天下統一を競った武田信玄亡き後の武田勝頼は、織田、徳川の連合軍に敗退し、天正10年(1582年)3月3日、郡内の岩殿城で再興を図ろうと韮崎の新府城を出発し、途中この柏尾山大善寺で戦勝を祈願して一夜を明かしました。
しかし、武田家再興がかなわないと見た家臣の大半は夜半に離散し、また、岩殿城主小山田信茂の裏切りに合い、勝頼主従は天目山を目指しましたが、織田、徳川の連合軍に行く手を阻まれ、ついに3月31日、勝頼以下一族と家臣は自決し、新羅三郎義光以来500年続いた甲斐源氏も滅亡しました。
その一部始終を目撃した理慶尼が記した理慶尼記は、武田滅亡記ともいわれ、尼の住んでいたこの大善寺に今なお大切に保管されています。
勝頼の家臣たちは、勝頼を最後まで裏切ることなく守り、戦死しましたが、その子供たちは、後に徳川家康に重用され、江戸時代には各地の城主に任命されました。勝頼最後の「宿」となった薬師堂にはその子供たちから寄進された文殊菩薩、毘沙門天が今でも大切に安置されています。
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