散策スポット・北海道東北

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小田原散策・邸園巡り (H25.9.22)


清閑亭


小田原は明治にはいると、全国でも有数の保養地として注目されるようになりました。

まず明治20年代には海岸保養施設が数多く造られたほか、時の首相・伊藤博文などの有力者が西海子(さいかち)などの海辺に別荘をかまえるようになりました。

ついで明治30年代になると、明治34年(1901年)に元の小田原城が御用邸として整備されたのをはじめ、皇族の閑院宮家、元首相の山縣有朋、三井財閥を支えた益田孝が小田原に別邸を設けたため、これらの人々とゆかりの深い要人たちが次々と別邸・別荘をかまえました。そのうちの一人、山下汽船(現・商船三井)創業者の山下亀三郎別邸では、「坂の上の雲」の主人公として知られる秋山真之が療養中にその生涯を終えています。

とりわけ山縣や益田のもとには、日本を代表する茶人たちが集い、小田原は「茶の湯総本山」といわれたほどです。この時期の別邸・別荘は「天神山」や「板橋」といった箱根から続く尾根の斜面に拡がったのが特徴です。

さらに戦後の小田原の邸園を代表するのが電力業界の基礎を築いた松永安左ヱ門の邸宅・老欅荘です。
松永は戦前、益田孝から茶の手ほどきを受け、益田が亡くなった後も長く小田原で過ごしました。
益田と松永は近代日本三茶人と呼ばれ、三茶人のうち二人までが小田原を拠点にしていました。



清閑亭

今回は、こうした小田原の邸園を巡りました。

散策コースの概要は次のとおりです。

小田原駅→清閑亭→山角天神社→対潮閣跡(山下亀三郎別邸・秋山真之終焉の地)→滄浪閣跡(伊藤博文別邸跡)→小田原文学館・白秋童謡館(田中光顕別邸)→古稀庵(山縣有朋別邸)→松永記念館・老欅荘(松永安左ヱ門邸)→鉾根登山鉄道・箱根板橋駅



