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富岡散策 その1 (H25.9.10)


富岡製糸場 東繭倉庫



富岡製糸場 繰糸器



富岡市役所 世界遺産へ推薦決定の垂れ幕が!

JR東日本の「駅からハイキング」のイベント「めざせ世界遺産!『とみおか』の街並みと城山を歩く」に参加しました。

サブタイトルは「歴史で習った富岡製糸場。明治5年建設当時ののままの姿で残る製糸場とその周辺を散策してみませんか」です。


細部説明は「世界文化遺産候補としてユネスコへ推薦されている富岡製糸場は、明治5年(1872年)に日本で最初に建設された官営模範器械製糸工場で、世界的な絹産業の発展に貢献しました。」となっています。


コースの概要は次のとおりです。

上州富岡駅→まちなみ観光物産館(受付)→仲町まちなか交流館→富岡製糸場龍光寺城山宮本町まちなか交流館まちなか観光物産館(ゴール)上州富岡駅


諏訪神社



まちなみ観光物産館:観光案内所

歩行距離約8km、歩行時間約2時間30分(施設での見学時間を除く)、所要時間約3時間30分(施設での見学時間を含む) です。

まちなみ観光物産館で配布された「駅からハイキング散策マップ」では、散策コースに城山が含まれていませんでした。

帰宅後、散策マップを確認すると、マップの裏面に上州富岡駅から城山公園への散策コースが別コースとして掲載されていました。

ということで城山をパスしてしまい、所要時間は2時間15分、約9500歩でした。


上州富岡駅から右手に100mほど進むと富岡市役所です。

富岡市役所の手前を左折し、南方向に200mほど進むと左手に「富岡諏訪神社」があります。

そのままさらに200mほど進んだ左手が「まちなみ観光物産館(観光案内所)」(受付)です。


富岡製糸場正門



富岡製糸場 東繭倉庫



富岡製糸場 東繭倉庫



富岡製糸場

受付を済ませ、「まちなみ観光物産館」から100mほど進んだ交差点に「仲町まちなか交流館」があります。

交差点を右折して200mほど進んだ正面が「富岡製糸場(チェックポイント)」です。

富岡製糸場は、殖産興業を推進するために国が建てた大規模な建造物群が現存する産業施設です。


明治維新後、政府はあらゆる面で立ち遅れていた日本を外国と対等にするために、産業の近代化を進めました。

その近代化に必要な資金を得る方法としては、茶と生糸の輸出がありましたが、生糸の輸出が一番効果的だと考えられました。


しかしながら、繭から生糸を作る製糸工程は人力や前近代的な器具によるところが大きく、製品の質の面で外国に劣ると評されていました。


富岡製糸場 東繭倉庫



東繭倉庫入り口に明治5年の表示

そこで、明治政府は生糸の品質改善、生産向上と技術指導者育成のために、最新式製糸器械を備えた模範工場を作ることにしました。

このため、明治政府は外国人指導者として横浜のフランス商館勤務のポール・ブリューナを雇用しました。

ブリューナは建設地を富岡に選定し、フランスから製糸場に必要となる技術者を連れてくるとともに、洋式の器械を日本人の体格に合うように改良したものを取り寄せました。

日本側の責任者となって資材の調達や建設工事の総指揮を取ったのは、初代所長になる尾高惇忠でした。



繰糸場



繰糸場

繰糸場は長さ140.4m、幅12.3m、高さ12.1mで、当時、世界的に見ても最大規模でした。

工場建設は明治4年(1871年)に始まり、明治5年(1872年)7月に完成、10月4日には歴史的な創業が開始になりました。



繰糸場



繰糸器


繭を生糸にする繰糸工場には300人取りの繰糸器が置かれ、全国から集まった工女たちの手によって本格的な器械製糸が始まりました。

外国人指導者がいなくなった明治9年(1876年)以降は、日本人だけで操業されました。

経営は必ずしも黒字ばかりではなかったようですが、高品質に重点を置いた生糸は海外で好評だったとのことです。


繰糸器



繰糸器

その後、官営工場の払い下げ令により、明治26年(1893年)に三井家に払い下げられ、明治35年(1902年)には横浜の生糸商原合名会社(経営者の原富太郎は横浜三渓園の創設者)に譲渡され、御法川(みのりがわ)式繰糸機による高品質生糸の生産や、蚕種の統一などで注目されていました。

昭和14年(1939年)、日本最大の製糸会社であった片倉製糸紡績株式会社(現・片倉工業)の所有となり、戦中・戦後と長い期間に亘り製糸工場として活躍を続け、昭和62年(1987年)3月に操業をやめるまで、115年の長きに渡り操業されました。


