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氏家街めぐり・雛めぐり その2 (H25.3.2)


創彩縫・薔薇の雛飾り



創彩縫・薔薇の雛飾り



創彩縫・薔薇

今宮神社から案内板にしたがって800mほど進んだところが「創彩縫・薔薇」です。

「創彩縫・薔薇」は雛飾りを作っている教室ですが、教室の後方にある石蔵に作品が飾られていました。

氏家雛めぐりの会場である石蔵は、昨年12月から準備を進めてきたとのことです。



創彩縫・薔薇の雛飾り



創彩縫・薔薇の雛飾り



創彩縫・薔薇の雛飾り


氏家は「さくら市」ということで、今回の雛めぐりでは「桜」をテーマに準備をされたとのことです。

石蔵の入口の飾り付けには「桜花乱舞」の表示がありましたし、会場内は沢山の桜で飾られていました。

桜の木は本物でしたが、桜の花は布で作られており、桜の花だけでも1300個あるとか・・・・


創彩縫・薔薇の雛飾り



創彩縫・薔薇の雛飾り



創彩縫・薔薇の雛飾り



創彩縫・薔薇の雛飾り

石蔵の中には数多くの吊し雛も飾られていましたが、ミニチュアの屋台やお囃子、浴衣を着た人形、ウサギの人形、神輿を担ぐさるぼぼなど、さまざまな作品が並べられていました。

今回は野中先生と30数名の生徒さんの作品が飾られているとのことで、会場には数多くの生徒さんがおられて、来訪する方々に丁寧に説明されていたのが印象的でした。



創彩縫・薔薇の雛飾り


創彩縫・薔薇の雛飾り



さくら市氏家公民館の雛飾り


「創彩縫・薔薇」から案内板にしたがって1Kmほど進んだところが「さくら市氏家公民館」です。

「さくら市氏家公民館」は「駅からハイキング」の休憩所になっていましたが、雛めぐりの会場にもなっていて、紙人形のおひな様が飾られていました。


さくら市氏家公民館の雛飾り



さくら市氏家公民館の雛飾り


さくら市氏家公民館の雛飾り



瀧澤住宅・奥座敷



瀧澤住宅・長屋門

「駅からハイキング」では、次の散策スポットは「光明寺」でしたが、その前にボランティアの方から薦められた「鐵竹堂(てっちくどう)瀧澤記念館」に立ち寄りました。

瀧澤家住宅(鐵竹堂・蔵座敷・長屋門)は、明治25年(1892年)、氏家で行われた陸軍大演習の統裁のため明治天皇が行幸し、瀧澤家が所在地となりました。

当主の瀧澤喜平治はこのため鐵竹堂、蔵座敷、長屋門を新・改築して天皇と随官をお迎えしました。


天皇の休息所として使用された鐵竹堂は、平屋建ての入母屋造で、正面に車寄せを張り出し、北側の庭園に面した書院造りの主室を中心に4室で構成されています。

財を惜しまずに吟味された材料と造作は随所に見られ、特に主室は床の間、素木の格天井など天皇の御座所にふさわしい造りとなっています。

これらは休息のために調えられた家具類とともに当時のまま保存され、100年以上前の雰囲気を今に伝えています。

鐵竹堂は、喜平治の雅号「鐵竹」にちなんでいます。


瀧澤住宅・鐵竹堂車寄せ



瀧澤住宅・鐵竹堂

奥座敷は、総2階建、切妻瓦葺きの伝統的な土蔵の屋根のほぼ中央に洋風の望楼を乗せた特徴ある建物です。

洋風望楼は、明治初期洋風建築の大きな特徴の一つであり、この地方においても、明治期の旧奥州街道沿いに同様な洋風望楼を乗せた建物がいくつか存在していたとのことですが、現存するのはこの建物だけです。



鐵竹堂の雛飾り



明治天皇の休息された部屋


長屋門は、入母屋造、桟瓦葺で左右を小部屋とし、中央部を門とする典型的な長屋門形式です。

地方に残る長屋門の中でも最大級で、この長屋門は建築年代を確定する資料は残されていませんが、門の飾り金具にはすべて菊花が用いられていることや部材の腐食度から見て、鐵竹堂と同時期の建築と推定されています。


鐵竹堂の雛飾り



鐵竹堂の雛飾り

鐵竹堂瀧澤記念館は、明治天皇が休息に使用された後は、美術品として瀧澤家の方が毎日毎日心を込めてお掃除をしこの建物を支えてこられたとのことです。

年に何度かイベントを開催しておりましたが、東日本大震災で庭園にある大きな燈籠が10数個も倒れてしまい、それを目の当たりにして胸が痛み、暫く閉館していたとのことです。

