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川越散策 その1 (H25.1.31)


鐘つき通り



川越駅

JR東日本の「駅からハイキング」のイベント「時薫るまち川越 小江戸川越 七福神めぐり」に参加しました。

サブタイトルは「古き良き時代の町並みが残る小江戸川越で、七福神巡りを楽しんで下さい」です。


細部説明は「川越は、江戸を象徴する社寺、西洋文化交流の明治、モダン建築の大正、昭和の菓子屋横丁と、懐かしさと新しさが共存するまちです」となっています。


コースの概要は次のとおりです。

川越駅→川越駅観光案内所(スタート)→妙善寺→天然寺→喜多院→成田山川越別院→川越城本丸御殿→川越市立博物館、美術館→氷川神社→川越まつり会館(チェックポイント)→時の鐘→蓮馨寺→菓子屋横丁→見立寺→妙昌寺→川越駅観光案内所(ゴール)→川越駅


川越観光案内所



川越駅東口

コースの歩行距離は約9km、歩行時間約2時間30分(施設での見学時間等を除く)、所要時間約3時間30分(施設での見学時間を含む)です。

写真を撮りながら廻りましたが、所要時間3時間40分、約15000歩でした。


川越駅観光案内所で受付を済ませてスタートですが、さすがに人気の小江戸川越、平日というのに随分多くの方が受付を済ませていました。

今回は七福神めぐりのコースということで、住宅街の狭い路地もありますのでコースの説明は省略します。要所要所に案内板が設置されていました。

七福神めぐりとなっていますが、川越市の散策スポットは概ねカバーしているコースです。


地図とこのマークを目印に歩きます



七福神巡りは大人気です

川越駅から右方向に200mほど進んだ左手が「妙善寺」です。

妙善寺は、道人山妙善寺と号し天台宗に属しています。開山の尊能法印が寛永元年(1624年)に建立しました。

堂宇は天明8年(1788年)の火災によって焼失、昭和53年(1978年)年に再建しました。本尊は不動明王で、脇に阿弥陀如来を安置しています。

川越七福神の第一番札所で毘沙門天です。



天然寺


妙善寺から約500mで「天然寺」です。

天然寺は、自然山大日院と号し、本尊大日如来(金剛界)を安置。慈覚大師草創の地と伝えられていますが、天文23年(1554年)9月開山栄海上人によって創建されました。

境内には慈母観音像、六地蔵尊等があります。


川越七福神の第二番札所で寿老人です。


天然寺



中院



中院

天然寺から約700mで「中院」です。

中院の創立の縁起は喜多院と全く同じで、天長7年(830年)慈覚大師によって創建されました。

元来星野山無量寿寺の中に北院・中院・南院があり、それぞれ仏蔵院、仏地院、多聞院と称していました。


当初の中院は、現在の東照宮の場所にありましたが、寛永10年(1633年)東照宮建造の折りに現在地に移されました。

天海僧正が喜多院(北院)の住職となるまでは、中院が無量寿寺の中心的な役割を果たしていました。


中院



仙波東照宮



仙波東照宮



仙波東照宮

中院から少し進むと「仙波東照宮」です。

徳川家康は元和2年(1616年)76歳で死去すると、いったん静岡県の久能山に葬られましたが、遺言に従い元和3年(1617年)、2代将軍秀忠は亡父家康の遺骸をあらためて日光に移葬しました。

徳川家康を祀る仙波東照宮は、久能山から日光に家康の遺骸を移葬する道中で、喜多院に4日間逗留して供養しましたので、天海僧正が寛永10年(1633年)1月に建立したものです。


その後、寛永15年(1638年)正月の川越大火災で延焼しましたが、3代将軍家光が東照宮再建計画を立てて、川越城主堀田加賀守正盛を造営奉行として、同年6月起工、寛永17年(1640年)に完成したものです。現在の社殿はこのときのものです。

当初から独立した社格を持たず、喜多院の一隅に造営されたもので、日光、久能山の東照宮とともに三大東照宮といわれています。


仙波東照宮・表門(随身門)



仙波東照宮・鳥居

社の規模は表門(随身門)、鳥居、拝幣殿、中門(平唐門)、瑞垣、本殿からなっています。

本殿の前に、歴代城主奉献の石燈籠があります。

境内入口にある随身門は朱塗八脚門・切妻造でとち葺形像板葺です。

八脚門とは3間×2間の門で、門柱4本の前後に各1本ずつの控え柱をもっている屋根付き門のことです。

以前は後水尾天皇の御染筆の「東照大権化」の額が掲げられていました。



喜多院・本堂(慈恵堂)