約1万5千坪の敷地内には、開設当時の繰糸場、東繭倉庫、西繭倉庫、外国人宿舎(女工館、検査人館)、ブリューナ館などのレンガ建造物が、操業当初の頃の状態で良好に保存されています。

明治政府が造った官営工場の中で、ほぼ完全に残っているのは富岡製糸工場だけで、重要な近代化遺産です。


繰糸器



繰糸器


繰糸器



富岡製糸場



富岡製糸場 東繭倉庫

建物の紹介

富岡製糸場の主要な建物は、「木骨レンガ造(もっこつれんがぞう)」という、西洋のレンガ積の技術と、木で骨を組むという日本の建築方法を組み合わせて、建てられた建物です。

レンガという西洋の新しい技術を取り入れながら、材木をふんだんに使用し、屋根は瓦で葺くなど、日本と西洋の建築技術を融合させて建造されています。


屋根の重量は木の柱で支えているとのことです。


レンガは、フランドル積みと呼ばれる工法で積まれています。

建築構造としてのレンガの積み方にはフランドル積み、イギリス積みなどがあります。

正面から見たときに、一つの列に長手と小口が交互に並んで見えるのがフランドル積みで、一つの列は長手、その上の列は小口、その上の列は長手、と重ねてゆくのがイギリス積みです。

使用されているレンガは、日本の瓦職人が隣町の甘楽町福島に窯を築いて焼き上げたもので、目地には下仁田の青倉、栗山で採取された石灰で作った漆喰が使用されました。


フランドル積み



検査人館

東繭倉庫

明治5年(1872年)建築木骨レンガ造2階建ての建物です。

1階は事務所・作業所などとして使用し、2階に乾燥させた繭を貯蔵しました。

倉庫1棟には最大で2500石(約32トン)の繭を貯蔵することができました。

長さ104.4m、幅:12.3m、高さ:14.8m。


検査人館

生糸や機械の検査を担当したフランス人男性の住居として明治6年(1873年)に建築された、木骨レンガ造2階建てのベランダ付きの住宅です。

後に改修され、現在は事務所として使用されています。

2階には、皇族や明治政府役人がここを訪れた際に使用したといわれる貴賓室が、ほぼ当時の状態のまま残されています。

隣の女工館との連絡部分は当初のものではなく、のちに付設されたものです。


検査人館



女工館

女工館

日本人の女工に、器械による糸とりの技術を教えるために雇われたフランス人女性教師の住居として建てられました。

木骨レンガ造り2階建て廻廊様式のベランダ付きの住宅建築物です。

板が格子状に組まれたベランダの天井やガラス戸の外側に設けられた直射日光を避けるためと考えられる「よろい戸」も、当時の日本建築物にはみられない特徴です。



ブリューナ館


ブリューナ館

指導者として雇われたフランス人ポール・ブリューナが、政府との契約満了となる明治8年(1875年)まで家族と暮らしていた住宅です。

広さ約320坪ある建物は木骨レンガ造で建てられ、高床で回廊風のベランダを持つ風通しの良い造りとなっています。

のちに建物は工女の夜学校として利用され、片倉時代には片倉富岡高等学園の校舎として使われました。そのため内部は大幅な改造が加えられており、当初の面影はほとんどありません。床下にレンガ造地下室が3つあります。食料品貯蔵庫と考えられています。


ブリューナ館



診療所

診療所

昭和15年(1940年)に建てられた、3代目の診療所です。

当初の診療所は敷地の北東部分に建てられ、フランス人医師が治療にあたりました。

また、官営時代においては治療費・薬代は工場側が負担していました。

官営から片倉までの全期間を通じて厚生面が充実していたことがわかります。


乾燥場

生糸の原料となる繭を乾燥させた建物です。

繭の中のサナギを殺すことと、繭の長期保存に備えて繭からカビが発生するのを防ぐことを目的として繭を乾燥させます。

この建物は、大正11年(1922年)に建設され、その後、昭和17年(1942年)まで増築、改装が行われ、操業停止まで使われました。


乾燥場



乾燥場

現在残る乾燥機6台は、繭を1階からベルトコンベアで2階にあげて乾燥機に投入し、8段に分かれている内部を下段に移動していく中で、約6〜8時間かけて温度調節をしながら繭を乾燥させることができました。


西繭倉庫

明治5年(1872年)の建築で、長さ104.4m、幅:12.3m、高さ:14.8mです。

東繭倉庫と同じ木骨レンガ造りの建物です。

窓が少ない、アーチが少ないなどの異なる点はありますが、ほぼ同じ構造です。


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      風来坊


西繭倉庫


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