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39番出口から地上に出ると市役所通りです
銀座街
駅からハイキングの「川崎駅開業140周年:川崎大師と歴史の街並みウォーク」に参加しました。 コースの概要は次のとおりです。 川崎駅→川崎アゼリアインフォメーション内(川崎市観光案内所)(スタート)→六郷の渡し跡→川崎河港水門→瀋秀園(しんしゅうえん)→川崎大師→川中島神明神社→藤崎願掛け地蔵→ラ チッタデッラ(複合商業施設)→川崎アゼリアインフォメーション内(川崎市観光案内所)(ゴール)→川崎駅
コースの歩行距離は約10.3km、歩行時間は約2時間50分です。 今回は昼食時間を含み3時間40分、約1万7千歩でした。 写真を撮りながらでしたが、意外と早かったです。 川崎駅改札口を出て右方向に進み、エスカレーターで2フロア下がったところが川崎アゼリア地下街で、スタートポイントの川崎観光案内所はエスカレーターを下りた右前方にあります。
銀柳街
砂子の信号 ここを左折です
川崎市観光案内所で受付を済ませた後、川崎アゼリア地下街を移動して出口39から地上に出ると市役所通りです。 銀座街、銀柳街を左右に見て、そのまま真っ直ぐ100m程進むと「砂子」の信号で、その先左手に三井住友銀行があります。 信号を渡らずに左折すると「旧東海道」で、川崎宿のあった場所です。
旧東海道
旧東海道川崎宿には、大名や公家などが宿泊する本陣、宿駅の業務を司る問屋場、近村より徴発した人馬が集まる助郷会所、高札場や火之番所などの公的施設をはじめ、旅籠や商家など350軒ほどの建物が約1400mの長さにわたって軒を並べ、賑わいを見せていました。
もともと、川崎宿あたりは砂浜の低地で、多摩川の氾濫時には、冠水の被害に見舞われる地域でした。 このため、旧東海道は砂州の微高地上を通るように配置がなされ、さらに川崎宿の設置にあたっては、宿域に盛土が施されたとのことです。 現在でも砂子から小土呂あたりを歩いて見ると、旧街道筋が周囲よりも幾分高いことがわかるとのことです。
惣兵衛本陣(中の本陣)跡
川崎宿には3つの本陣がありました。 旧東海道と市役所通りが交差する付近に佐藤本陣(上の本陣)、市役所通りから旧東海道に入り最初の信号傍に惣兵衛本陣(仲の本陣)、本町1丁目の信号傍に田中本陣(下の本陣)がありました。 3つの本陣で最も古くからあったといわれる田中本陣は、寛永5年(1628年)に設置されています。
本陣の構造は、武士階級を宿泊させるために、当時の一般民家には許されなかった門や玄関構え、上段のある書院など、書院造りを取り入れた空間と、本陣の主の一家の生活空間との2つを併せ持っていました。 建物の改造や再建には、幕府や諸藩から助成を受け、半官半民的な運営がなされていました。
田中本陣(下の本陣)跡
砂子の里資料館
市役所通りから「旧東海道」に入り、100m程進んだ左手にあるなまこ壁の建物が「砂子の里資料館」です。 「砂子の里資料館」は、川崎南部の文化拠点として、2001年に旧東海道川崎宿に開館した美術館です。 斎藤文夫館長の浮世絵のコレクションが展示の中心となっており、浮世絵を中心に毎月企画展が開催されます。 館内には川崎宿の復元模型が展示されており、本陣の場所も確認できます。
宗三寺
「砂子の資料館」から100m程進んだ左手に「宗三寺」があります。 中世前期に、この付近は「川崎荘」と呼ばれる一つの地域単位を構成していましたが、その時代に荘内に勝福寺という寺院があり、「宗三寺」はその後身とみられ、戦国時代にこの地を知行した間宮氏が「宗三寺」を中興しています。
墓地には、川崎宿貸座敷組合の建立した遊女の供養碑があります。
遊女の供養碑
高架の下をくぐります
六郷橋と多摩川
武州六郷舩渡図
そこで慶長5年(1600年)、徳川家康は六郷川に六郷大橋を架けました。 以来、修復や架け直しが行われましたが、元禄元年(1688年)7月の大洪水でながされた後は、架橋をやめ明治に入るまで船渡となりました。 渡船は、当初は江戸の町人らが請け負いましたが、宝永6年(1709年)3月、川崎宿が請け負うこととなり、これによる渡船収入が宿の財政を大きく支えたとのことです。
