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べに花畑
JR東日本の「駅からハイキング」のイベント「中山道桶川宿とべに花鑑賞ハイキング」に参加しました。 サブタイトルは「中山道の面影と、関東では珍しいべに花を楽しめます。」です。 細部説明は「江戸時代、桶川臙脂(おけがわえんじ)の名で知られた桶川のべに花。山形の最上地方よりも気候が温暖なため、一足早い6月に収穫され、べに花商人に歓迎されました。今も残る、紅花の集散地兼宿場町として栄えた中山道桶川宿の面影をお楽しみください。」となっています。
コースの概要は次のとおりです。 JR桶川駅(受付)→浄念寺→武村旅館→島村家土蔵→蔵造り商家(矢部家住宅)→桶川宿本陣遺構→稲荷神社→地域福祉活動センター→勤労青少年ホーム→氷川天満神社→べに花畑→べに花ふるさと館→勤労福祉会館→大雲寺→中山道宿場館→桶川駅(ゴール)
駅からハイキング受付 一番右は桶川市長
コースの歩行距離は約9km、歩行時間約2時間30分(施設での見学時間等を除く)、所要時間約3時間30分(施設での見学時間を含む)です。 写真を撮りながらの散策でしたが、所要時間3時間30分、約1万4000歩でした。
今回は募集定員1500名のイベントでしたが、9時00分桶川駅着の電車で到着したところ、受付には100名程度の行列ができていました。 大部分が同じ電車で到着した方のようです。 このイベントは毎年恒例のイベントのようで、受付では桶川市長も出迎えるという歓迎ぶりでした。 また、散策スポットではボランティアの方による説明があり、さらにコースには5個所でお茶の接待があるという、暑さに備えた気の配りようでした。
桶川駅
浄念寺
仁王門
受付を終了し、参加者の流れにしたがって200mほど歩くと「浄念寺」です。 室町時代初期の1360年頃に朗海上人が桶川のこの地に建てた修行のための庵をもとに、天文15年(1546年)に開創されたと伝えられる浄土宗のお寺です。 現在の本堂は平成16年(2004年)に新築されたものです。
仁王像
浄念寺のシンボルともいえる朱塗りの仁王門は、元禄14年(1701年)に再建されたものです。 仁王門の上には梵鐘が懸かっています。 浄念寺のかつての梵鐘は寛保元年(1741年)に鋳造されたもので、時を知らせる美しい音色は桶川宿の隅々にまで鳴り響いたといわれています。 この梵鐘は第2次世界大戦で供出され、現在の梵鐘は昭和40年(1965年)に鋳造されたものです。
不動堂(不動明王)
板石塔婆
境内にある板石塔婆は、主に緑泥片石を利用した石製の塔婆で、鎌倉時代から江戸時代初頭にかけて死者の追善供養や自らの極楽往生を願った造立されたものです。 浄念寺の板石塔婆は、最も古いものは正和4年(1315年)、最も新しいものが天文19年(1550年)です。 中央の一番大きな板石塔婆が、浄念寺の礎となった朗海上人を供養するための板石塔婆です。
武村旅館
浄念寺三門から前方に100mほど進んだ左右の通りが中山道で、この付近は桶川宿のあった場所です。 桶川宿は、中山道六十九次の宿駅として、江戸時代の初期に成立しました。 日本橋から41Kmにあり、この間に板橋、蕨、浦和、大宮、上尾の5宿があり、北は鴻巣に続いています。 寛永年間に現在の市街地の中心部が宿場でした。
宿場当時の面影を残す建物
宿場当時の面影を残す建物 島村老茶舗
寛永2年(1625年)に桶川宿の戸数は58軒に過ぎなかったですが、紅花が取引されるようになった1800年には247軒に増加し、その後麦や紅花の集散地として栄え、幕末の天保年間(1840年頃)には347軒、人口も1444人に増加しました。 町並みは南北に約1Km続き、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠は大小合わせて36軒ありました。
桶川には、現在も宿場当時の蔵造りの建物の町並みが残されており、文化財に指定されている建物もあります。 今回の「駅からハイキング」ではそのうちの何軒かを訪ねました。 浄念寺から中山道に出て、右方向に100mほど進むと「武村旅館」です。
桶川宿には、大名や公家などの宿泊施設である本陣、脇本陣のほかに、中山道を往来する一般庶民の宿である旅籠が数多くあり、江戸末期の天保年間には36軒を数えました。 武村旅館は江戸末期創業の旅籠で、宿場当時の旅籠の姿を今にとどめる貴重な建物です。 当時の間取りをほぼ引き継いでおり、国の登録有形文化財に登録されています。 現在はビジネス旅館として営業しています。
