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文学浪漫の香りあふれる街を散歩する その2 (H25.1.13&1.21)


徳川慶喜公屋敷跡



徳川慶喜公屋敷跡

印刷博物館をから右方向に100mほど進んだ丁字路を左折し、最初の信号を右折し、次の「小日向」の信号を右折して50mほど進んだ左手が「国際仏教学大学院大学」で、その入口に「徳川慶喜公屋敷跡」の案内板があります。

「国際仏教学大学院大学」を過ぎたところを左折すると「今井坂」です。


「今井坂」の上の西側一帯(現在国際仏教学大学院大学ある場所)は、徳川最後の将軍・慶喜が明治34年(1901年)以後住んだところです。

慶喜は、自分の生まれた小石川水戸屋敷に近いこの地を愛しました。

慶喜はここで、専ら趣味の生活を送り、大正12年(1913年)に没しました。

現在、その面影を残すのは、入口に茂る大公孫樹のみとのことです。


今井坂



春日通り



播磨坂の桜並木



播磨坂の桜並木

「今井坂」を上り道なりに300mほど進むと春日通りです。

左折して春日通りに沿って500mほど進んだ「小石川5丁目」の信号を右折すると、道路の中央に桜並木があります。「播磨坂の桜並木」です。

桜並木のある通りは、戦災復興事業における付近一帯の土地区画整理によって、都市計画道路環状3号線の一部として造られました。


江戸時代、この辺りは松平播磨守の上屋敷でした。また、千川(小石川)が流れる低地一帯には「播磨田圃」が広がっていたことから、新しくできたこの坂を播磨坂と呼ぶようになりました。

立派な桜並木(現在127本)は、昭和35年に「全区を花でうずめる運動」で植えられた若木が育ったものです。

平成7年(1995年)、全体が「水と緑と彫刻のある散歩道」として整備され、年間を通じて楽しめる名所となっています。


播磨坂の桜並木



高橋泥舟 山岡鉄舟 旧住居跡」案内板

「小石川5丁目」の交差点から播磨坂に入って50mほど進んだ左手が「高橋泥舟 山岡鉄舟 旧住居跡」です。2軒が並んでいました。

高橋家は享保5年(1720年)、山岡家は文化8年(1811年)以降、この地に移り住んだと思われています。

泥舟は槍術の大家山岡静山の弟で、母方の実家である高橋家の跡を継ぎ、25歳のとき幕府講武所師範となりました。

鉄舟は剣術を北辰一刀流の千葉道場に通い、槍を静山に習いました。鉄舟は旗本小野家の出身ですが、静山の妹と結婚し、山岡家を継ぎました。


泥舟、鉄舟の2人は、文久2年(1862年12月)、清河八郎の呼びかけで、近藤勇らが参加し結成された浪士隊の取締役を幕府から命ぜられ、上洛しますが、清河八郎の攘夷尊王の謀略が発覚し、江戸に戻りました。

慶応4年(1868年)鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗れ、官軍が江戸に迫ると、泥舟は前年に大政奉還した元15代将軍徳川慶喜に恭順を説き、身辺警護に当たりました。

鉄舟は勝海舟の使者として、駿府の官軍参謀の西郷隆盛に会い、江戸城無血開城への道を開きました。

海舟、泥舟、鉄舟は維新の三舟と呼ばれています。


高橋泥舟 山岡鉄舟 旧住居跡」には高層ビルが



小石川植物園



小石川植物園



小石川植物園

播磨坂を下り、「植物園前」の交差点を横切って100mほど進んだところが「小石川植物園」です。

「小石川植物園」は、植物学の教育・研究活動を目的とする東京大学の教育実習施設で、正式名称は東京大学大学院理学系研究科附属植物園です。


この植物園は日本でもっとも古い植物園であるだけでなく、世界でも有数の歴史を持つ植物園の一つです。

貞享元年(1684年)に、徳川綱吉の白山御殿の跡地に徳川幕府が作った「小石川御薬園」がこの植物園の前身で、園内には長い歴史を物語る数多くの由緒ある植物や遺構が現在も残されています。


その中には8代将軍徳川吉宗の時代に設けられた「養生所」の井戸もあります。

明治10年に東京大学が設立されると共に、直ちに附属植物園となり一般にも公開されました。


養生所の井戸



精子発見のソテツ

面積は、約16万平方メートル(約5万坪)で、台地、傾斜地、低地、泉水地などの地形の変化に富み、それを利用して様々な植物が配置されています。

この植物園は日本の近代植物学発祥の地でもあり、現在も自然誌を中心とした植物学の教育・研究の場となっており、特に東アジアの植物研究の世界的センターとして機能しています。


植物園本館に納められた植物標本は約70万点、植物学関連図書は約2万冊で、内外からの多くの植物研究者に活用されています。


また、栃木県日光市には、1902年に設立された「日光分園」があり、東京では栽培の難しい山地植物に関する教育・研究が行われております。

この植物園も一般に公開されており、「日光植物園」の名前で親しまれています。

日光分園の公開期間は4月15日から11月30日で、冬期は一般公開をしていません。


ツュンベリーの松(クロマツ)



