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第52回東京龍馬会史跡探訪 その1 (H25.6.2)
『千葉佐那・千葉灸治院跡を訪ねて』


会長代行挨拶



史跡探訪の受付

東京龍馬会の第52回史跡探訪に参加しました。

今回のテーマは、『〜千葉佐那・千葉灸治院を訪ねて〜 南千住から北千住へ』です。


今回の史跡探訪のコースは次のとおりです。

JR常磐線南千住駅→小塚原回向院(吉田松陰・橋本左内 墓)→延命寺(小塚原刑場跡 首切り地蔵)→円通寺(上野黒門移築 彰義隊墓)→荒川スポーツセンター(織物工場跡 井上省三記念碑)→千住天王素戔雄神社→千住大橋芭蕉句碑(奥の細道出発点)→やっちゃ場跡→千葉灸治院跡(千葉佐那鍼灸治療院跡)→大橋眼科医院(大正時代建物)→横山家住宅(江戸時代後記建物)、絵馬屋・吉田家住宅→清亮寺→JR常磐線北千住駅・解散


小塚原回向院



小塚原回向原

受付開始時刻の12時30分過ぎにJR常磐線南千住駅に到着し、受付で会費を支払うと名札と今回の史跡探訪の資料が渡されました。

史跡探訪の資料は、東京龍馬会の幹事の方によって作成されたものですが、市販の資料よりもずっと詳しいもので、このレポートでも配布された資料から一部抜粋させていただいております。

東京龍馬会佐藤会長代行の挨拶の後、史跡探訪が開始になりました。



小塚原回向院墓所 史蹟エリア


南千住駅から数分のところに、小塚原回向院と延命寺があります。

この付近は、江戸時代は小塚原といわれ、品川の鈴ヶ森とともに処刑場のあったところです。

明暦3年(1657年)正月の「明暦の大火」の焼死者十万八千人余名を本所に埋葬し、回向院を立てて菩提を弔うとともに、牢死刑死者もここに埋めていましたが、人家が増えて手狭になったため、小塚原刑場の一角に寛文7年(1667年)に新たに回向院を建立しました。

回向院は当初は両国回向院の別院でしたが、現在は独立して正称は豊国山回向院です。小塚原回向院ともいわれています。


史蹟エリア 墓所配置図



橋本左内墓所

小塚原の刑場は、寛文7年(1667年)以前に浅草聖天町(現在の台東区)辺りから移転してきたといわれています。

間口60間(約108m)、奥行き30間余り(約54m)、約1800坪の敷地でした。

日光道中に面していましたが周囲は草むらだったといわれ、浅草山谷町と千住宿の間の町並みが途切れている場所に位置していました。


小塚原の刑場では、火罪・磔・獄門などの刑罰が執り行われるだけでなく、刑死者や行き倒れ人等の無縁の死者の埋葬も行われました。

また、時には刑死者の遺体を用いて行われた刀の試し切りや腑分け(解剖)も実施されました。

また、徳川家の馬の埋葬地としても利用されていました。

回向院下屋敷(現回向院)はこれらの供養を担っていました。


吉田松陰墓所



鼠小僧の墓所


高橋お伝の墓所



観臓祈念碑

回向院には、安政の大獄で獄死した吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎などの墓所があります。また毒婦と云われた高橋お伝も葬られている。

明治前期には、江戸時代以降の刑場としての機能は漸次廃止、停止され、回向院は顕彰、記念の地となっていきました。

橋本左内や吉田松陰といった幕府の志士の墓は顕彰の対象となりました。


また「観臓祈念碑」は、杉田玄白や前野良沢らが、ここで腑分けを見学したことをきっかけとして「ターヘルアナトミア」の翻訳に着手し「解体新書」を出版したことを顕彰するために建てられたものです。

回向院境内にはこうした多くの文化財が残っており、刑場の歴史を今に伝えています。


観臓祈念碑



小塚原の首切地蔵



小塚原の首切地蔵

延命寺は、明治28年(1859年)に鉄道敷設により、小塚原回向院が分断された後、昭和57年(1982年)に延命寺として独立しました。

延命寺境内にはいると、高さ約4mの「延命寺地蔵尊(別名・首切地蔵尊)が鎮座しています。

「首切地蔵」は、江戸の刑死者をはじめとする無縁の供養のために小塚原の仕置場に、寛保元年(1741年)に造立された石造りの延命地蔵菩薩です。


この地蔵尊は、鈴ヶ森と並び称された江戸の二大刑場の一つ「小塚原の仕置場」の象徴であり、柔和なお顔で時の流れを静かに見守り、江戸の歴史を今日に伝えてきました。

もとは、隅田川貨物線の南側に安置されていましたが、明治28年(1895年)鉄道敷設工事のため、現在地に移設されました。

地元の南千住の人からは「延命地蔵尊」と呼ばれ、暮らしの安穏を見守る地蔵尊として親しまれています。


延命寺



円通寺



円通寺

小塚原回向院から北の方向に200mほど進んだ信号を左折し、300mほど進むと「南千住警察署入口」の交差点です。

交差点を左折して100mほど進んだ右手が円通寺です。

円通寺は、延歴10年(791年)、坂上田村麻呂によって開創されました。


石造七重の塔の銘に

「七層虚をあお凌ぎ、貞石兪々新たなり、永く惠日懸りて、枯木も常に春なり」

とあり、別の面に円通寺の由緒が刻まれています。

現存する荒川区最古の石文です。

江戸時代「下谷の三寺」として下谷・廣徳寺、入谷・鬼子母神と共に、箕輪の圓通寺として有名でした。


円通寺



彰義隊の墓



彰義隊の墓

円通寺には、彰義隊の墓があります。

慶応4年(1868年)5月15日、上野戦争で戦死した彰義隊の遺体は、賊軍であることから戦場に散乱放置されたままでしたが、当時の住職が決死の覚悟で上野に出向いて供養したことにより、円通寺に埋葬供養の官許が下り、遺骸266体を上野山内で荼毘に付し円通寺に埋葬しました。


