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上田城本丸への入口の東虎口櫓門
東虎口櫓門と南櫓
東虎口櫓門
上田市は戦国の名武将・真田幸村ゆかりの城下町です。 上田市は、長野県東部(東信地方)の中心都市で、人口は長野県で3番目です。 千曲川右岸の旧市街は、戦国時代に真田氏が築いた上田城を中心とする城下町です。 千曲川左岸の塩田は鎌倉時代の執権北条氏の一族塩田北条氏の所領で、安楽寺、北向観音などの多くの文化遺産が残されており、「信州の鎌倉」と呼ばれています。
今回は桜の名所としても知られる上田城址公園と、城下町の風情を漂わせるノスタルジックな街並み柳町を訪ねました。 上田城は天正11年(1583年)、真田幸村の父、真田昌幸によって築かれた平城です。 真田氏は、この上田城に立て籠もり、天正13年(1585年)と慶長5年(1600年)の2度にわたる徳川の大軍の攻撃を退け、天下にその名を鳴り響かせましたが、関ヶ原合戦後、上田城は取り壊され廃城となりました。
南櫓
北櫓 左下に真田石 右は素晴らしい枝垂れ桜
元和2年(1616年)真田信之が上田藩主となりましたが、幕府の命令で元和6年(1622年)に松代城へ移ったため、上田城の整備はできませんでした。 元和8年(1622年)、真田信之に代わり城主となった千石忠政は、幕府の許可を得て、寛永3年(1626年)上田城の復興工事に着手しました。
これにより、本丸7つ櫓、2つの櫓門、二の丸の堀、土塁及び各虎口の石垣等が再建されましたが、忠政死後、工事は行われず、上田城復興は未完成のまま終わりました。 千石忠政により復興された上田城は、千石政明や次の城主である松平氏により部分的な改修工事を受けながらも、大きな変革もなく幕末に至っています。
北櫓
明治7年、民間に払い下げられ再び廃城となった上田城は、桑畑麦畑等に化していきました。 こうした中、本丸付近を一括して購入し所有した豪商丸山平八郎は、明治12年、松平神社(現在の真田神社)創建にあたり、本丸南側の土地を神社用として寄付、ついで明治26年には、残りの土地を遊園地用として寄付しました。 この結果、本丸内は細分化されることなく、公園としての整備が可能となり、上田城址の公園化の第一歩となりました。
本丸跡
その後、本丸、二の丸のほぼ全域が市民公園(上田城址公園)として整備されることとなり、昭和9年には、上田城址が史跡に指定されました。 また、民間に売却され移築されていた2棟の櫓は、昭和18年から24年にかけて上田城内に移築工事が行われ、取り壊しを免れた西櫓とともに、昭和34年、県宝に指定されています。
真田石 一番大きな石です
真田石 上田城址公園に東側からはいると、正面にあるのが東虎口櫓門です。 この東虎口櫓門の正面右手にある巨石が真田石です。 高さ2.5m、横3mある巨石で、築城のおりに柱石として据えられたと伝えられています。 真田信之が松代移封を命じられた際に、この石だけは父の形見として持っていこうとしましたが、微動だにしなかったと伝えられています。
東虎口櫓門の両側にある北櫓、南櫓には登ることができます。 南櫓は2階に上がることができ、格子の合間からですが、上田市内の一部を展望することができます。
南櫓からの上田市の展望
南櫓からの上田市の展望 右は西櫓
南櫓からの北櫓
大阪夏の陣図屏風(複製) 北櫓に大阪夏の陣図の屏風が展示されていました。 慶長20年(1616年)5月7日の夏の陣では、東軍と西軍合わせて21万人という大軍が空前の激戦を繰り広げました。
大阪夏の陣図の屏風(複製)