御殿坂



御殿坂

小石川植物園を出て左に進むと、左手に小石川植物園に沿って「御殿坂(大坂・富士見坂」があります。


「御殿坂は戸崎町より白山の方へ上る坂なり、この上に白山御殿在りし故にこの名残れり。むかしは大坂といいしや」(改撰江戸誌)


「享保の頃、此坂の向ふに富士峰能く見えし故に、富士見坂ともいえり」(江戸誌)


白山御殿は、5代将軍徳川綱吉が将軍就任以前の館林侯時代の屋敷で、白山神社の跡であったので、白山御殿といわれ、また地名をとり小石川御殿といわれました。

綱吉の将軍就任後、御殿跡は幕府の薬園となりました。

享保7年(1722年)園内に「赤ひげ」で有名な小石川養生所が設けられました。


東洋大学白山第2キャンパス



白山下交差点



左側を進みます

御殿坂を上り少し進むと右手に東洋大学白山キャンパスがあります。

さらに200mほど進んだ「白山下」の交差点で白山通りを横切り、旧白山通りに沿って300mほど進むと歩道がY字路に分かれており、その真ん中に地下鉄白山駅の入口があります。

「白山駅」の入口を右手に見て20m程進んだ交差点を左折して100mほど進むと白山神社です。



白山神社


白山神社の創建は古く、天暦年間(947年〜957年)に加賀一宮白山神社を現在の本郷1丁目に勧請しました。

元和年間(1615年〜1624年)に2代将軍秀忠の命で巣鴨原(現在の小石川植物園内)に移りましたが、その場所に5代将軍となる徳川綱吉の屋敷が作られることになったため、明暦元年(1655年)の現在地に遷座しました。


白山神社



白山神社

こうした縁で、綱吉とその母桂昌院の崇敬を受け、以後、徳川将軍家から信仰されました。

毎年6月には、文京五大まつりの一つ文京あじさいまつりが開催され、境内や隣接する白山公園には、約3000株の紫陽花が花を咲かせます。

白山神社から地下鉄白山駅入口の方向に戻り、丁字路を左折して旧白山通りに沿って100mほど進むと「白山上」の交差点です。


「白山上」の交差点を斜め右方向に進み、150mほど進んだ「向丘2丁目」の交差点を左折すると「本郷通り」となります。

「本郷通り」に沿って700mほど進むと地下鉄の「東大前」で左手は東大農学部です。

さらに300mほど進むと「本郷弥生」の交差点です。

「本郷弥生」の交差点を50m程過ぎた路地を右手に入り、2つ目の路地を左折して100mほど進んだ右手が「求道会館」です。


求道会館はここを右折します



求道会館

「求道会館」は、浄土真宗大谷派の僧侶であった近角常観が、大正4年(1915年)に、広く公衆に向けて信仰を説く場として建築した建物です。

建物の規模は地上2階、建築面積307平方メートル、レンガ造りで、屋根は石綿板葺きです。

求道会館の建物は、ヨーロッパの教会堂の空間構成を基本的に踏襲しながら、要所に伝統的な日本の社寺建築のモチーフを用いた独特な様式を伝えるとともに、当時の最新式の構造を有する建築物です。


昭和16年(1941年)に常観が没したあとは弟の常音がその活動を受け継い継ぎましたが、常音が昭和28年(1953年)に亡くなったあと会館は長く閉鎖されることになりました。

平成6年に東京都の有形文化財に指定され、平成8年から6年間修復工事が行なわれ、平成14年6月にオープンしました。


求道会館



東京大学のイチョウ並木



東京大学構内

「求道会館」から100mほど進んだ交差点を左折して100mほど進むと「東大正門前」の交差点です。

東京大学本郷キャンパスの構内は、少人数の場合は申請なしで見学することができます。

東大正門から入ってイチョウ並木を進んだ正面にあるのが「安田講堂」です。

安田財閥の創始者・安田善次郎の匿名を条件の寄付により建設され、大正10年(1921年)に起工し、関東大震災による工事中断を経て、大正14年(1925年)に竣工しました。



