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文学浪漫の香りあふれる街を散歩する その1 (H25.1.13&1.21)


お茶の水橋橋からの展望



JR御茶ノ水駅

JR東日本の「駅からハイキング&ウォーキングイベント」の「文学浪漫の香りあふれる街を散策する」に参加しました。

サブタイトルは「数多くの文人たちがこよなく愛した街の足跡をたどろう」です。


コースの概要は次のとおりです。

JR御茶ノ水駅→東京都水道歴史館(受付)→文京ふるさと歴史館→旧伊勢屋質店→文京シビックセンター(チェックポイント)→源覚寺→傳通院→牛天神・北野神社→印刷博物館→小石川植物園→白山神社→求道会館→湯島天満宮→霊雲寺→日本サッカーミュージアム→湯島聖堂→東京都水道歴史館(ゴール)→JRお茶の水駅


お茶の水橋橋から 前方は東京医科歯科大学



お茶の水橋から聖橋を望む



お茶の水橋から聖橋を望む

コースの歩行距離は約12km、歩行時間は約3時間(施設での見学時間を除く)、所要時間約4時間(施設での見学時間等を含む)です。

今回は散策スポットが多かったこと、小石川植物園や東京大学構内を散策したこともあり、所要時間5時間、約2万4千歩でした。

小石川植物園をパスしても約2万1千歩の少しハードなコースでした。


受付場所の「東京都水道歴史館」は、JR御茶ノ水駅から少し離れた順天堂大学の北側にあります。

JR御茶ノ水駅の「お茶の水橋口」を出て、お茶の水橋を渡り、正面に聳える東京医科歯科大額の手前を左折し、「順天堂前」の交差点を右折し、次の「順天堂横」の交差点を左折し、100mほど進んだ右手が「東京都水道歴史館」です。


東京都水道歴史館



東京都水道歴史館

「東京都水道歴史館」では、東京水道400年の歴史を江戸時代と明治以降に分けて実物大模型や歴史資料、映像を用いて紹介しています。

天正18年(1590年)、徳川家康の江戸入府と同時に、良質な飲料水を得るために上水が造られたと伝えられています。

この上水は、神田上水へと発展し、そして承応3年(1654年)には玉川上水が完成し、世界有数の100万都市江戸の人々の暮らしを支えました。


明治時代に入ると、コレラの大流行などが近代水道の建設を促しました。

明治31年(1898年)には淀橋浄水場が通水を開始し、東京近代水道の始まりとなりました。

東京水道歴史館では、玉川上水に関する歴史資料が非常に充実しており、貴重な一次資料や二次資料を閲覧することができます。


東京都水道歴史館



本郷通り



本郷3丁目交差点 横断して左折です

「東京水道歴史館」で受付を済ませて外に出て左折し、150mほど進んだ広い道路を右折すると50mほど先が「壱岐坂上」の交差点で本郷通りにぶつかります。

「壱岐坂上」の交差点を左折し本郷通りに沿って300mほど進むと「本郷3丁目」の交差点で左右に走っているのが、春日通りです。


「本郷3丁目」の交差点を左折し300mほど進んだ「真砂坂上」の交差点を右折すると細い路地になります。

路地を100mほど進んだ左手が「文京ふるさと歴史館」です。

「文京ふるさと歴史館」は、平成3年(1991年)に開館しました。


櫻木神社



文京ふるさと歴史館

文京区は弥生土器命名の地として知られており、古くから豊かな歴史を持っています。

江戸時代には武家と町人が暮らし、独特の産業や文化が形作られました。

明治時代には東京大学をはじめとする多くの大学が作られ、また、森鴎外や樋口一葉など著名な文人たちの活動の拠点として、文教の街の礎が築かれました。

「文京ふるさと歴史館」は、文京区の歴史、生活の変遷、ゆかりの文学などを現物や模型で展示しています。



炭団坂


「文京ふるさと歴史館」から200mほど進むと路地全体が急な階段になっています。

この階段のある場所が「炭団坂」で、本郷台地から菊坂の谷へ下る急坂です。

「ここは炭団などを商売にする者が多かった」「切り立った急な坂で転び落ちる者がいた」ということから、炭団坂という名前が付けられたとのことです。

この坂を上り詰めた右側の坂の上に、坪内逍遙が明治17年(1884年)から明治20年(1887年)まで住み、「小説神髄」や「当世書生気質」を発表しました。


炭団坂を降りた先の路地 途中で右折です



右折してこの階段を登ります

炭団坂を下りて100mほど進むと右手に進むことができる階段があります。

階段を登り丁字路を左折して100mほど進んだ右手が樋口一葉ゆかりの「旧伊勢屋質店」です。

伊勢屋質店は、万延元年(1860年)この地で創業し、昭和57年(1982年)に廃業しました。



「旧伊勢屋質店


樋口一葉の作品によると、一葉が明治23年(1890年)、近くの旧菊坂町(現在の本郷4丁目)の貸家に母と妹と移り住んでから、度々この伊勢屋に通い、苦しい家計をやりくりしました。

