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城下町通り
「大多喜駅入口」交差点を直進すると「城下町通り」で江戸時代からの建物が点在しています。 その中からいくつかの建物を紹介します。
「渡辺家住宅」は、嘉永2年((1849年)に地元猿稲町の棟梁、佐治兵衛によって建造された江戸時代末期の代表的な商家造りです。 寄棟桟瓦葺(創建当時は茅葺)2階建てで、正面入口は縦格子戸を、表板戸には上下戸を付けてあります。
渡辺家住宅
間取りは、店・茶の間・中の間・奥座敷となっていて、南に勝手の間・土間があります。 奥座敷には木口縁を巡らせてあって、床の間などに重厚さが見られ、武家造り風付書院・竿縁天井・箱階段・欄間の透かし彫りなど、各部に雅趣とすぐれた技法が見られます。 店構えや整った座敷など、この時代の上層商家の規模が良く示された貴重な建物で、国の重要文化財に指定されています。
伊勢幸酒店は木造2階建瓦葺で、外壁は1階部分が下見板張り、2階は白漆喰仕上げ格子作りとなっています。 明治6年の建築とされ、廃藩置県の折り、旧大多喜城大手門の部材を用いて作られたといわれている。
伊勢幸酒店
低地であるため夷隅川の氾濫被害も数度にわたって受けており、地上げ工事を含め、数回の改修工事を経ています。 渡辺住宅と並び城下町久保地区の町並みを代表する建物で、国の有形文化財に登録されています。
奈美喜手房
大多喜活版所
商い資料館
城下町通りのほぼ中央にある商い資料館は、「商いと城下町のくらし」をテーマにした資料館です。 土蔵造りの建物を大改修し、1階は昔の商家の再現、2階は昔の暮らしがしのばれる生活用具や遊び道具を展示しています。 また、屋外は日本庭園(陣座公園)となっています。
商い資料館・日本庭園入口
大多喜城の城下町として栄え、明治・大正・昭和と時の流れの中で平成へと伝え続けられてきた大多喜商人の心意気。 そしてそれを支えてきた道具の数々、また庶民の生活を支えてきた品々。 ある時代の方には、懐かしさと心やすらぐ時を、若者には先人の生活の知恵と毎日を心豊かに過ごすわざを感じていただければ幸いとのことです。
本多忠勝
「商い資料館」から城下町通りを600mほど進んだ交差点を左折して100mほど進むと夷隅川です。 夷隅川に架かっている橋の欄干に本多忠勝の像が設けられています。 また、この場所は夷隅川フィッシングパーク入口となっています。
大円寺
逆に交差点を右折して50mほど進んだ左手が「大円寺」で、その隣にあるのが「良玄寺」です。 天正18年(1590年)10万石の領主として大多喜城主となった本多忠勝は、文禄4年(1595年)下総小金(松戸市)東漸寺の住職了学上人を招いて、菩提寺良信寺を建立し、寺領として百石を寄進しました。
慶長5年(1600年)関ヶ原合戦の翌年に忠勝は、伊勢桑名へ移封となり、次男の忠朝が5万石で大多喜城主になりました。 元和元年(1615年)忠朝は大阪夏の陣で戦死し、甥の政朝があとを継ぎ、忠朝の法名をとって寺の名前を良玄寺と改めました。
良玄寺
本多忠勝、同夫人、本多忠朝の墓所
忠勝公園
良玄寺の墓地には本多忠勝、同夫人、次男忠朝の墓があります。 忠勝は慶長15年(1610年)63歳で桑名または江戸で没したといわれ、桑名浄土寺に葬られましたが、分骨して建立したものです。 忠勝夫人は、忠勝が桑名に移封後もこの地に残り、慶長18年(1613年)に大多喜城で没したと伝えられています。 忠朝も大坂一心寺に葬られましたが、分骨してここに埋められています。