東京大学安田講堂


関東大震災後に建てられた学内の建築が茶色のスクラッチスタイルで統一されているのに対し、安田講堂が赤レンガなのは、起工が震災前だったためです。

昭和43年(1968年)の東大紛争では、全学共闘会議によって占拠され、最終的には機動隊によって強制排除されました。

その後長期にわたり安田講堂は荒廃状態のまま閉鎖されていましたが、昭和63年から平成6年にかけて改修工事が行われ再度使用されています。


東京大学安田講堂



東京大学赤門

「赤門」は東京大学本郷キャンパスの通用門の一つで、東大を象徴する門として親しまれています。

「赤門」は、旧加賀藩主前田家上屋敷の御守殿門で、1827年に第12代藩主前田斉泰が第11代将軍徳川家斉の第21女。溶姫を迎える際に造られました。

建築様式としては薬医門で、切妻造りとなっています。

左右に唐破風造りの番所を置いています。
国の重要文化財に指定されています。


赤門から本郷通りに戻り、南方向に300ほど進んだ左手に「日本一たい焼き」の店があり、美味しいたい焼きをいただきました。

さらに南方向に100mほど進んだ「本郷3丁目」の交差点を左折し、春日通りに沿って500mほど進んだ右手が「湯島天満宮(湯島天神)」です。

「本郷3丁目」の交差点は、今回のコースのスタート直後に通過した交差点です。


日本一たい焼き



初詣と合格祈願で大賑わいの湯島天満宮



初詣と合格祈願で大賑わいの湯島天満宮



初詣と合格祈願で大賑わいの湯島天満宮

「湯島天満宮」は、古来より江戸・東京における代表的な天満宮であり、学問の神様として知られる菅原道真公を祀っているため受験シーズンには多数の受験生が合格祈願に訪れますが、普段からも学問成就や修学旅行の学生らで非常な賑わいを見せています。

また、また境内の梅の花も有名で、この地の梅を歌った「湯島の白梅」(1942年)は戦中時の歌として大ヒットしました。


社伝によれば、雄略天皇2年(458年)1月、雄略天皇の勅命により天之手力雄命(あめのたぢからをのみこと)を祀る神社として創建されたと伝えられています。

南北朝時代の正平10年(1355年)、住民の請願により菅原道真を勧請して合祀しました。この時をもって正式な創建とする説もありますが、当の湯島天満宮では458年創建としています。

平成12年(2000年)、湯島天神から湯島天満宮に改称しています。


初詣と合格祈願で大賑わいの湯島天満宮



合格祈願

湯島天満宮から南方向に300mほど進んだ「三組坂上」の交差点を右折して100mほど進んだ右手が「霊運寺」です。

「霊運寺」は真言宗霊運寺派の総本山です。

5代将軍徳川綱吉は、深く帰依した浄厳覚彦を開山として徳川家のため、天下泰平、武運長久の祈願時として、元禄4年(1691年)創建しました。



霊運寺


江戸幕府から朱印状を受けるなど幕府の保護を受け、関東における真言律宗の中心的な寺院でした。関東大震災、第二次世界大戦の戦災で堂宇を焼失し、現在の堂宇は昭和51年(1976年)に再建されたものです。

昭和22年(1947年)に真言宗霊雲寺派を公称して真言律宗から独立しました。


霊運寺



日本サッカーミュージアム

霊運寺から100mほど進んだ「湯島2丁目」交差点を左折して200mほど進んだ右手に「日本サッカーミュージアム」があります。

「日本サッカーミュージアム」は、日本サッカー協会が2002年FIFAワールドカップ日韓大会の開催を記念して2003年12月に開設した、日本サッカー協会ビルに設けられたサッカーの展示施設です。

地上1階と地下1階は無料で見学できます。


「日本サッカーミュージアム」から200mほど進んだ「サッカーミュージアム入口」の交差点を左折し、「本郷通り」に沿って300mほど進んだ右手が「湯島聖堂」です。


本郷通り



湯島聖堂



湯島聖堂



湯島聖堂

徳川5代将軍綱吉は儒学の振興を図るため、元禄3年(1690年)湯島の地に聖堂を創建して上野忍岡の林家私邸にあった廟殿と林家の家塾をここに移しました。これが湯島聖堂の始まりです。

その後、約100年を経た寛政9年(1797年)幕府直轄学校として、世に名高い「昌平坂学問所(昌平校)」を開設した。

明治維新を迎えると聖堂・学問所は新政府の所管となり、当初、学問所は大学校・大学と改称して存置しましたが、明治4年(1871年)これを廃して文部省が置かれ、林羅山以来240年、学問所となってからは75年の儒学の講筵は、ここで歴史を閉じました。

その後、明治4年(1871年)わが国最初の博物館(現在の東京国立博物館)が置かれ、明治5年(1872年)には東京師範学校及びわが国最初の図書館である書籍館が置かれ、明治7年(1874年)には東京女子師範学校が設置され、両校は現在の筑波大学、お茶の水大学へと発展しました。

このように、湯島聖堂は明治維新の一大改革に当たっても学問所としての伝統を受け継ぎ、近代教育発祥の地としての栄誉を担いました。


孔子像



聖橋からの湯島聖堂



聖橋から

大正11年(1922年)湯島聖堂は国の史跡に指定されましたが、翌年の関東大震災により入徳門と水屋を残しすべて焼失しました。

その復興は昭和10年(1935年)に行われ、寛政時代の旧制を模し、鉄筋コンクリート造りで再建されました。その建物が現在の湯島聖堂です。

また、湯島聖堂構内には、世界最大の孔子像が置かれています。

これは昭和50年(1975年)に中華民国台北ライオンズクラブから寄贈されたものです。


湯島聖堂から聖橋を渡り、御茶ノ水駅の傍を通過し、お茶の水橋を渡って、東京都水道歴史館(ゴール)まで戻って、今回のコース終了です。



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         風来坊


御茶ノ水駅前の新しいビル


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