットです。

夏は釣り池や水遊びが楽しめる“せせらぎ”、秋は紅葉、四季折々の顔を見せる憩いの場となっています。


また、中央に位置する噴水の周りでは、ベンチに腰掛けてお弁当を拡げたり、おしゃべりを楽しむ人々が集う、みんなの憩いの場所になっています。

スベリ台やブランコなどの遊具のあるエリアは、小さな子もいろいろな遊び方ができるので毎日のお散歩にぴったりの公園です。


荒川公園



明治通りから分かれて左前方の道路を進みます



目印のミニストップ

荒川公園から100mほど進むと多くの道が交叉している「サンバール荒川前」の交差点です。

明治通りから別れて左斜め前方の比較的幅の広い道路を100mほど進むと右手が都電荒川線の「荒川区役所前」の停留所です。

さらに100mほど進んだところが「NTT荒川前」の信号で、左手にミニストップがあります。


道なりに300mほど進むと左手が「荒川総合スポーツセンター」です。

さらに400mほど進んだ「南千住警察署入口」の交差点を右折して、日光街道に沿って100mほど進んだ右手が「円通寺」です。

最初のスポット円通寺まで、40分ほど経過しています。


荒川総合スポーツセンター



円通寺



円通寺

円通寺は、延歴10年(791年)、坂上田村麻呂によって創建されました。

石造七重の塔の銘に

「七層虚をあお凌ぎ、貞石兪々新たなり、永く惠日懸りて、枯木も常に春なり」

とあり、別の面に円通寺の由緒が刻まれています。現存する荒川区最古の石文です。

江戸時代「下谷の三寺」として下谷・廣徳寺、入谷・鬼子母神と共に、箕輪の圓通寺として有名でした。



彰義隊の墓


円通寺には、彰義隊の墓があります。

慶応4年(1868年)5月15日、上野戦争で戦死した彰義隊の遺体は、賊軍であることから戦場に散乱放置されたままでしたが、当時の住職が決死の覚悟で上野に出向いて供養したことにより、円通寺に埋葬供養の官許が下り、遺骸266体を上野山内で荼毘に付し円通寺に埋葬しました。


円通寺



上野恩賜公園 彰義隊の碑

彰義隊戦死者は、豪商・三河屋幸三郎の助力を得て、現在の西郷隆盛銅像の後方で火葬され、その場所に記念碑が建立されています。墓ではありません。



黒門


上野戦争で彰義隊と官軍の激戦が展開されましたが、その中心地に建っていたのが黒門です。

彰義隊士の遺体を埋葬供養した縁で、明治40年(1907年)に皇室博物館から円通寺に移築されたものです。

上野戦争の激しさを伝える数多くの弾痕が残っています。


黒門に残る数多くの弾痕



黒門に残る数多くの弾痕

彰義隊士の墓の隣に死節の墓があります。

彰義隊の供養に尽力した三河屋幸三郎が向島の別荘に秘そかに立てて、鳥羽、伏見、函館、会津などの各藩士の戦死者の氏名を彫って供養をしていたものを、円通寺に移築したものです。


やはり賊軍のため、おおっぴらな供養が当時はできなかったためと思われます。

しかしながら、官許のある円通寺に移築することにより、彰義隊と合わせて供養が出来ることになったものです。

土方歳三、近藤勇など97名の名前と「神木隊二十八名」と彫ってあります。


死節の墓



素戔雄神社



素戔雄神社



素戔雄神社

「円通寺」をでて左折し、日光街道に沿って400mほど進んだ左手が「素戔雄神社(すさのおじんじゃ)」です。

「素戔雄神社」は、素盞雄大神(すさのおおおかみ)と飛鳥大神(あすかおおかみ)を祭神とする神社で、延歴14年(795年)の創建と伝えられています。

創建以来、二柱を別々の社殿に奉斎していましたが、享保3年(1718年)焼失し、享保12年(1727年)に瑞光殿を建築して合祀しました。

「素戔雄神社」は、南千住、三ノ輪、三河島、町屋など61町にも及ぶ区域の総鎮守です。

例祭「天王祭」は、都内でも珍しい二天棒の神輿で神輿振りをすることで知られています。

境内に「瑞光石」があります。

御祭神の素盞雄大神と飛鳥大神が光を放ち降臨した小塚の中の奇岩を「瑞光石」といいます。


文政12年(1829年)編纂の「江戸近郊道しるべ」には、千住大橋架橋の際、この瑞光石の根が大川(現隅田川)まで延びていたために橋脚が打ち込めなかったという伝承が紹介されています。

また、この小塚から「小塚原」の地名が起こり、「江戸名所図会」には「飛鳥社小塚原天王宮」と紹介され、弁天様を祀る御手洗池、茶屋など当時の情景を窺うことができるようです。

さらに、周辺小学校の名称に冠された「瑞光」もこの瑞光石に因むものとのことです。


瑞光石



素戔雄神社から荒川土手に向かう道路



左は荒川

「素戔雄神社」から左方向に50mほど進んだ信号で日光街道を横断し(日光街道のガード下を抜ける)、「お食事折詰仕出し 六車」の横を通り、300mほど進むとJR常磐線と東京メトロ日比谷線のガードがあります。

ガードを抜けると荒川沿いの道路になりますが、金網が張られていて川堤に出ることができません。

300mほど進むと信号があり、その場所から階段を登ると荒川土手に登ることができます。



荒川土手 ここから上流は土手の散策路が未整備のようです



胡禄神社


荒川土手下の道路に戻り、信号からさらに300mほど進んだ右手が胡禄神社です。

胡録神社は永禄4年(1561年)8月、川中島合戦で敗れた上杉家の家臣高田嘉左衛門が12名の同志と関東に厄難を逃れて落ち延び、当地の汐入を永住の地と定めて土着し、村落生活の安寧を祈願するため、守護神として創建したと伝えられています。

汐入の辺りはその昔、蛎殻を石臼にかけ胡粉という人形の上塗りの塗料を造り出荷する生業が盛んでしたが、境内には古き石臼が奉納されているとのことです。


胡禄神社



リバーハーブ公園

胡禄神社を反対側に抜け、右折して200mほど進んだ丁字路を左折して300mほど進むと右手にリバーハーブ公園があります。

リバーハーブ公園を右に見て右折すると、これまで歩いてきた荒川区とは全く異なる景観が目の前に広がります。

前方に続いている広い道路が「ドナウ通り」です。



ドナウ通り



ドナウ通り&南千住駅東口複合商業施設



ドナウ広場


ここは南千住再開発地域です。

南千住駅東口「ドナウ広場」とそれに続く道路「ドナウ通り」は、荒川区とウィーン市ドナウシュタット区との交流を記念して命名されたものです。

ドナウシュタット区内にも「東京通り」、「荒川通り」と命名された街路があるとのことです。

両区の交流は、平成8年(1996年)の友好都市提携から続いています。


ドナウ広場



JR南千住駅

ドナウ広場には、両区の永遠の友好を願って、「ドナウの調べ」と名付けられたブロンズ像が設置され、広場は人々の憩いの場となっています。

「ドナウ広場」の南端から階段を降りて進んだところが、JR南千住駅の改札口で、その傍が「駅からハイキング」のチェックポイントです。





風情ある荒川区の街並み散策と歴史ある寺院めぐり その2へ



        風来坊


JR南千住駅西口


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