手前は古稀庵で使用されていた座卓 一枚板です


小田原城の南側の蓮池の近くに報徳二宮神社があり、その入口の左手に「報徳博物館」があります。

報徳博物館のすぐ先を左折してなだらかな坂道を100mほど進んだ左手が「清閑亭」です。

清閑亭は黒田長成侯爵の別荘だった邸園(邸宅と庭園)です。

この場所は小田原城三の丸土塁の一角を占め、小田原の町や相模灘を一望する素晴らしい眺めに恵まれています。


古稀庵で使用されていた座卓



清閑亭からの展望 右は伊豆半島



清閑亭からの展望

明治39年(1906年)から黒田家の別荘となり、戦後は浅野侯爵家を経て、第一生命保険会社の施設として使われてきました。

平成17年(2005年)、建物が国の有形文化財に登録され、翌年には敷地が国の史跡に指定されたのち、平成20年(2008年)から小田原市の所有となっています。

清閑亭周辺は「天神山」と呼ばれ、箱根からのびてきた尾根の先端部です。

この地には黒田家のほか、閑院宮家、山下家(旧山下汽船創業者)、北原白秋など、多くの文化人や実業家、政治家や軍人が別邸・別荘を構えていました。


清閑亭の建物全体は、格式ばらない数寄屋造りで、その結構は「雁行型」と呼ばれています。

これは棟が斜めに並ぶ姿を雁に例えたもので、桂離宮や二条城にも見られます。

南の庭から建物を見返すと、平屋建ての部分と2階建ての部分の屋根がほぼ同じ高さに見えます。

これは平屋の部分の「建ち(天井)」が高いだけでなく、屋根に「むくり(まるみ)」が付いているためです。


清閑亭



清閑亭

庭に出るための巨大な沓脱石は、白を基調とした石質から、近くを流れる早川の上流・箱根山系のものと見られています。

建物のぐるりを石敷きの犬走りがめぐり、基礎は土台敷きと呼ばれ、通風に優れています。



山角天神社


清閑亭から左折して200mほど道なりに進んだ左手が「山角天神社」です。

山角天神社は、地元の人々から「天神さん」と親しまれており、祭神は菅原道真です。

山角天神社の創建年代は古くて不明です。

ご神体は木造で、裏に「永禄4年極月吉日」と刻まれているとのことです。

山角天神社には、北条氏康が奉納したという「菅原道真画像」があります。


芭蕉句碑



瓜生海軍大将の像

境内には芭蕉句碑や瓜生海軍大将の像があります。

瓜生外吉は、アナポリス海軍兵学校を卒業し、日露戦争(1904年〜1905年)の仁川沖、蔚山沖、日本海の各海戦で活躍し、1912年に海軍大将に昇進しました。

ここから西に200mほどの高台に別荘を設けた外吉は、小田原の生活をこよなく愛したとのことです。


「山角天神社」から長い石段を下りたところを左折し、東方向に100mほど進んだ左手が「対潮閣跡」です。

山下汽船(現・商船三井)の創業者・山下亀三郎は、この地の別荘を譲り受け、山縣有朋に庭園造りを依頼し、「対潮閣」の名前を与えられました。



対潮閣跡



釣鐘石

対潮閣には、山下と愛媛の同郷であった海軍中将秋山真之がたびたび訪れていました。

秋山真之は、ここから山縣有朋の別邸「古稀庵」を訪ねて、国防論について相談していましたが、患っていた盲腸炎が悪化し、大正7年(1918年)対潮閣で亡くなりました。

対潮閣は現在はなく、その広大な敷地は住宅地となっています。

元正門の在った場所には、巨石と石碑が残されています。


対潮閣跡の正面にある巨石は、対潮閣にあったもので、梵鐘を抜いた形の空洞があるので釣鐘石といわれています。

また、左手前の石碑には、田中光顕がこの石を賞して詠んだ和歌が削られています。

碑文「うちたたく人ありてこそ よの中になりもわたらめ つりがねの石 光顕」


田中光顕の歌碑



正恩寺

対潮閣から東方向に200mほど進んだ交差点を右折して50mほど進むと「箱根口」の交差点で、左右を走っているのが国道1号(東海道)です。

「箱根口」の交差点を左折し、「ういろう本店」の前を通過して200mほど進むと「御幸の浜」交差点です。

「御幸の浜」の交差点を右折して200mほど進むと、前方が西湘バイパスでその下を潜ると御幸の浜に出ることができます。


御幸の浜の50mほど手前を右折して、細い路地を100mほど進むと右手が「正恩寺」です。

正恩寺は真宗大谷派東本願寺の末寺です。

入口の鐘楼門は小田原市指定文化財です。

近年、吉川英治の先祖(小田原藩士)の墓が寺内墓地から発見されたとのことです。


正恩寺鐘楼門



伊藤博文の胸像

正恩寺から50mほど進んだ左手が「滄浪閣跡」です。

滄浪閣は、伊藤博文の別邸として明治23年(1890年)に完成しました。

伊藤博文は明治26年(1893年)民法改正に着手し、起草委員に選ばれた3名の法学博士は滄浪閣の一室に閉じこもって民法原案の立案執筆を行ったことからこの場所は「民法発祥の地」と呼ばれています。