氏家雛めぐり10周年を記念して、今回初めて雛めぐりに参加することとなり、開館したとのことです。貴重なものを見せていただくことができました。



光明寺


「鐵竹堂 瀧澤記念館」から「駅からハイキング」のルートに戻り「光明寺」を訪ねました。

「光明寺」は、さくら市南部にある勝山城の城主芳賀氏が、城の近く美女木地区に、応永34年(1427年)に創建したと伝えられています。

その後、慶長2年(1597年)宇都宮氏の改易に伴い、勝山城が廃城になると、光明寺も現在地に移されたといわれていますが、江戸時代の火災や水害によって記録が失われており、正確な時期はわかっていません。


光明寺



光明寺

青銅不動明王坐像は、火事や水害など、打ち続く災難から氏家宿を守るため、光明寺第12世権大僧都法印広栄が発願し、宿の浄財を集めて、宝暦9年(1759年)に宇都宮鉄砲町の名工戸室卯兵衛が鋳造しました。

後背の火炎を含まずに、2.94mの高さがあり、右手に宝剣、左手に衆生済度の象徴である羂策を握り締めています。


「光明寺」から案内板にしたがって500mほど進んだ黒須病院の敷地内に「鶏神社」があります。

鶏権現の本源は水分神信仰です。清水の湧く所や水源地などに祀られた水神のことです。

「みまくり」「みわたり」となり、「にわたり」から「にわとり」と呼ばれ「鶏」があてられ、「鶏権化」の民間信仰となりました。

水神から作神・養蚕の神となり、それが小児の咳の病気から子育て、子孫繁栄の神と仏が習合して「鶏権現」となり、現在でも信仰されています。


鶏権現



宝高屋本店の明治時代のおひな様



宝高屋本店

「鶏権現」から案内板のしたがって200mほど進んだところが「宝高屋本店」です。

「宝高屋」は4代に渡って氏家で米の商いをしている老舗です。

お店の中に明治時代のおひな様が飾られていました。

明治時代のおひな様がどのように作られているのかを、お店のご年配の方が説明して下さいました。


「宝高屋本店」の向かいの「フラワーショップきむら」には、生花で作られたおひな様が飾られていました。


フラワーショップきむらの雛飾り



フラワーショップきむらの雛飾り


フラワーショップきむらの雛飾り



寛方・タゴール平和公園



寛方・タゴール平和公園

「宝高屋本店」のすぐ近くに「寛方・タゴール平和公園」があります。

「寛方・タゴール平和公園」は、日本画の巨匠・荒井寛方の業績を顕彰するとともに、寛方とインドのノーベル賞詩人で思想家のタゴールの友情を記念して作られた公園です。

園内にはタゴールが寛方に贈った惜別の詩を刻んだモニュメント、寛方の代表作を陶板画にして飾ったギャラリー、茶室やせせらぎ配した庭園などが設けられています。



西導寺本堂


「寛方・タゴール平和公園」から、案内板にしたがって300mほど進んだ所が「西導寺」です。

西導寺は建久2年(1191年)に氏家氏の始祖で勝山城を築いた宇都宮公頼が開いたとされる古寺です。

本堂は天明4年(1784年)に建てられたもので、間口8間、奥行間7間、木造平屋、唐破風、入母屋造り、銅板葺きです。

氏家地方の江戸後期の代表的寺院建造物で、さくら市有形文化財に指定されています。


西導寺弥勒道



五輪塔

西導寺では五輪塔が有名です。

五輪塔の起源は不明ですが、宝蓋をかけた舎利瓶の形に密教思想の万物生成の要素である空・風・火・水・地をあてはめたと考えられています。

日本では平安時代末期に造立が始まり、中世以降石塔といえば五輪塔を指すまでに普及しました。


写真の五輪塔は、西導寺境内に分散していた各塔を現在地に移築したもので、形態を比較すると空輪の形と水輪のバランスが違っており、造立に時間差があると推定されています。

これらは一般の五輪塔に比べ大型であり、威風堂々とした姿は古都鎌倉の存在してもひけをとらないとのことです。

西導寺のほか、光明寺と堂原地蔵堂に大型の五輪塔があるとのことです。


鐘楼



蔦地蔵

西導寺から氏家駅に行く途中の、西導寺の敷地に隣接した場所に「蔦地蔵」があります。

蔦地蔵とか定家地蔵とも呼ばれる彫刻は、高さ1.3mの安山岩に地蔵菩薩座像と蓮弁台座までを丸彫りにした中世期の石仏です。

右手に錫杖、左手に摩尼宝珠を持つ延命地蔵の形で法衣や袈裟も的確に刻まれているとのことです。

この石仏が正面だけでなく、周囲を巡りながら拝するために、丸彫りは丹念に仕上げられ、重量感あふれる中世石仏となっています。


「eプラザ弐番館」に戻ってゴールです。

ゴール到着後、eプラザ弐番館2F北ホールに飾られている、さまざまな雛人形を見て回りましたが、その様子は最初に紹介しました。



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         風来坊


蔦地蔵


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