展示されている屏風は、夏の陣に参戦した徳川方の黒田長政が戦後間もなく、その記念に描かせたもので、福岡藩主黒田家旧蔵品です。 中央の天王寺の鳥居の前が赤備えの真田幸村隊で、馬上の鹿角兜の武将が幸村です。 その後方にやはり鹿角兜の幸村の長男大助が見えます。
真田幸村(右側白丸)と長男大助(左側白丸)
六連銭
六連銭 また、櫓門には六連銭の旗が掲げられていました。 真田家の家紋として名高く、六文銭とも呼ばれますが、これは仏教説話の六連銭に由来する家紋です。 銭六文を死者の棺に入れて六地蔵を供える風習にのっとり不惜身命を唱える武士にとってふさわしい旗印でした。 東信濃の古来以来の豪族滋野(海野)氏の代表家紋でありその流れをくむとしている真田氏もこれを用いました。
真田神社
真田神社 東虎口櫓門を入って正面にあるのが真田神社です。 真田神社は天正11年(1583年)、上田に平城を築き城下町を造った真田父子を主神とし、江戸時代に民政を尽くした千石・松平の歴代藩主を祭神とする神社です。 ことに10数倍の大軍を2回にわたり撃退して知将と歌われた真田昌幸、幸村になぞらえ学業のご利益があるとして有名です。
真田赤備え兜
真田赤備え兜 真田神社の前に、真田赤備え兜が置かれていました。 2度にわたり徳川の大軍の攻撃を退けた真田の「知勇」は天下に轟き、大阪夏の陣において武具を赤で統一した「真田赤備え」部隊を率いた真田幸村がかぶった朱色で鹿角型の兜が「赤備え兜」です。 真田幸村は「愛」と「義」の捨て身の活躍で「日本一(ひのもといち)の兵(つわもの)」と称されました。
真田井戸 真田神社の裏手にある井戸が真田井戸です。 この井戸から北約1キロにある太郎山山麓に通じる抜け穴があったとのことです。 城を包囲されても、この抜け穴により城兵の出入りや、兵領の運び入れにも不自由しなかったといわれています。
真田井戸
西櫓
西櫓 西櫓は、江戸時代初期の寛永3〜5年(1626〜1628年)にかけて真田氏の後に城主となった千石氏によって建てられ、上田城で建築当初のままに残されている唯一の建物です。 外壁は、雪の多い地方で用いられる腰下見板が張られ、壁の上部から軒廻りにかけては防火のために白漆喰で柱などを塗りこめた大壁造りとなっています。
また、壁に設けられている穴は、弓矢や鉄砲を撃つためのもので、長方形の弓狭間と方形の鉄砲狭間があります。窓は縦格子の付いた突き上げ板戸です。 西櫓は、上田城本丸の西虎口(出入口)を固める重要な櫓でしたが、戦争のなかった江戸時代には、もっぱら倉庫として使用されていました。 また、櫓の名称も江戸時代には特になく、西櫓の名称は、南櫓と北櫓が復元された後に付けられた名称です。
上田城址公園東側入口
上田市立博物館
上田城址公園内には上田市立博物館、山本鼎記念館などがあります。 上田市立博物館は、中世以降の上田地方の歴史を通観できる資料が展示されています。
山本鼎の記念館は、農民美術運動を指導した洋画家・山本鼎の記念館です。 油彩や版画などの資料や木彫りの農民美術作品が展示されています。
山本鼎記念館
藩主居館跡
藩主居館表門(上田高等学校の正門)
藩主居館跡 上田藩主の居館は、真田氏、千石氏、松平氏の各時代を通して、現在の長野県上田高等学校の敷地となっている場所にあり、「御屋形(おやかた)」と呼ばれていました。 四囲に堀と土塀を巡らした陣屋の構えを取っていました。 堀を含めた敷地の広さは、東西約135m、南北約135mでした。
居館の遺構である表門、土塀、堀などに往時の姿をとどめています。 表門は、寛永2年(1790年)に再建されたものです。 表門は上田高等学校の正門として使用されています。
上田市観光会館(上田城址公園入口)
アクセス 上田城址公園まで上田駅から徒歩15分 関連のホームページ 上田観光コンベンション協会 上田散策その2へ 風来坊