平成17年に墓所に隣接した場所に公園が整備され、忠勝公園として、地域住民に親しまれています。 良玄寺から大円寺の方に戻り、北方向に200mほど戻ると左手に「大屋旅館」があります。
三河屋呉服店(天明6年創業)
大屋旅館
江戸時代の後期から旅籠として営業しているおり、主屋は国の有形文化財に登録されています。 格子戸造りで明治の面影残す安らぎの宿で、映画やドラマのロケ地としても有名です。 明治時代には歌人・正岡子規も泊まったと伝えられています。
大屋旅館の傍の路地を入ったところが、夷隅神社です。 夷隅神社は昔から通称・牛頭天皇王宮(ごずてんのうぐう)と呼ばれており、明治元年(1868年)に夷隅神社と改称されました。 御祭神は素盞鳴命(すさのおのみこと)を祀っています。 鎮座の年代は不詳ですが、社伝によると長久2年(1041年)に再建とありますので、それよりも以前から存在していたと思われます。
夷隅神社
夷隅神社水路
歴代の大多喜城主の崇敬社として続きました。 社殿は権現造り、玉垣を廻し、整った形式で、江戸時代末期のものと思われています。 境内には西南戦争、日清戦争をはじめ、戦争で戦死した人々の忠魂碑、殉職警察官の招魂碑などがあります。
夷隅神社の境内への入口に「夷隅神社水路」があります。 この水路は、新丁上宿周辺の雨水を集め、神社の杜や社殿・太鼓橋と調和した景観をつくりだしています。 生命のみなもとである水に親しみながら、鯉や鮒などの水生生物を守り育てることにより、人々に潤いと安らぎを与え神社を訪れる人々の憩いの場所として親しまれています。
豊乃鶴酒造
夷隅神社から大屋旅館に戻り、北方向に200mほど進んだ丁字路の右手にあるのが「豊乃鶴酒造」です。 赤レンガの煙突が目印の、天明年間(1781年〜1789年)に創業した老舗造り酒屋です。 爽やかで端麗な味わいの銘酒「大多喜城」の醸造元です。 国の有形文化財に登録されています。
御菓子司津知家
「豊乃鶴酒造」の左隣が、「御菓子司津知家」です。 大多喜町は本多忠勝が十万石を与えられ、領地した町です。 このため大多喜では 忠勝の十万石にあやかり、いろんなお菓子やお酒が生産されているとのことです。 その中で、城下町の風格漂う逸品が、津知家の「十万石最中」とのことですが、この日は残念ながら閉店日でした。
上南郭公園
大多喜町役場
「御菓子司津知家」から西方向に200mほど進んだ丁字路を右折し、100mほど進んだ右手が大多喜町役場です。 大多喜町役場から少し進んだ左手が「上南郭公園」です。
この上南郭公園の説明版には、公園のことではなく十返舎一九の「房総道中記」で大多喜町に寄った時の様子が抜粋されていました。 十返舎一九が房総を旅したとは知りませんでした。
公衆電話BOX
十返舎一九の「房総道中記」
寺町通り(石畳)
桜谷寺
「上南郭公園」から200mほど進んだところが大多喜駅で、今回の散策コースのゴールですが、時間的余裕がありましたので、「寺町通り(石畳)」を散策しました。 寺町通りに入って最初のお寺が「桜谷寺」です。
「桜谷寺」は、大多喜城主となった本多忠勝が、老母のために万木城下桜谷(現在の夷隅町万木)に建立して、下総大巌寺の安誉虎角を招いて開山としましたが、文禄4年(1595年)に現在地に移されたといわれています。 境内の地蔵堂にある石造地蔵菩薩立像は万治3年(1660年)に造られたもので、この地方には少ない江戸時代の優れた像で、町の指定文化財になっています。
桜谷寺地蔵堂
正福寺
「寺町通り(石畳)」の名前のとおり、お寺巡りとなりました。 細部の説明は省略します。 大多喜散策 その1へ 風来坊