明治天皇六郷渡御碑
欄干の渡船のモニュメント
現在は、六郷橋が架けられており、その上を走っているのが「第一京浜(国道15号)」です。 六郷橋の川崎側に渡船跡の碑と、明治天皇六郷渡御碑が建ち、欄干に渡船のモニュメントがあります。 明治天皇六郷渡御碑に「武州六郷舩渡図」と題されたレリーフがはめ込まれており、多摩川に舟を並べて橋のようにした上を行列が渡っている様子が描かれています。
多摩川土手の遊歩道
「六郷の渡し跡」から多摩川の土手の砂利道を下流方向に500mほど進むと、砂利道が右にカーブし左前方に大きな水門が見えてきます。 水門の手前で砂利道が3つに分かれており、真ん中の砂利道を水門の方に進みます。 大きな水門は「川崎河港水門」です。
遊歩道の分岐点
川崎河港水門
大正7年(1818年)から行われた多摩川改修工事の一環として、川崎市内を縦断する運河を造ることが計画され、「川崎河港水門」は、運河と多摩川を仕切る水門として昭和3年(1928年)に竣工しました。 鉄筋コンクリート造りで高さ20.3m、水門幅10mです。
「川崎河港水門」は完成したものの、社会情勢の変化により運河建設計画は中止され、水門から約220m掘られていた運河は埋め立てられ、水門近くの約80mが船溜まりとして残るのみとなっています。 水門は、砂利の陸揚げ施設として、砂利運搬船等の出入りに現在も利用されています。 水門の上部には川崎市の市章と、往時の川崎の名産物であった梨、葡萄、桃などをモチーフした装飾があります。
多摩川の光景
多摩川の光景 緑色の鉄柱の先のスロープを下がります
「川崎河港水門」から多摩川土手の遊歩道を道なりに1.5Kmほど進むと右手に緑色の鉄柱があり、右下に下りることのできるスロープがあります。 スロープを下りて右折し300m程進むと「中瀬3丁目」の信号です。 「中瀬3丁目」の信号を渡り、狭い路地を50mほど進むと京急大師線の踏切があります。 踏切の左方200mに京急大師線の「東門前駅」があります。
踏切を渡って狭い路地をさらに300m程進むと丁字路になります。 丁字路の左右が「大師表参道商店街」で、丁字路の左側にあるのが「明長寺」です。 明長寺の創建は文明年間(1469年〜1487年)と伝えられていますが、寛文9年(1669年)の落雷により堂宇が焼失した後、天明2年(1782年)に現在の本堂が再建されました。 明長寺には、国の重要文化財に指定されている葵梶葉文染分辻が花染小袖(あおいかじはもんそめわけつじがはなぞめこそで)が所蔵されています。
明長寺
この小袖は、荻田主馬が大坂夏の陣の功により徳川家康から拝領した後、子孫が延享5年(1748年)に明長寺に預けたとされています。 徳川家康が使用していたとされる辻が花染小袖のうち、衣服の形で残されているのはわずかしかありませんので、当寺の小袖は桃山時代の染色衣服を知るうえで、大変貴重な文化財といえます。
瀋秀園
丁字路を左折し、最初の信号を右折して50m進んだ右手が「大師仲見世通り商店街」入口です。 「大師仲見世通り商店街」に入らずにそのまま200m程直進したところが「大師公園」です。 「大師公園」の一角に「瀋秀園(しんしゅうえん)」があります。
「瀋秀園」は、中国瀋陽市と川崎市との姉妹都市提携5周年を記念して、瀋陽市から寄贈されたもので、中国の庭園技術指導団の指導と協力の下に造成が行われ、昭和62年(1987年)に開園しました。
庭園面積は4300平方メートルで、国内では最大規模の中国式自然山水庭園です。 また瀋秀園の「瀋」は瀋陽市を指し、「秀」はきれいという意味で、「瀋陽市の素晴らしい景色を集めた庭園」という意味で瀋秀園と名付けられています。
黄色の瑠璃瓦と白壁の塀で囲まれた庭園内には、秀湖と名付けられた池のほとりに、知春亭、攬翠亭などの建物が点在しています。 また、園内は橋と園路により庭園内を回遊できるようになっており、四季の変化や築山 、石滝、建築物等連続的な景色の変化を楽しむことができます。 また、瑠璃瓦は明代、清代の皇帝の勅旨により建てられた寺廟や親王邸などに用いられたもので、端正で美しい線形を描く屋根を彩っています。
川崎散策その2へ 風来坊