彰義隊戦死者は、豪商・三河屋幸三郎の助力を得て、現在の西郷隆盛銅像の後方で火葬され、その場所に記念碑が建立されています。墓ではありません。


上野恩賜公園の彰義隊の碑



旧上野の黒門



旧上野の黒門



上野戦争の銃痕

上野戦争で彰義隊と官軍の激戦が展開されましたが、その中心地に建っていたのが黒門です。

彰義隊士の遺体を埋葬供養した縁で、明治40年(1907年)に皇室博物館から円通寺に移築されたものです。

上野戦争の激しさを伝える数多くの弾痕が残っています。



上野戦争の銃痕


上野戦争の銃痕


彰義隊士の墓の隣に死節の墓があります。

彰義隊の供養に尽力した三河屋幸三郎が向島の別荘に秘そかに立てて、鳥羽、伏見、函館、会津などの各藩士の戦死者の氏名を彫って供養をしていたものを、円通寺に移築したものです。


上野戦争の銃痕



死節之墓

やはり賊軍のため、おおっぴらな供養が当時はできなかったためと思われます。

しかしながら、官許のある円通寺に移築することにより、彰義隊と合わせて供養が出来ることになったものです。

土方歳三、近藤勇など97名の名前と「神木隊二十八名」と彫ってあります。


円通寺から「南千住警察署入口」の交差点に戻り、左折して300mほど進み、荒川総合スポーツセンターに沿って右折して100mほど進んだ右側に井上省三の銅像と記念碑が建立されています。

この付近は、明治政府直営の毛織物生産工場である千住製絨所の跡地です。


荒川区立スポーツセンター



井上省三記念碑

千住製絨所は、明治9年(1876年)の内務卿大久保利通の設立決議により、明治12年(1879年)に開業しました。

明治22年(1989年)に陸軍省に移管され、戦前を通じて軍服、軍用毛布を生産しました。

敗戦により一切の操業を停止し、土地建物併せて民間企業に売却され、その後大毎オリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)の東京スタジアムになるなどの変遷を経て、現在は荒川総合スポーツセンター、草野球場、並びに警視庁南千住警察署の立地となっています。


井上省三は長州の出身で、奇兵隊隊長として倒幕に参加。維新後、木戸孝允に随い上京。

明治4年2月からのベルリン留学で兵学から工業への転向を決意し、明治5年から8年まで毛織技術を修得して帰国。

明治12年の千住製絨所の開業、日本羊毛工業の発展に尽力しましたが、明治19年に42歳の若さで病死しました。

千住製絨所の初代所長である井上省三の碑は、明治21年に製絨所の職員・職工の有志が、省三の偉業を偲び建立したものです。


井上省三の銅像



南千住図書館

井上省三の碑の場所から北方向に進み、南千住野球場に沿って右折し、道なりに400mほど進んだ左手が南千住図書館です。


南千住図書館の敷地内に「橋本左内の墓外套堂(さやどう)」があります。

「橋本左内の墓外套堂」は回向院境内入口にありましたが、平成18年回向院の境内整備の際、荒川区に寄贈されることになり、平成21年現在地に復元、保存されているものです。


橋本左内の墓外套堂



熱心に説明する幹事


参加者にお菓子を配る幹事



素戔雄神社



素戔雄神社

南千住図書館の隣が千住天王素戔雄神社(すさのおじんじゃ)です。

「素戔雄神社」は、素盞雄大神(すさのおおおかみ)と飛鳥大神(あすかおおかみ)を祭神とする神社で、延歴14年(795年)の創建と伝えられています。

創建以来、二柱を別々の社殿に奉斎していましたが、享保3年(1718年)焼失し、享保12年(1727年)に瑞光殿を建築して合祀しました。


「素戔雄神社」は、南千住、三ノ輪、三河島、町屋など61町にも及ぶ区域の総鎮守です。

例祭「天王祭」は、都内でも珍しい二天棒の神輿で神輿振りをすることで知られています。

境内に「瑞光石」があります。

御祭神の素盞雄大神と飛鳥大神が光を放ち降臨した小塚の中の奇岩を「瑞光石」といいます。


瑞光石



瑞光石

文政12年(1829年)編纂の「江戸近郊道しるべ」には、千住大橋架橋の際、この瑞光石の根が大川(現隅田川)まで延びていたために橋脚が打ち込めなかったという伝承が紹介されています。

また、この小塚から「小塚原」の地名が起こり、「江戸名所図会」には「飛鳥社小塚原天王宮」と紹介され、弁天様を祀る御手洗池、茶屋など当時の情景を窺うことができるようです。

さらに、周辺小学校の名称に冠された「瑞光」もこの瑞光石に因むものとのことです。


境内に松尾芭蕉の碑があります。

文政3年(1820年)10月12日の芭蕉忌に際し、俳聖「芭蕉」を偲び、江戸随一の儒学者で書家としても高名な亀田鵬斎が銘文を、文人画壇の重鎮である谷文晁の弟子で大川(現:隅田川)の対岸関屋在住の建部巣兆が座像を手がけるなど、千住宿に集う文人達により建てられたものです。


松尾芭蕉の碑



素戔雄神社のあじさい 隅田の花火



素戔雄神社の隅田の花火


素戔雄神社のヤマアジサイ



素戔雄神社のヤマアジサイ:クレナイ


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         風来坊


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