島村家土蔵
案内図にしたがって武村旅館の先の信号でUターンして北方向に進み、「桶川駅前」交差点からさらに100mほど進んだ右手の路地を入ったところが「島村家土蔵」です。 桁行6間、梁間3間の木造3階建ての土蔵で、江戸時代後期の天保7年(1836年)の建築と伝えられています。 島村家は中山道桶川宿の本陣近くに店を構えた穀物問屋木嶋屋の総本家で、土蔵の屋根の両端にある鬼瓦には当時の屋号の一字をとった「木」の字が刻まれています。
松の木の梁(天保7年)
外人のお雛様
天保7年は全国的に凶作の年で、米価が騰貴し各地に百姓一揆が起こりました。 3階建て土蔵の建築工事は、天保の大飢饉にあえぐ人々に仕事を与え、その報酬により多くの民が飢えから救われたことから、「お助け蔵」といわれたと伝えられています。 現在は、黒漆喰がトタンで覆われていますが、建築当時の島村家(木嶋屋)の勢いを感じさせる堂々とした土蔵です。
土蔵の中には、長持ち、柳行李、火鉢を始めとした室内生活関係用具類、江戸時代の百科事典やお雛様(享保雛)などの社会生活関係具類などの展示が行われていました。 外国人のお雛様など珍しいものも見られました。 また、この土蔵は関東大震災でも被害がなかったといわれるだけあって、3階の松の木の梁(天保7年)は見事なものでした。 土蔵は国登録有形文化財です。
享保雛
蔵造り商家(矢部家住宅)
島村家土蔵から少し進んだ右手が「蔵造り商家(矢部家住宅)」です。 「矢部家住宅」は、中山道に面した土蔵造りの店舗とその奥に続く塗屋造りの住居、土蔵造りの文庫蔵、切妻造りの勝手場などの建物で構成されています。 矢部家は穀物問屋ですが、紅花の商いも行い稲荷神社の「紅花商人寄進の石燈籠」に刻まれた24人の紅商人の中に名を連ねています。
中山道に面する土蔵造りの店舗は、明治38年(1905年)に建立されたものです。 桶川宿に現存する土蔵造りの店蔵はこの矢部家一軒のみとなり、往時の桶川宿の繁栄と賑わいを偲ぶことのできる貴重な建造物の一つです。
中山道商店会
小林家住宅
矢部家住宅の向かい側にあるのが、江戸末期頃に旅籠として建てられた小林家住宅です。 その後小林家は材木商を営んだため大きく改築されましたが、外観は当時の姿をとどめています。 旅籠当時の間取りは図面に残っているのみですが、2階は中廊下式になっており、旅籠当時の面影を残しているようです。
「蔵造り商家(矢部家住宅)」から少し進んだ右手が「桶川宿本陣遺構」です。 本陣は、江戸時代参勤交代の際、大名が使用するために設置された宿泊所です。 桶川宿本陣は、加賀百万石前田家の宿泊所とされたほか、水戸藩主徳川斉昭も利用しました。 また、文久元年(1861年)には、公武合体政策の一環で、徳川家茂の御台所として降嫁すべく江戸に向かう皇女和宮が宿泊したことでも知られています。
桶川宿本陣遺構
桶川宿本陣遺構 これより内部は撮影禁止
府川家が世襲し、屋敷は1000坪余り、建坪も207坪ありました。 上段の間、次の間、湯殿が現在も保存されていますが、内部は公開されていません。 埼玉県内の中山道筋では、現在に残る唯一の本陣遺構です。
稲荷神社
「桶川宿本陣遺構」から中山道に沿って北方向に200mほど進んだ信号を右折し、案内図にしたがって300mほど進むと「稲荷神社」です。 創建は長承3年(1134年)という説があるが、判然としていません。 元禄7年(1694年)に桶川宿の代官・南條金右衛門が幕府に乞うて除地(免税地)3反5畝を認められ桶川宿の鎮守としました。
桶川宿は江戸期、中山道の江戸から六番目の宿場とされ、天明〜寛政(1781年〜1801年)の頃、出羽最上地方の紅花の種がもたらされ、紅花の栽培が盛んにおこなわれました。 この紅花を扱う商人24名により南藏院に寄進された、石灯籠が現在は稲荷神社にあり、市指定の文化財となっています。
また、稲荷神社には「大盤石」があります。 「大盤石」は力石の中で特別に大きな石のことを指します。大盤石は全国でも4個所しかないといわれています。 稲荷神社の大盤石の重量は610Kgあり、重量は日本一といわれています。 嘉永5年(1852年)に岩槻の三ノ宮卯之助という、力士上がりの江戸一番の力持が持上げたと言われているものです。
地域福祉活動センター
稲荷神社から地域福祉活動センター(お茶サービス)、勤労青少年ホームを経由して案内図を見ながら約3.6km進んだところが「氷川天満神社」です。 氷川天満神社は、全国の天満宮の一つであり、氷川神社の分社の一つでもあります。 祭神は歴史的な経緯から天満宮の菅原道真と氷川神社の須佐之男命などが合祀されています。