喜多院・本堂(慈恵堂)


仙波東照宮の隣が「喜多院」です。

知多院は、天長7年(830年)慈覚大師が創建した天台宗の名刹で、正式名称は星野山無量寿寺喜多院です。

江戸時代初期、名僧天海大僧正が住職をつとめた寺として、また江戸城から移築された三代将軍徳川家光・春日局ゆかりの建物をはじめとする、多くの文化財を所蔵している喜多院は川越を代表する寺院として全国的にも有名です。


喜多院・山門



喜多院・多宝塔



喜多院・慈眼堂

寛永15年(1638年)1月の川越大火で現存の山門(寛永9年建立)を除き、堂宇はすべて焼失しました。

3代将軍家光は、川越城主堀田加賀守正盛に命じて復興にかかり、江戸城紅葉山(皇居)の別殿を移築しました。

豪華な壁画や墨絵で装飾された「客殿」と呼ばれる家光誕生の間や、3代将軍家光の乳母として知られる春日局が使用していた「書院」と呼ばれる春日野局化粧の間などがあるのはそのためです。



喜多院・客殿&書院


そのほか、慈恵堂、多宝塔、慈眼堂、鐘楼門、東照宮、日枝神社などの現存の建物を数年の間に相次いで再建し、いずれも重要文化財に指定されています。

江戸時代の香りを残す、徳川家とゆかりの深い寺院です。

明治維新の神仏分離令からは、東照宮と日枝神社は別管理となっています。

喜多院は川越七福神の第三番札所で大黒天です。


喜多院・客殿&書院



五百羅漢



五百羅漢

喜多院境内に、日本三大羅漢の一つに数えられる五百羅漢があります。

この羅漢は、川越北田島の志誠(しじょう)の発願により天明2年(1782年)より文政8年(1825年)の約50年間にわたり建立されたもので、十大弟子、十六羅漢を含め533尊者のほか中央高座の大仏に釈迦如来、脇侍の文殊普賢の両菩薩、左右高座の阿弥陀如来、地蔵菩薩を合わせて全部で538体が鎮座しています。


喜多院から北方向に200mほど進んだ左手が「成田山川越別院」で、右手に「川越歴史博物館」があります。

「川越歴史博物館」は、川越城及び川越藩ゆかりの歴史的資料を保護するために、川越城築城530年を期に開館した施設です。


川越歴史博物館



成田山川越別院



成田山川越別院

「成田山川越別院」は、大本山成田山新勝寺の別院で、真言宗密教の寺院です。

江戸時代の末の寛永6年(1853年)に、石川照温が廃寺となっていた本行院を成田山新勝寺の別院として再興したのが始まりといわれています。

本尊は不動明王で、内外の所難や汚れを焼き払い、人々を守るといわれ、願をかける時などに奉納する絵馬のため、境内には絵馬堂も建立されています。

川越七福神の第四番札所で恵比寿天です。


成田山川越別院から北東方向に400mほど進んだところが「三芳野神社」です。

三芳野神社は平安時代のはじめの大同年間(806〜810年)の創建と伝えられ、三芳野18郷の惣社として崇敬を集めました。

太田道灌は川越城築城にあたって、天神曲輪に位置することになり、当社を鎮守としました。


成田山川越別院



三芳野神社

現存する社殿は、寛永元年(1624年)川越藩主酒井忠勝が、徳川家光の名を受けて造営したもので、鈴木近江守長次によって再興されました。

寛永2年には、天海大僧正を導師として遷宮式が行われた。これ以後、喜多院、仙波東照宮とともに江戸幕府の直営社となりました。


明暦2年(1656年)には、4代将軍徳川家綱の命を受けた川越城主松平信綱により大改造が行われました。この大改造の時に江戸城二の丸の東照宮本殿を移築し三芳野本殿とし、寛永に建てられた拝殿との間に幣殿を新しく設け、権現造りの形態としました。


