散策スポット目次
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小田原城
小田原駅の観光案内所
小田原は戦国時代には、後北条氏の城下町として栄えました。 また、北条早雲から北条氏直まで北条五代の隆盛を影で支えたといわれる風魔忍者の里です。 江戸時代には東国の要衝として、譜代大名を領主とする小田原藩が置かれ、小田原はその城下町となりました。 最初は大久保氏が藩主となりましたが、2代藩主大久保忠隣の時代に政争に敗れ一時改易となります。その後城代の置かれた時期もありましたが、寛永年間に稲葉氏が城主となると改修工事が実施され、近世城郭の姿となります。
貞享3年(1686年)以降は、再び大久保氏の城下町となりました。 城下町・小田原は東海道の沿線であり、小田原宿は箱根の山越えを控えた宿場町として東海道五十三次中最大の規模を誇っていました。 また、廃藩置県後も、明治9年までは、現在の神奈川県西部と伊豆半島を範囲とする足柄県の県庁所在地であり、西湘地域の中心的な都市です。 小田原ちょうちんとかまぼこの特産地として全国的に有名です。
小田原駅では小田原提灯のお出迎え
東通り商店街 この手前を右折です
今回は小田原城主の北条氏、大久保氏にまつわる史跡を巡りました。 散策コースの概要は次のとおりです。 小田原駅→北条氏政・氏照の墓所→銅門→小田原城天守閣→報徳二宮神社→だるま料理店→松原神社→徳常院→早川口遺構→大久保寺→居神神社→箱根登山鉄道箱根板橋駅
北条氏政・氏照の墓所 五輪塔左から氏照、氏政 氏政夫人の墓
小田原駅東口を出て、左折すると「東通り商店街」です。 「東通り商店街」の入口にあるゲートの手前を右折して、路地を100mほど進んだ突き当たりが「北条氏政・氏照の墓所」です。 北条氏政は、北条氏4代の領主で、氏照は氏政の弟で、八王子城など5つの支城の城主でした。
北条氏政・氏照の墓所
生害石 五輪塔前の平らな石 この石の上で氏政・氏照が自刃したと伝えられています
天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原城攻めにより小田原城が落城すると、5代領主氏直は徳川家康の娘と結婚していたため、高野山に追放され切腹を免れました。 代わりに父・氏政とその弟・氏照は城下の田村安斉邸で自刃しました。 両人の遺体は、当時この場所にあった北条氏の氏寺、伝心庵に埋葬されました。
その後放置されていた墓所は、稲葉氏が城主の時(1633年〜1685年)北条氏追福のため整備されました。 大正12年(1923年)の関東大震災で墓所が埋没する被害を受けましたが、地元の有志により翌年復元されました。
幸せの鈴
お堀端通り
お堀端通り 多くの踊り子が
「北条氏政・氏照の墓所」から南方向に道なりに50mほど進むと、「錦通り入口」交差点です。 交差点を渡ると前方に「お堀端通り」が真っ直ぐ伸びています。右手にある「万葉の湯」が目印です。 この日は「小田原・箱根元気フェスタ」が開催されており、お堀端通りや小田原城内は「えっさホイおどり」の踊り子たちで賑わっていました。
二の丸東堀
遊歩道の感じに整備されている「お堀端通り」を400mほど進むと右手にお堀が見えてきます。「二の丸東堀」です。 小田原城は、春日局の子の稲葉正勝が寛永9年(1632年)城主になると、大規模な工事が行われ、石垣を備える近世城郭として整備されました。 二の丸東堀は、本丸.二の丸を守る堀の中で最も大きなもので、幅は最大で約40mあり、現在よりもさらに北に約60m続いていました。 また、西は常磐木橋、南は南曲輪の前まで繋がっていました。
学橋
馬出門
二の丸東堀に沿って南に進み、赤色の学橋の一つ先にある、めがね橋で二の丸東堀を渡ると「馬出門」です。 馬出門は二の丸正面に位置する門で、馬出門、内冠木門と土塀で周囲を囲む枡形門の構造です。 馬屋曲輪へ通ずることからこの名が付いたと考えられています。
銅門
「馬出門」から馬屋曲輪を経てお堀(住吉堀)を渡ると「銅門(あかがねもん)」です。 銅門は小田原城二の丸の表門で、南側の馬屋曲輪やお茶壺曲輪とは住吉堀によって隔てられています。 江戸時代には、馬出門土橋(現在のめがね橋)から城内に入り、銅門を通って、二の丸御殿や本丸、天守へと進むようになっていました。