小田原に来る途中の車窓から眺めた大磯の松林が気に入った伊藤博文は、明治30年に滄浪閣の名前ととともに大磯に移ります。

滄浪閣は養生館という旅館として再開発されますが、関東大震災で壊滅します。


現在は跡地に、伊藤博文の胸像と滄浪閣跡の碑が建っています。


滄浪閣跡の碑



小田原文学館



小田原文学館

滄浪閣跡から200mほど進むと正面が大連寺です。大連寺の手前を右折し、最初の三叉路を左折すると「西海子小路」です。

西海子小路を西方向に100mほど進んだ左手が、田中光顕の別邸で、その敷地内に「小田原文学館」「北原白秋童謡館」「尾崎一雄の書斎」があります。

田中光顕は土佐藩の郷士で、土佐勤皇党に加わりますが、その後脱藩して中岡慎太郎の組織した陸援隊に参加します。

明治維新後は、警視総監、貴族院議員、宮内大臣などを歴任し、明治40年に伯爵に叙せられます。晩年の一時期をこの小田原の別邸で過ごしました。



白秋童謡館


小田原文学館は、元宮内大臣田中光顕の別邸として建てられた洋館です。

3階建の洋風の本館と木造平屋建の管理棟からなり、ともに屋根はスペインから輸入した瓦を用いたスパニッシュ瓦葺です。

本館1階の談話室と2階洋室の南面に張り出したサンルーム及び3階のべランダは昭和初期のモダニズム建築の特徴をよく示しています。

また、北面中央部に設けた階段はゆったりした勾配の造りで、笠石に大理石を用いた手摺の意匠は繊細で優れています。

平成6年に、小田原にゆかりの深い文学者の資料を展示する小田原文学館に改装されています。


白秋童謡館



白秋童謡館

小田原文学館の裏手に、「尾崎一雄の書斎」と「白秋童謡館」があります。

白秋童謡館は、小田原文学館の別館で、小田原にゆかりの北原白秋の童謡をテーマに、初版本や直筆原稿などを展示しています。

建物は純日本家屋ですが、この建物も田中光顕の別邸です。

南欧風の文学館、純日本家屋の童謡館ともになかなか良い佇まいで、庭も良く手入れされており、春にはこの庭で観桜会も開かれる。


「尾崎一雄の書斎」は、小田原を拠点に創作を続けた尾崎一雄邸の書斎を、曽我谷津から小田原文学館敷地内に、平成18年に移築したものです。

この周辺には、明治から昭和にかけて多くの文学者が居を構え、文学活動が行われていました。

ここから小田原駅西口までの間は、「白秋童謡の散歩道」として、小田原で多くの童謡を創作した北原白秋の足跡をたどる散歩道として整備されています。


尾崎一雄の書斎



静山荘:非公開

小田原文学館から西方向に50mほど進んだ交差点の右手が「静山荘」です。

静山荘は、証券会社設立後、数々の会社の設立・経営に携わった実業家・望月軍四郎の別邸ですが、個人宅と使用されており、公開されていません。

交差点を右折して150mほど進むと、「三好達治旧居跡」があり、さらに50mほど進むと東海道に戻ります。


交差点を左折して東海道を西方向に300mほど進むとJR東海道線のガードがあり、さらに200mほど進むと「板橋見附」の交差点です。

「板橋見附」の交差点の左手前が、小田原城主大久保氏の菩提寺の「大久寺」で、右手前が「居神神社」です。

板橋見附交差点で東海道と分かれて、右斜め前方の道を進みます。この道は東海道と概ね平行しています。


三好達治旧居跡



とうふ工房:下田豆腐店

板橋見附交差点から400mほど進むと左手に「とうふ工房:下田豆腐店」があります。

小田原で100年以上も続く、創作がんもで有名な豆腐屋さんで「小田原街かど博物館」に指定されています。



古稀庵



古稀庵


「とうふ工房:下田豆腐店」の少し先の三叉路を右に入り、細い路地の坂道を300mほど進んだ右手が「古稀庵」です。

古稀庵は、明治の元勲・山縣有朋が、明治40年(1907年)に構えた別荘です。

この年山縣は数え年70歳の古稀を迎えたことから、この別荘は古稀庵と命名されました。


古稀庵



古稀庵

特に庭園については、庭園好きの山縣がその築造に心血を注ぎ、日本古来の山水回遊式庭園の形式をあえて採らず、作風の主題を「自然」、とりわけ「水流」に求めた「自然主義的庭園」の形式を京都別邸・無鄰菴に続いて採ったとされています。