童歌「とおりゃんせ」は三芳野神社の参道が舞台といわれています。

三芳野神社は川越城築城により天神曲輪に位置することになり「お城の天神さま」と呼ばれました。

城内にあることから一般の参詣ができなくなりましたが、信仰が篤いことから時間を区切って参詣することが認められました。

しかし、この天神さまにお参りするには川越城の南大手門より入り、田郭門を通り、富士見櫓を左手に見、さらに天神門をくぐり、東に向かう小道を進み、三芳野神社に直進する細道を通ってお参りしなければならなりませんでした。


三芳野神社参道



川越城本丸御殿

また、一般の参詣客に紛れて密偵が城内に入り込むことを避けるため、帰りの参詣客は警護の者によって厳しく調べられました。

そのことから「行きはよいよい、帰りは怖い・・・・」と川越城内の子女の間で唄われるようになり、それが城下に流れ、武士や僧侶、町人たちによって江戸へ運ばれ、やがて全国へ広まって行ったものです。


なお、参道は江戸時代より若干変化しています。



川越城本丸御殿



川越城本丸御殿


三芳野神社のすぐ傍に川越城本丸御殿があります。

川越城は、扇谷上杉持朝が古河公方足利成氏に対抗する為、長禄元年(1457年)に家臣の太田道真・道灌父子に命じて築城したものです。

その後、寛永16年(1639年)、徳川幕府の重鎮として知られる川越藩主松平信綱が、川越城の大規模な拡張、整備を行い、台地上先端に本丸・天神郭、北に二の丸、西に八幡郭・三の丸他の曲輪、本丸西南隅に三層の富士見櫓と称する櫓を含む三つの櫓と十二の門からなり、総坪数は堀と土塁を除いて4万6千坪になりました。


川越城本丸御殿



川越城本丸御殿

本丸御殿は、嘉永元年(1848年)、時の藩主松平斉典が造営したもので、江戸時代17万石を誇った川越城唯一の遺構です。

現在に残る川越城本丸御殿は、明治維新後の解体により嘉永元年に松平斉典が造営したものの一部であり、現存しているのは玄関、大広間と移築復元された家老詰所のみです。


玄関に入ると廊下がぐるりと部屋を取り囲んでおり、いくつかある部屋の装飾は質素で装飾などは最低限に止められているが、部屋を仕切る扉に描かれた杉戸絵や車寄せの構えは豪壮でさすがに御殿と呼ぶにふさわしい造りです。

大広間にいまだに残る松の絵の絵板戸や、現存する家老詰所には家老の人形などがあり、当時の面影を偲ばせています。


川越城本丸御殿



川越市立博物館



川越市立博物館

本丸御殿のすぐ北側に「川越市立博物館」と「川越市立美術館」があります。

川越市立博物館は、川越藩の城下町として発展してきた川越に関する資料の収集、保存、調査研究、公開を目的として、川越城二の丸跡に建設され、平成2年(1990年)に開館しております。


川越市立美術館は、川越市市制施行80周年の事業として、平成14年(2002年)に川崎市立博物館に隣接して建築されました。

川越の蔵造りの商家のデザインを外観に取り入れています。

川越生まれの画家、川越藩の画家、川越市ゆかりの画家などの、日本画、洋画、版画などを展示している常設展示室のほか、県内他市で活躍した作品も展示されています。


川越市立美術館



氷川神社



氷川神社

川越市立美術館から北方向に300mほど進んだところに「氷川神社」があります。

氷川神社は今から約1500年前、欽明天皇2年(541年)に武蔵国造が大宮の氷川神社より分祀、奉祭したことに始まると伝えられています。

氷川神社は太田道灌以来、川越の総鎮守とされ歴代川越藩主の篤い崇敬を受けてきました。


関東三大まつりで国の重要無形民俗文化財である川越祭りは、10月14日に氷川神社が執行する「例大祭」を根源として、「神幸祭」や「山車行事(祭礼)」から成り立っています。

敷地内に、結婚式場である氷川会館があります。

埼玉県内では唯一の神社隣接の専門結婚式場として知られています。

また、結婚式のなかで行われる誓いの儀式「結い紐の儀」は川越氷川神社独自の儀式として商標登録されています。


柿本人麻呂神社(氷川神社境内)



川越市役所



川越城大手門跡

氷川神社から南西方向に300mほど進んだところが川越市役所です。

川越城大手門跡に建設された川越市役所の前には、太田道灌の立像があります。

昭和47年(1972年)に市制50周年を記念して、川越市開府の始祖とも仰ぐ太田道灌の銅像が建てられました。





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       風来坊


太田道灌銅像


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