明治26年(1893年)下谷竜泉寺町に移ってからも、終焉の地(現在の西片1−17−18)に戻ってからも、伊勢屋との縁は続いたとのことです。


店の部分は明治40年に改築しましたが、土蔵は外壁を関東大震災後塗り直しましたが、内部は往時のままとのことです。


「旧伊勢屋質店



西片交差点 左右は白山通り

「旧伊勢屋質店」から50mほど進んだ「菊坂下」の交差点を左折して200mほど進むと「西片」交差点で、左右に走っているのが白山通りです。

「西片」交差点を左折して白山通りに沿って300mほど進んだところが「春日町」交差点です。

交差点を右折した左手が「文京シビックセンター」(チェックポイント)です。



春日町交差点からの文京シビックセンター



文京シビックセンターから春日町交差点を望む 上下が春日通り、左右が白山通り



東京スカイツリー



東京スカイツリー

文京区役所本庁舎が入居する文京シビックセンターは、文京公会堂の跡地に1999年11月に竣工した、地上28階、地下4階、高さ142mの建物です。

東京23区の区役所では、最も高い建物です。

文京シビックセンターは、区役所のほか、大・小ホール、区民施設、展望ラウンジ、レストラン、カフェなどを備えた総合施設です。



新宿高層ビル群と富士山



池袋方面


文京シビックセンターの25階北側には展望室があり、無料で東京の景観を楽しむことができます。

室内照明の反射を避けるために傾斜のついた窓が特徴的です。

浅草方向にはスカイツリーを、新宿方向に高層ビル群と富士山を望むことができます。

関東の富士見百景にも選出されています。

また、25階南側はスカイレストランになっています。


眼下に見える小石川後楽園



白山通りの西側の通りを北上



源覚寺

文京シビックセンターを出て、「富坂下」の交差点を北方向に300mほど進んだところが「こんにゃくえんま前」交差点です。

「西片」交差点から西方向に100mほど進んだところです。


「こんにゃくえんま前」の交差点の傍に「源覚寺」があります。

「源覚寺」は、寛永元年(1624年)、定誉随波上人により現在地に開創されました。


御本尊は阿弥陀さまですが、閻魔堂には閻魔像が安置されています。

閻魔王は、冥界にあって亡くなった人の生前の罪業を裁断する十王のうち、最も知られているひとりです。

わが国の閻魔信仰は、平安時代後期に始まり、鎌倉時代に盛んになりました。

源覚寺の閻魔像は右眼が黄色く濁っていますが、閻魔王が信心深い老婆に己の右眼を与え、老婆は感謝のしるしとして好物の「こんにゃく」を供え続けたという言い伝えがあります。


源覚寺



源覚寺



源覚寺の閻魔さま

このことから、源覚寺の閻魔さまは「こんにゃく閻魔」と呼ばれるようになり、眼病治癒の閻魔さまとして人々の信仰を集めています。

夏目漱石の「こころ」、樋口一葉の「にごりえ」にも「こんにゃく閻魔」は登場します。

さらに、時代小説や落語の噺の中にも取り上げられています。

源覚寺門前一帯は「こんにゃくえんま門前」として賑わい、江戸時代から続く縁日には近隣からの人々も押しかけ活気に溢れるとのことです。



えんま通り商店街


源覚寺を出て左折し、「えんま通り商店街」を200mほど進んだ交差点を左折すると、「すずらん通り」となります。

100mほど進むと「善光寺坂」です。

坂の途中に善光寺があるので、寺の名をとって坂名としたとのことです。


すずらん通り



善光寺坂



善光寺

善光寺は慶長7年(1602年)の創建で、傳通院の塔頭で、縁受院と称しました。

明治17年(1884年)に善光寺と改称し、信州の善光寺の分院となりました。

したがって、明治時代の新しい坂名です。



慈眼院・沢蔵司稲荷


「善光寺坂」を登った右手に「「慈眼院・沢蔵司稲荷」があります。

傳通院の学寮に、沢蔵司という修行僧がいましたが、僅か3年で浄土宗の奥義を極めました。

元和6年(1620年)5月7日の夜、学寮長の極山和尚の夢枕にたち
「そもそも 余は千代田城の内の稲荷大明神である。かねて浄土宗の勉学をしたいと思っていたが、多年の希望をここに達した。今より元の神にかえるが、永く当山(傳通院)を守護して、恩に報いよう」

