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鶴ヶ城天守閣
鶴ヶ城北出丸
至徳元年(1384年)葦名直盛が黒川城を築き、ここから600年の歴史が始まります。 会津は戦国時代に、葦名・伊達・蒲生・上杉・保科・松平と数多くの大名が治めた歴史があります。 また、幕末戊辰戦争では旧幕府派(東軍)として最後まで抵抗したため、会津が激しい戦場となりました。 悲劇として有名な白虎隊はこの戊辰戦争での出来事です。
佐原・葦名時代(鎌倉時代〜室町時代) 佐原一族は、源頼朝が東北を支配下に置いた後、会津北部を領地として与えられた鎌倉御家人・佐原義連の一族です。葦名氏は佐原一族の一員でした。 葦名は佐原一族の中で 徐々に勢力を強め、会津守護職と言われる支配構造を確立しました。その葦名氏が建てた東黒川館が鶴ヶ城の前身と言われています。
鶴ヶ城北出丸枡形
伊達政宗時代(安土桃山時代) 内紛のあった葦名氏を、奥州の覇権を狙っていた米沢の伊達政宗が破り、会津は伊達の支配下に入りました。 しかし時の権力者・豊臣秀吉の命令で、わずか一年余の支配で伊達政宗は会津の地を手放すことになります。
鶴ヶ城北出丸口
鶴ヶ城太鼓門
蒲生氏郷時代(安土桃山時代) 蒲生氏郷は、戦国の英雄・織田信長の寵臣で、信長の娘・冬姫と結婚しています。 現在の会津若松の基礎は彼によって築かれました。 黒川を会津と改めたのも蒲生氏郷です。 文武両道に優れた人材でしたが、わずか40才でこの世を去りました。
鶴ヶ城表門(鉄門)
上杉景勝時代(安土桃山時代) 上杉景勝は、有名な上杉謙信の養子にあたり、上杉の家督を継いだ人物です。 豊臣秀吉の五大老の一人でしたが、秀吉亡き後、徳川家康と対立。 後に徳川軍門に下るものの、会津120万石から出羽米沢30万石へと減封されました。
再・蒲生時代(江戸時代) 蒲生氏郷の子・秀行は徳川の娘を妻とし、関ヶ原の戦いでは徳川に従い、上杉の南下に備えました。 その功績で再び会津に60万石で封じられました。 蒲生秀行は町方の振興に努めますが、大地震や干ばつに悩まされ、若くして亡くなります。 その後、蒲生家は家中が乱れや、家長の若死が続き、わずか4代で途絶えます。
天守閣からの展望
天守閣からの展望 磐梯山
加藤氏時代(江戸時代) 加藤嘉明は若くして豊臣秀吉に仕え、勇名をはせた典型的な戦国武将です。秀吉の死後徳川についたため、後に伊予松山(愛媛)に20万石を与えられました。 そして会津を治めていた蒲生氏が途絶えたことから、40万石で伊予松山(愛媛)から会津に転封。その後、城の改修と領内の整備を進めます。 彼の行った城の改修で天守閣は5層となり、鶴ヶ城は現在の姿になりました。 しかし、その子・加藤明成が重臣と対立したのをきっかけに、会津40万石は幕府に召し上げられることになります。
保科・松平時代(江戸時代) 保科正之は徳川2代将軍・徳川秀忠の庶子にあたります。秀忠が実子と認められず、信濃の保科正光の養子として育ちました。 やがて3代将軍・家光に実弟として認められ、会津を領地として与えられます。 やがて、保科正之の子・正容が3代目を継ぐと、幕府から松平姓と葵の紋を与えられ、正式に徳川親藩に会津は組み入れられる事になります。 こうして、会津の松平藩政は九代続きました。
天守閣からの展望 本丸
荒城の月碑
幕末・戊辰戦争 黒船が現れ世間が揺れる幕末。 会津が全国に知られているのは、この時期の戊辰戦争が大きな要因です。 戊辰戦争は1868年、鳥羽伏見の戦いから始まった日本最後の内戦で、旧幕府軍と新政府軍が激しく戦いました。 会津は旧幕府軍として最後まで抵抗しましたが、最後には降伏することになります。 悲劇で知られる白虎隊や新選組など、多くの英雄が活躍し、その命を落としたのもこの戦争です。
鶴ヶ城公園内に茶室「麟閣」があります。 天正19年(1591年)千利休は豊臣秀吉の怒りにふれ、死を命じられました。 この時、千利休の茶道が途絶えることを惜しんだ会津藩主・蒲生氏郷は、利休の子の少庵を会津に匿い、豊臣秀吉に「千家再興」を願い出ました。 この結果、少庵は京都へ帰り、千家茶道は少庵の子「宗旦」に引き継がれ、その孫により武者小路千家、表千家、裏千家の三千家が興され、現在に伝えられています。
月見櫓
茶室・麟閣
「麟閣」は少庵が会津に匿われていた時、氏郷のために造ったと伝えられており、戊辰戦争後は茶人・森川善兵衛宅で大切に保存されてきました。 会津若松市では平成2年、市制90周年を記念して、この麟閣を元の場所に移築復元したものです。
南走長屋・干飯櫓
天守閣と南走長屋 赤瓦がよくわかります
「南走長屋・干飯櫓」が復元されています。 干飯櫓は、鶴が城内にあった11棟の櫓の中で一番大きかった櫓です。 文字通り「食料庫」であったと考えられています。 「南走長屋・干飯櫓」では、平成25年大河ドラマ「八重の桜」の展示が行われていました。
南走長屋
「八重の桜」の主人公・新島八重は、幕末の会津藩に生まれ、戊辰戦争を戦い、後に同志社大学の創始者新島襄の妻となりました。 幕末から明治にかけてたくましく生き抜いた八重の原点は、まさに会津にあったといえることと思われます。 鶴ヶ城西出丸近くに八重の生誕地が、また八重が亡くなる前年に建てた大龍寺墓地の山本家の墓など、八重ゆかりの地がありますが、今回は訪ねませんでした。
本丸から天守閣を望む
茶壺櫓からの展望
八重は、いよいよ開城するという前夜、三の丸にあった蔵の壁に次の歌を刻みました。 明日よりは いづくの誰か ながむらん なれし御城に 残す月影 会津若松散策その1へ 風来坊
茶壺櫓