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披露山からの相模湾
披露山からの相模湾 沖合には多くのヨットが!
法性寺山門
JR東日本の「駅からハイキング」のイベント「まんだら堂と相模湾の景観を楽しむ 逗子ウォーク」に参加しました。 サブタイトルは「国指定史跡『まんだら堂やぐら群』『名越切通』と披露山公園から相模湾を一望できるコースです」です。 コースの概要は次のとおりです。 JR逗子駅(受付)→法性寺山門→まんだら堂→名越切通→小坪漁港→披露山公園→逗子海岸ロードオアシス→JR逗子駅(ゴール)
コースの歩行距離は約8.5km、歩行時間約2時間45分(施設での見学時間等を除く)、所要時間約3時間45分(施設での見学時間を含む)です。 名越切り通し→小坪漁港→披露山公園のコースを見ただけで、8.5kmを2時間45分に納得です。2回の山越えです。 写真を撮りながらの散策でしたので、所要時間3時間45分、約1万4500歩でした。
山門の扁額に白猿が
法性寺本堂
今回は募集定員2000名のイベントでしたが、受付15分前に到着したところ、すでに50名程度が並んでおり、受付時刻の9時には300名ほどが並ぶという盛況ぶりでした。 JR逗子駅を出て右折し500mほど進んだ「池田通り交差点」を右折し、JR横須賀線の踏切を渡り、丁字路を左折して道なりに1キロ余り進むとJR横須賀線の踏切です。 踏切の手前を右折すると「法性寺山門」があります。
安房の清澄寺で日蓮宗を開宗した後、鎌倉入りした日蓮は、鎌倉の松葉ヶ谷に小庵を結び、布教活動を行っていました。 しかし、布教関連の争いで、松葉ヶ谷の小庵を他宗の僧に焼き討ちされた日蓮は、法性寺の寺伝によれば3匹の白い猿に導かれて、法性寺にある岩窟に逃げ延びたとのことです。
奥の院への急な階段 左側の坂道からも登れます
法性寺奥の院
日蓮が避難した岩窟
そして、弟子の日朗のここに寺を建てるように頼みましたが、日朗は寺を建てる前に亡くなったとのことです。 山号の「猿畠山」と書かれた山門の扁額には、日蓮を導いたとされる白猿があしらわれています。
緩い上り坂を200mほど進んだところが「法性寺本堂」です。 「法性寺本堂」から急な階段または急坂を上ったところが奥の院で、ここに日蓮の避難した岩窟、日朗の廟所があります。 奥の院への入口右手には白猿の石像もあります。
日朗の廟所
山王権現
白猿の石像
また、向かいの小高い塚の上に山王権現が祀られており、ここから逗子の街並みを一望することができます。
法性寺奥の院からの展望(逗子の街並み)
法性寺奥の院からの展望(披露山及び相模湾)
大切岸
奥の院の裏手に法性寺の墓所があり、その傍に切り立った崖が連なっています。 「大切岸」です。 「大切岸」は、長さ800以上にわたって高さ3〜10mの切り立った崖が尾根に沿って連続する遺構です。
従来から、鎌倉幕府が三浦一族からの攻撃に備えるために、切り通しの整備と一体のものとして築いた、鎌倉時代前期の防衛遺構だといわれてきました。
しかし、平成14年度に発掘調査したところ、大切岸は、板状の石を切り出す作業の結果、最終的に城壁のような形で堀の残されたもの、つまり石切場の跡だということが確認されました。 石切りが行われた時期ははっきりしていませんが、堆積している土砂の上層に、江戸時代の宝永4年(1707年)の富士山噴火による火山灰が含まれていることから、それより古い時代であることは確実のようです。
14〜15世紀の鎌倉では、建物基礎や溝の護岸、井戸枠などに切石が盛んに用いられていますので、名越の山中で大規模に石切りが行われたのも、その頃ではないかと考えられただし、この発掘調査の結果のみで、大切岸に防御的な目的は一切なかったと結論することはできないようです。 このような大々的な石切りを行なっても、鎌倉の街を取り囲む尾根を安易に掘り割ることはせず、あえて防御のために城壁のような崖を残したのかも知れません。
大切岸から法性寺山王権現を望む
発掘調査現場?