その庭園は、高低差14.9mの間に上段の庭、中段の庭、下段の庭等といった形で構成され、その高低差を巧みに利用した流水や、洗頭瀑、聴潭泉といった滝を配したことが特徴として挙げられます。


相模湾と箱根山を借景し築造された古稀庵は、山縣有朋の所有であった目白椿山荘、京都無隣庵とともに、近代日本庭園の傑作といわれています。

庭内を流れる水は、山縣水源池に貯められた水を使っていました。これは山縣が個人水道として荻窪用水から取水したもので、その総延長は1860mにも及ぶとのことです。

現在あいおいニッセイ同和損保研修所として使用されており、庭園は日曜日のみ公開されています。


古稀庵・兜石



古稀庵から松永記念館への遊歩道



古稀庵から松永記念館への遊歩道

古稀庵からさらに坂道を100m程上ったところに、皆春荘(清浦奎吾別邸)や共壽亭(割烹旅館山月;大倉喜八郎別邸)がありますが、いずれも公開されていません。

古稀庵から竹林に囲まれた風情のある遊歩道を200mほど進むと「松永記念館及び老欅荘」です。



松永記念館



松永記念館


松永記念館は、戦前・戦後と通じて電力王と呼ばれた実業家であり、数寄茶人としても高名であった松永安左ヱ門(耳庵)が、昭和21年に小田原へ居住してから収集した古美術品を一般公開するために、昭和34年(1959年)に財団法人を創立して自宅の敷地内に建設した施設です。

昭和54年(1979年)に財団が解散し、その敷地と建物が小田原市に寄付されました。


松永記念館



老欅荘の名前の由来となった欅の大木

小田原市では、昭和55年10月に小田原市郷土文化館の分館として設置し、特別展や企画展を本館・別館展示室で開催しています。

また、昭和61年に移築した野崎廣太(幻庵)別邸茶室の「葉雨庵」も見学することができます。

また、庭園は平成19年に「日本の歴史公園100選」に選ばれています。



老欅荘


松永記念館から、裏手の斜面を登ったところに老欅荘(ろうきょそう)があります。

松永安左ヱ門は、昭和17年頃から当地に別荘の造営を始め、戦後昭和21年12月に新宅・老欅荘に移りました。

普請は、地元の大工棟梁古谷善造と孝太郎の父子によるものとされています。

安左ヱ門は夫人とともに晩年をそこで過ごし、老欅荘の茶会に茶人、政治家、学者、建築家、画家など当時の著名人を多く招いています。


老欅荘



老欅荘

老欅荘は和室3室よりなる簡素な造りですが、東南の庭に面する広間に設けた付書院のある3畳大の床間と,主屋の東北に取りつく玄関及び3畳の寄付茶室の意匠に特徴があります。

また、昭和28年に主屋の西南に増築した四畳半台目の茶室は付書院を設けた耳庵好みの数寄屋であり、床間と書院床をもつ内部の意匠が優れています。



老欅荘


老欅荘



内野邸


松永記念館から南方向に200mほど進んだ丁字路を左折すると、左手に「内野邸」があります。

内野邸は、明治36年(1903年)に建築された、元醤油醸造業を経営していた内野家の住宅で、当時流行していた土蔵造り風の町屋で、なまこ壁や石造アーチなど、和洋折衷の特徴ある意匠が取り入れられた貴重な歴史的建造物です。

小田原市では、この建物を借用し、地元板橋の地域住民組織による実験的な活用等を進めており、公開や催しが行われています。


内野邸



内野邸

内野邸から東方向に200mほど進んだ三叉路を右折して、200mほど進むと箱根登山鉄道・箱根板橋駅です。

今回の散策のゴールです。


         風来坊


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