住吉堀と銅門
銅門土塀模型
銅門の形式は、石垣による枡形、内仕切門、櫓門を組み合わせた枡形門と呼ばれる形式です。 扉の飾り金具に銅が用いられていたのが名前の由来です。
銅門から歴史見聞館の前を通り、石段を登ると「常磐木門」です。 小田原城本丸には常盤木門、鉄門の2つの城門がありました。 このうち常盤木門は本丸の正門にあたり、重要な防御拠点であったために、他の門と比べても大きく、堅固に造られていました。多聞櫓と渡櫓門を配し、多聞櫓は武器等の貯蔵庫として用いられていました。 古絵図などの記録から、江戸時代初期から設けられていたと考えられています。
歴史見聞館
常盤木門
えっさホイおどり(小田原城本丸広場)
元禄16年(1703年)の大地震で崩壊した後、宝永3年(1706年)に、多門櫓と渡櫓から構成される桝形門形式で再建されたものが、明治3年(1870年)の小田原城廃城まで姿をとどめていました。 常盤木とは常緑樹の意で、門の傍らには往時から松が植えられており、また、松の木が常に緑色をたたえて何十年も生長することになぞらえ、小田原城が永久不変に繁栄することを願って、常盤木門と名付けられたといわれています。 現在の常盤木門は、市制30周年事業として昭和46年(1971年)に再建したものです。
常磐木門を抜けると本丸広場で、前方に天守閣が聳えています。 小田原城が初めて築かれたのは、大森氏が小田原に進出した15世紀中頃と考えられています。16世紀初めに北条氏の居城となり、関東支配の拠点として次第に拡張されました。豊臣秀吉の小田原攻めに備えて築造された、城下町を囲む延長9Kmに及ぶ総構の出現により、城の規模は最大に達しました。 北条氏滅亡後、徳川家康に従って小田原攻めに参戦した大久保氏が城主となり、城は近世城郭の姿に改修されました。その後、大久保氏の改易にあたり、城は破却されましたが、寛永年間に稲葉氏が入城の際に再整備され、城の姿は一新されました。 貞享3年(1686年)に再び大久保氏が城主となり、小田原城は東海道で箱根の関所を控えた関東地方の防御の要として幕末に至りました。明治3年(1870年)に小田原城は廃城となります。 現在の天守閣は、市制20周年記念事業として、昭和35年(1960年)に復興されたものです。3重4階の天守櫓に付櫓、渡櫓を付した複合式天守閣で、地上38.7m、鉄筋コンクリート造、延床面積1822平方メートルです。内部には、甲冑・刀剣・絵図・古文書など、小田原の歴史を伝える資料や、武家文化にかかわる資料などが展示されています。標高約60mの最上階からは相模湾が一望でき、良く晴れた日には房総半島まで見ることができます。今回は天守閣には登りませんでした。
報徳二宮神社
天守閣の南側の坂を下りると「報徳二宮神社」です。 報徳二宮神社は、城主・大久保忠真に登用され、農村の建て直しに数々の業績を残した二宮尊徳(幼名は金次郎)を祀った神社です。 明治27年(1894年)4月、二宮尊徳の教えを慕う6カ国(伊勢、三河、遠江、駿河、甲斐、相模)の報徳社の総意により、二宮尊徳を祭神として、生誕地である小田原の、小田原城二の丸小峯曲輪の一角に神社が創建されました。
二宮金次郎像
二宮尊徳翁像
明治42年(1909年)本殿・幣殿を新築、拝殿を改築し、神宛を拡張し現在の社地の景観を整えました。 拝殿礎石は天保の大飢餓の際、藩主大久保公の命により、二宮尊徳が小田原城内の米蔵を開き、米が人々の手にわたったことにより、小田原11万石の領内から一人の餓死者も出さずにすんだという、その米蔵の礎石が用いられています。
報徳二宮神社の境内は、戦国時代に北条氏によって造成された古い曲輪にあたります。 二宮報徳神社の傍にある空堀は、天守閣の裏手の小峯曲輪を囲む堀の北側部分です。 石垣を用いない土塁と空堀だけの、戦国時代の城の原形を留めている貴重な遺構です。
小峯曲輪北堀
法務局前交差点
報徳二宮神社から東方向に進み、蓮池の先を左折して小田原城内に戻り、「歴史見聞館」の手前を右折して、道なりに進むと赤色の学橋に出ます。 この日は「小田原・箱根元気フェスタ」が開催されており、「歴史見聞館」の傍には数多くの屋台が並び、多くの人で賑わっていました。 学橋を渡り、「学橋交差点」を横切って真っ直ぐ100mほど進むと「法務局前」交差点です。