尾根のハイキングコース
「大切岸」の横を通って、細い坂道を上ると尾根に出ます。 この尾根はハイキングコースになっており、要所要所に案内板が設置されています。 案内板にしたがって、500mほど進んだ左手が「まんだら堂やぐら群」です。
まんだら堂やぐら群(5月撮影)
まんだら堂やぐら群(3月撮影) 4段になっています
「やぐら」は、鎌倉時代から室町時代の中世に、鎌倉で流行した横穴式の供養施設です。 鎌倉市を取り巻く丘陵部などに密集して存在しています。 「やぐら」は、山中の斜面部に多く四角形の穴をあけた洞穴で、羨道と呼ばれる入り口を経て、玄室と呼ばれるやぐら内部に至る構造となっています。 その大きさは、一辺1m〜5mで、概ね直方体の形をしています。 鎌倉時代のやぐらは羨道がありますが、室町時代のやぐらは入り口から直接玄室となっているものが多いようです。
まんだら堂やぐら群
「まんだら堂やぐら群」は、ひとつひとつは2m四方程度と小規模で、構造も単純なものが多いですが、150穴以上の存在が確認されている有数のやぐら群で、これだけまとまったやぐらを良い状態で見ることのできる遺跡は鎌倉市内でも少なく、大変貴重なものです。 やぐらの中に並ぶ五輪塔は、後の時代に動かされているものが多く、中世の姿そのままとはいえないようですが、主に火葬した骨を納めるなどして供養するために建てられたものです。
奥のエリアにもやぐら群が
葬られたのは、武士や僧侶が多かったと考えられていますが、経済力を蓄えた商工業関係者なども含まれていたのではないかと推測されています。 「まんだら堂」の名が確認できる最も古い文献は、文禄3年(1594年)の検地帳です。 しかし、そこには畠の地名として記されているのみで、「まんだら堂」がどんな建物だったのか、いつまで残っていたのかなど、詳しいことは全くわかっていません。
まんだら堂見晴台からの展望
説明を熱心に聞く観光客
「まんだら堂やぐら群」は通常は閉鎖されていますが、毎年期間を決めて臨時公開されます。 「駅からハイキング」の日は閉鎖期間でしたが、このイベントのために臨時公開されました。 5月の臨時公開中に友人を案内して訪ねましたので、写真は3月と5月撮影分が混在しています。
名越切通
「まんだら堂やぐら群」からハイキングコースに戻り、100mほど進んだところが「名越切通」です。 鎌倉は南を海に、それ以外の三方を丘陵に囲まれた要害の地形です。 鎌倉七口は鎌倉への陸路の入口で、「名越切通」はその一つです。
「名越切通」は、鎌倉から相模湾沿いに三浦半島を結ぶ交通路で、明治時代になって直下を通る横須賀線や県道が開通するまで、長い間幹線道路として使い続けられてきた重要な道です。 急峻な尾根を堀り割って造られた切通は、時代が下がるにつれて通行しやすいように改修したり、地震等で崩れては復旧を繰り返しているため、鎌倉時代の姿そのものではありません。
しかし、周辺には、横穴式の供養施設であるやぐらが約150基も集中する「まんだら堂やぐら群」や死者を荼毘した跡など、中世の葬送に関する遺構が数多く分布しています。 さらに、切り通しの防衛にも関係すると考えられる人工的な平場や大規模な石切場跡(大切岸)など、古都鎌倉の周縁の歴史的景観が残されている場所です、 「名越切通」は「まんだら堂やぐら群」とともに、国の史跡に指定されています。
名越切通から亀が丘団地に降りる道
逗子マリーナ
「名越切通」から坂道を下り、案内にしたがって道なりに1Kmほど進むと信号のある丁字路で左にコンビニがあります。 丁字路を右折して300mほど進んだ信号を左折して道なりに500mほど進むと「小坪漁港」で、その先にあるのが「逗子マリーナ」です。 逗子マリーナは、ヨットハーバーを中心に、マンション、レストラン、スイミングプールなどが配置されている複合施設です。
湘南の海に囲まれパームツリーがふんだんに植えられていて雰囲気は地中海風といった感じです。 映画やドラマ撮影などにもよく利用されています。 石原裕次郎、加山雄三、ユーミン、桑田圭介など数多くの有名人とのつながりが多い魅力的なマリーナです。 テニスコートやプールなどは一般でも利用できます。
逗子マリーナからの展望
逗子漁協
「小坪漁港」は、逗子海岸と鎌倉材木座海岸の間の小坪湾にある、逗子市内唯一の漁港です。 鎌倉時代には既に漁港として、鎌倉に魚介類を供給していたとされています。 小坪湾から沖に広がる遠浅の磯根が主な漁場で、曳網(引き網)によるシラス漁、刺し網漁、覗突(みづき)漁と呼ばれる採貝などを主な漁としています。 覗突漁は船端から身を乗り出し、口にくわえた眼鏡を通して水中を覗きながら、モリでサザエやアワビ等を採り、その間、足で船を操るという伝統漁法です。
毎年11月に宮中で行われる新嘗祭には、必ず小坪の海松(ミル)が献上されることになっています。 毎年1月2日には、大漁と海上の安全を祈願し、竜宮(八代龍王大神)に奉納するみかんを漁船上から投げる八大龍王祭り(みかん投げ祭り)が行われます。 逗子散策その2へ 風来坊
逗子漁協(3月撮影)