と告げて、暁の雲に隠れたとのことです。


慈眼院・沢蔵司稲荷



傳通院三門

そこで、傳通院の住職は、沢蔵司稲荷を境内に祭り、慈眼院を別当としました。

江戸時代から参詣する人が多く繁栄したとのことです。

慈眼院のすぐ前の善光寺坂に椋の老樹があり、沢蔵司がやどっているといわれています。

このため、道路拡張の時、道をふたまたにして避けて通るようにしました。

このため、道路の真ん中に椋の木が立っています。



傳通院本堂


慈眼院から200mほど進んだ右手が「傳通院」です。

傳通院は、応永22年(1415年)、浄土宗第七祖了誉が開山したお寺です。

当時は小石川極楽水(現在の小石川4丁目15番)の小さな草庵で、無量山寿経寺という名で開創されました。


傳通院鐘楼



橋本徳壽歌碑

それから約200年後の慶長7年(1602年)に、徳川家康公の生母於大の方が75歳で、伏見城で逝去し、その法名を「傳通院殿」と号し、寿経寺を菩提寺としたことから、「傳通院」と呼ばれるようになりました。

以来、千姫(2代将軍秀忠の長女)や孝子の方(3代将軍徳川家光の正室)、於奈津の方(家康側室)、初姫など多くの徳川家の子女たちが埋葬されるようになりました。



於大の方の墓


また、傳通院には開創以来600年に及ぶ長い歴史の側面を物語る著名な方々のお墓もあります。

主な人としては、澤 宣嘉(幕末7卿落ちの一人)、清河八郎(幕末勤王の志士)、佐藤春夫(詩人・作家)、柴田連三郎(作家)、橋本明治(日本画家)などがあげられます。


燈籠にも菊の御紋が



千姫の墓


孝子の墓



安藤坂



萩の舎跡

傳通院を出て南の方向に進み、「傳通院前」の交差点を過ぎると「安藤坂」になります。

「安藤坂」は、傳通院前から神田川に下る坂です。

江戸時代から幅広い坂道で、急坂でしたが、明治42年(1909年)に路面電車を通すにあたり緩やかにされました。

坂の西側に安藤飛騨守の上屋敷があったことに因んで、戦前は「安藤殿坂」と呼ばれていましたが、戦後になって「安藤坂」と呼ばれるようになりました。


古くは坂下辺りは入江で、漁をする人が坂上に網を干したことから、また江戸時代に御鷹掛の組屋敷があって鳥網を干したことから「網干坂」とも呼ばれました。

安藤坂の途中に「萩の舎跡」の案内板が立っています。

「萩の舎」は、中島歌子の開いた歌塾です。上・中流層の婦人を教え、門弟1000余人といわれました。


萩の舎跡



安藤坂と教育センター前交差点

歌集に「萩のしづく」等がありますが、明治36年(1903年)歌子の死去とともに、萩の舎は廃絶しました。

樋口一葉は、父の知人の紹介で14歳の時に「萩の舎」に入門し、明治23年(1892年)に内弟子となり、萩の舎に寄宿したこともあったとのことです。

一葉はここで歌作と歌を作るため必要な古典の読解に励んだとのことです。

さらに、半井桃水に師事して、処女作「闇桜」を発表して、小説家の道に進みました。



牛天神北野神社


安藤坂を下った「教育センター前」の信号を左折して100mほど進んだ突き当たりが「牛天神北野神社」です。

鎌倉時代、源頼朝が当地にあった岩に腰掛け休息したとき、夢に牛に乗った菅原道真が現れ「二つの喜びがある」と告げられました。翌年その喜びがあり、頼朝がこの岩を祀り牛天神を創立しました。

以来、境内にある牛の形をした岩(ねがい牛)を撫でると願いが叶うといわれています。


牛天神北野神社



牛天神北野神社



ねがい牛

また、牛天神の境内にある太田神社・高木神社は、芸能の神・天鈿女命(あめのうずめのみこと)と道の神・猿田彦命(さるたひこのみこと)の御夫婦と宇迦御魂命(うかのみたまのみこと)をお祀りしています。

芸能上達、開運招福のご利益があるとされ、関東では牛天神の御末社に祀られています。

人々の信仰厚く、関東大震災のころまでは、祭りの日ともなると、未明から深夜まで参拝の人で賑わい、芸能の神として、歌舞伎、新劇人など芸能人の信者を集め、名のある役者がたびたび参拝に訪れたそうです。



印刷博物館


「牛天神北野神社」から「教育エンター前」に戻り、安藤坂の幅広い道に沿って200mほど進んだ「白鳥橋」の交差点を右折して、道なりに200mほど進んだ右手に高く聳えているのが「凸版印刷小石川ビル」です。

この建物の1階と地下1階に「印刷博物館」があります。


印刷博物館



トッパン小石川ビル

2000年に凸版印刷が100周年記念行事の一環として設立した博物館で、印刷文化に関わる資料の蒐集や研究活動、活版印刷などの印刷を実体験する実践・啓蒙活動を行っています。

総合展示と企画展示があり、総合展示では、印刷の誕生から現代までを大きく 5つのブロックに分けて、印刷の歴史を紹介し ています。

総合展示だけでも見応えがあります。



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 風来坊


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