平塚方面から西に進んできた国道1号(東海道)は「法務局前交差点」で直角に左折し、300mほど進んだ「本町交差点」で直角に右折します。 「法務局前交差点」は東京箱根間大学駅伝のタイム差を測る中継ポイントでもあります。この交差点には横断歩道がなく、歩道橋で横切る必要があります。 この交差点の左前方に食事処「だるま料理店」です。
だるま料理店
だるま料理店別館
「だるま料理店」は明治26年(1893年)創業の老舗です。関東大震災で店舗が損傷し、現在の建物は大正15年に再建されたものです。 主屋は、楼閣風の造りで、2階屋根の正面に破風を二つ連ねて比翼入母屋造りの形に凝らした外観と、1階店鋪入り口の向唐破風造りのポーチに特徴があります。 2階の客座敷は、数寄屋風の書院造りが基調で、床・棚・付書院などの座敷飾や、建具・欄間などの造作に様々な趣向を凝らしたきめの細かい仕事が施されているとのことです。 人気の店で、お昼時は行列ができるようです。
松原神社
「だるま料理店」から南方向に200mほど進んだ左手が「松原神社」です。 松原神社は、天文年間に北条氏綱(早雲の子)が海中から出現した十一面観音を祀ったのが始まりとされていますが、創建年代は不明です。 北条氏は社領を寄進するなど、祈祷所として厚遇し、北条氏が滅んだ後も、稲葉氏、大久保氏など歴代の藩主からも崇拝されました。 小田原宿の総鎮守です。
明治天皇宮ノ前行在所跡
松原神社から南に100mほど進むと「本町交差点」です。本町交差点を左折して東方向に100mほど進んだ右手が「明治天皇宮ノ前行在所跡」です。 明治天皇宮ノ前行在所跡は、明治天皇が宿泊した清水金左衛門本陣のあった場所です。 清水金左衛門本陣は、小田原宿に4軒あった本陣のうちの筆頭で、清水金左衛門家は江戸時代に町年寄りも勤め、宿場町全体の掌握も行っていました。 本陣の敷地面積は、約240坪で、大名、宮家などの宿泊にあてられました。 明治天皇が宿泊したのは、5回を数えるとのことです
小田原宿なりわい交流館
「本町交差点」の傍に、「小田原宿なりわい交流館」があります。 小田原宿なりわい交流館は、昭和7年に建設された旧網問屋を再整備し、市民や観光客の憩いの場として、平成13年に開館したものです。 建物は、関東大震災により被害を受けた建物を、昭和7年に再建したもので、小田原の典型的な商家の造りである「出桁造り(だしげたづくり)」という建築方法が用いられています。
小田原宿なりわい交流館2階
また、2階正面は出格子窓になっていて、昔の旅籠の雰囲気を醸しだしています。 内部の意匠も特徴的で、特に2階は、震災後に耐震工法として採用された洋小屋の構造を取り入れるなど、当時の小田原の時代背景を感じさせる貴重な建物です。 「出桁造り」は、柱の上に載せた太い桁を店の全面に何本も突き出し、そこに軒や屋根を載せた江戸時代から続く伝統的な商家の建築方法です。
「小田原宿なりわい交流館」から東海道を西方向に50mほど進んだ三叉路の左手前のなまこ壁の店舗が「佐倉蒲鉾店」です。 三叉路を左折して50mほど進んだ左手が「鈴廣」です。 明治中期にこの場所で蒲鉾製造を本業とし、店舗名を「鈴廣」としたとのことです。 「鈴廣」は現在は箱根登山鉄道「風祭」の傍が本店です。
佐倉蒲鉾店
鈴廣
「鈴廣」から50mほど進んだ右手が「徳常院」です。 「徳常院」には、箱根芦ノ湖畔の賽の河原に安置されていた、延命地蔵尊が安置されています。 延命地蔵尊は、江戸増上寺塔頭にいた心誉常念が正徳3年(1713年)神田鍋町の鋳物師太田駿河守に作らせ、世の平穏を願ったものでしたが、明治2年(1869年)の廃仏毀釈で箱根権現が従来の神仏混合形態から神社と寺が分かれることになり金剛王院は廃止されたので、その管理の本地蔵尊は古物商に売り渡されました。
徳常院の延命地蔵尊
これを東京の業者が買い、馬車でこの海岸に運び、海路輸送しようとしたところ、尊体は地を離れなくなったため、地元の有志が古物商から買い取り、当寺に安置したものです。 江戸駒込八百屋お七の恋人、吉祥寺の寺小姓吉三郎がお七の菩提を弔うために作った大きな地蔵尊という伝説があり、吉三地蔵とも呼ばれています。