氷川天満神社 拝殿と狛犬
この天神社は近在の人々から永年「加納の天神様」と親しまれ信仰されてきました。 江戸時代には、天保12年(1841年)発行の「木曽街道懐宝図鑑」にもその名が記述され、参詣人が絶えなかったといわれています。 特に難病に効く薬湯があり、中山道を通る旅人も回り道をしてここに参詣し薬湯につかったと伝えられ、この薬湯に使用した井戸は境内に現存しています。
氷川天満神社
創建は正徳2年(1712年)で、祭神は菅原道真です。 創建当時は上加納村の鎮守とされましたが、後の明治8年(1875年)に下加納村と合併、下加納村の鎮守であった氷川神社を合社し、「氷川天満神社」と称するようになりました。 また、拝殿前の狛犬は安永5年(1776年)9月に奉納されたもので埼玉県内でもかなり古いものであり、貴重な狛犬だとのことです。
「氷川天満神社」から案内図にしたがって300mほど進むと「べに花畑」があり、さらに1.3Kmほど進んだところが「べに花ふるさと館」です。 畑」たけ」ととゃ」から。じゅうりょうは桶川宿は近隣の村々で生産された農作物の集散地でもありました。 大麦や甘藷など食用農作物のほか、「武州藍」と呼ばれた染料の藍、「桶川臙脂」と呼ばれた紅花なども取引されました。
べに花畑 展望台も
べに花
なかでも紅花は桶川宿を中心とした桶川郷一帯で盛んに栽培され、最上紅花に次いで全国第2位の生産量を誇っていました。 桶川郷での紅花の栽培は、桶川郷内の上村(現在の上尾市上地区〉の農家の七五郎が、江戸の小間物問屋「柳屋」から紅花の種を譲り受けて栽培したのが始まりであると、江戸の勘定奉行の記録に記されています。
出羽国最上に比べて気候温暖な桶川周辺の紅花は早く収穫できたため、紅花商人たちからは「早場もの」として喜ばれました。 当時の隆盛の様子は、稲荷神社の石灯籠や在地問屋の須田家の古文書、紅花仕入れ帳などの記録に残されています。 宿場開設当初の寛永15年(1638年)に58軒であった桶川宿の戸数が、天保14年(1843年)には347軒、人口も1444人に達し、その発展ぶりが伺えます。
べに花ふるさと館
当時の取引価格は、田1反当たりの米収穫量およそ2両に対し、紅花は倍の4両で取引され、幕末には最上紅花を上回る相場で取引されていて、桶川は紅花がもたらす富によって大いに潤いました。 遠方からの商人が集まるようになると、富とともに文化ももたらされました。 現在も残されている桶川祇園祭の山車の引き回しは京の都から、祭囃子は江戸から採り入れ、桶川で独自に発展した行事です。
しかしながら、明治維新後は化学的合成染料の導入などから衰退し、消滅してしまいました。 桶川市では平成6年(1994年)以来、発展をもたらした紅花を蘇らせ、街づくりのシンボルとする「べに花の郷づくり事業」を展開しています。 古民家を修復したべに花ふるさと館では、べに花まつり、陶器市など季節によって色々なイベントが開催されます。 今年のべに花まつりは、6月29日(土)、30日(日)に開催されます。
大雲寺
べに花ふるさと館から案内図にしたがって1.5Kmほど進むと「勤労福祉会館(お茶サービス)」で、さらに600mほど進むと「大雲寺」です。 「大雲寺」は曹洞宗の寺院で、弘治3年(1557年)清越の開山と伝えられています。 桶川宿の上方(京側)にあり、上の寺とも呼ばれていました。 本陣当主である府川家の墓があります。
本堂に向って右にある3体の地蔵菩薩のうち右端は「女郎買い地蔵」と呼ばれています。 この地蔵さん、夜な夜な女郎買いに出かけるので、住職が背中にカスガイを打って鎖で縛ってしまったのだそうです。 しかし、本当は、若い修行僧が女郎買いするので、それへの戒めだったようです。
中山道宿場館
「大雲寺」から中山道に戻り、南方向に200mほど進んだところが「中山道宿場館」です。「桶川宿本陣遺構」の斜め前です。 「中山道宿場館」は、中山道桶川宿の観光案内所であり、休憩所です。 桶川市の宿場情報や市内の史跡・観光情報の案内はもちろんのこと、中山道に関するいろいろな情報も提供されています。
「中山道宿場館」から「街なか商女館」を経由して約500mでJR桶川駅です。 「街なか商女館」は、平成23年5月にオープンした桶川市商工会女性部の施設で、地元の農産物、惣菜、お弁当などを販売しています。 風来坊
街なか商女館