徳常院
ういろう本店
小西薬局
徳常院から東海道に戻り、西方向に300mほど進むと左手に薬博物館の「小西薬局」があり、右手にはお城のような店構えの「ういろう本店」があります。 「ういろう本店」には、明治18年(1885年)建築の蔵を利用した博物館があります。 独特の店構えの理由、「ういろう」の名の由来、お菓子と薬の起源、歌舞伎十八番「外郎売」との関係などが紹介されています。
ういろう本店から西方向に100mほど進んだ「箱根口」の交差点を左折し、200mほど進んだ交差点を右折すると「西海子(さいかち)小路」です。 西海子小路の名は、この地にサイカチの木が植えられていたためといわれています。 この地名は、小田原藩主稲葉氏の「永代日記(承応2年(1853年))」の記載に見られます。江戸時代の後期には、中堅藩士の武家屋敷地となり、江戸時代末期には、17軒ほどが道の両側に並んでいました。
西海子小路
早川口遺構
西海子小路を西方向に100mほど進んだ左手が「小田原文学館」です。 小田原文学館から西海子小路を西方に300mほど進んだ丁字路を左折し、300mほど進んだ三叉路を右折して道なりに300mほど進むと、JR東海道本線沿いの道路に出ます。 この丁字路を右折して50mほど進むと「早川口遺構」の案内板があり、案内板にしたがって細い路地を50mほど進んだ左手が「早川口遺構」です。
北条氏は、豊臣秀吉との合戦に備え、天正18年(1590年)までに、小田原城とその城下を囲う周囲約9kmにも及ぶ大規模な空堀と土塁を築きました。 散策路として整備され堀底を散策できる「小峯御鐘ノ台大堀切東堀」「早川口遺構」、「蓮上院土塁」など、現在も各所に総構の名残を示す堀や土塁の痕跡が残されています。 早川口遺構は、二重外張と呼ばれる土塁と堀を二重に配した構造となっていることから、この付近に出入口である虎口があったと考えられています。 この遺構は、小田原城総構の南西に位置し、低地部で見ることのできる数少ない土塁跡のひとつです。国指定の史跡です。
大久寺
早川口遺構から元の道路に戻り、JR東海道線に沿って北方向に300mほど進むと「早川口」交差点で、左右の通りが東海道です。 早川口交差点を左折し、JRのガードを潜って100mほど進んだ左手が「大久寺」です。
天正18年(1590年)、徳川家康は豊臣秀吉から北条氏の遺領・関東6カ国を与えられると、家臣の大久保忠世を小田原城主としました。 大久保忠世は大久寺を開いて、大久保家の菩提寺としました。 大久保家の当主は、初期には大久寺に葬られましたが、中期以降は主として江戸青山の教学院(現在は世田谷区太子堂に移転)に葬られていました。 忠世、2代忠隣など7基の墓石が並んでいます。
大久寺 本堂古瓦
居神神社
大久寺の道路(東海道)の向かい側に「居神神社」があります。 居神神社の祭神は木花咲耶姫命、火之加具土神と三浦荒次郎義意公の霊とされています。 三浦荒次郎については、壮絶なる創建伝説が伝わっています。
三浦半島の新井城主であった三浦荒次郎義意は、北条早雲に攻撃され、永正13年(1516年)7月11日、父陸奥守義同とともに自刃しました。 戦後、義意の首を当神社の松の梢に晒し首にしたところ、3年間瞑目せず通行人をにらみ、人々に恐れられたといわれています。 また一説には、義意自刃の際、その首は三浦半島から海を越えて小田原まで飛来し、井神の森の古松にかぶりつき、そのまま3年間通行人をにらみつけたといわれています。 城下の僧が代わる代わる供養したが成仏しなかったため、小田原久野総世寺の忠室和尚が駆けつけ、「うつつとも夢とも知らぬ一眠り、浮世の隙を曙の空」と詠んで手向けたところ、首は松の枝から落ち、その時中空に声あり「今より禍いを福に転じ、永く当所の守護神となるべし」と聞こえたという。その松の下に祠を建て荒次郎公の霊を祀ったのが居神神社であると伝えられています。
本殿左手に鎌倉時代末期の古碑群があります。 この古碑群は小田原市内に残るものとしては最も古いもので、小田原市の重要文化財に指定されています。 「居神神社」から東海道に沿って西方向に200mほど進んだ左手が、箱根登山鉄道「箱根板橋駅」です。今回の散策のゴールです。 風来坊
古碑群