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千住大橋
熱心に説明を聞く参加者 千住大橋テラス
素戔雄神社を出て左折し、日光街道に沿って300mほど進んだところが千住大橋で、千住大橋を渡った左手に大橋公園があります。 千住大橋は、隅田川に最初に架けられた橋で、徳川家康が関東入国後間もない文禄3年(1594年)に、普請奉行伊奈備前守忠次によって架けられた橋です。 文禄3年の架設の際に、伊達政宗が資材を調達し、水漏れに最も強いという高野槇が使われたと伝えられています。
その後、流出や老朽により、何度か架け替え、修復を繰り返してきましたが、大正12年(1923年)の関東大震災にも焼け落ちることはありませんでした。 しかし、震災復興計画に基づいて、近代化が図られ、昭和2年(1927年)に現在のようなアーチ式の鋼橋となりました。 町の人々は、永年親しんできた旧木造橋に感謝をこめて、その橋杭を火鉢にしたり、千住の彫刻家が仏像などに加工して大切に伝えています。
3個のブイ
下に伸びているのは橋杭?
その昔に架けられていた橋の一部と思われる木杭が今もなお、水中に眠っています。 千住大橋の下の水面に3個のブイが浮かんでいますが、それは木橋時代の橋杭が水中で3本眠っていることを示しています。 千住大橋の下に掛けられている千住小橋から、ブイの傍に浮かんできた橋杭を瞬間的に見ることができました。
大橋公園のおくのほそ道行程図
元禄2年(1689年)3月27日に、深川を舟で発った松尾芭蕉は、千住で上陸し、多数の門人に送られて、関東より奥州・北陸を経て大垣に至る長途の旅に出発しました。 行程600里余、日数およそ150日という大旅行でした。 この紀行が元禄7年(1694年)4月「おくのほそ道」として完成し、以後わが国を代表する古典文学作品となって内外に親しまれています。
おくのほそ道矢立初の碑
おくのほおそ道 旅たちの地
弥生も末の七日、あけぼのの空朦々として、月は有明にて光をさまれるものから、富士の峰幽かに見えて上野・谷中のはなの梢、またいつかはと心細し。むつまじき限りは宵よりつどひて、舟に乗りて送る。千住といふ所にて船を上がれば、前途三千里の思い胸にふさがりて、幻の巷に別離の涙をそそぐ。 行く春や 鳥なき魚の 目は泪 これを矢立ちの初めとして、行く道なお進まず、人々は途中に立ち並びて、後影のんみゆるまではと、見送るなるべし。
千住大橋の袂にある大橋公園には、「おくのほそ道矢立初の碑」が建っており、松尾芭蕉が、奥の細道への出発に当たり、最初に詠んだ句が刻まれています。 行く春や 鳥なき魚の 目は泪 また、大橋公園には「おくのほそ道行程図」が掲げられています。 この行程図は、平成元年(1989年)に、芭蕉が旅立ってから300年を記念して建てられたものです。
北千住を案内して下さった山守さん
千住小橋
大橋公園の奥に階段を登ると隅田川の堤防の内側の千住大橋テラスに出ることができます。
千住大橋テラスにはこのレポートの2枚目、3枚目のような広場があり、広場の壁面に関連の記事や絵が描かれています。
千住小橋から南千住の展望
また、千住大橋の橋下をくぐる橋が架けられています。 全長31m、幅2.6mの歩行者専用の「千住小橋」で、平成16年(2004年)に造られました。 以前は千住大橋により堤防テラスが東西で分断されていましたが、この「千住小橋」により通過が可能になりました。
東京スカイツリーも
千住宿奥の細道プチテラス
「千住小橋」を通り千住大橋の東側(下流側)に出て、階段を登って堤防テラスから外に出て、千住大橋(日光街道)に沿って200m程進んだ右手が足立市場です。 足立市場は都内で唯一の水産物専門の中央卸売市場です。 国道4号線(日光街道)に面しており、交通アクセスの良い場所にあります。 敷地面積は、約4万2千平方メートルと中央市場としてはやや小規模です。
国道4号線から別れて足立市場に沿って斜め右方向に進む道路が旧日光街道です。 旧日光街道を30mほど進んだところに「千住宿奥の細道プチテラス」があります。 千住から奥の細道へ旅だった松尾芭蕉の像、日光道中千住宿の道標などがあります。 松尾芭蕉の生誕360年を記念して平成16年(2004年)に作られた真新しいものです。 芭蕉の足下にある敷石はやっちゃ場のせり場に敷かれていた御影石です。
やっちゃ場跡の案内板
「千住宿奥の細道プチテラス」から50mほど進むと上方を京成本線が走っており、その左手前に「此処は元やっちゃ場南詰」の案内板があります。 この付近の日光街道は当時と同じ道幅5間で、その両側の千住河原町はやっちゃ場(青物市場)の跡です。
昭和5年千住市場問屋配置図
「やっちゃ場」は、多くの問屋の声が「やっちゃい やっちゃい」と聞こえてくる場所(市場)からきたといわれています。 古くは戦国の頃より旧陸羽街道(日光道中)の両側に青空市場から始まり、江戸・明治と続き、大正・昭和が盛んだったと伝えられています。
やっちゃ場追憶 大正・昭和初期
セリのための野菜を並べた石畳
街道の両側に30数軒の青物問屋が軒を並べ、毎朝威勢の良いセリ声が響き渡り、江戸・東京市内に青物を供給する一大市場でした。 昭和16年末に第2次世界大戦の勃発により閉鎖となり、以来青物市場は東京都青果市場へと変わっていき、やっちゃ場という言葉のみが残りました。 千住河原町を散策すると、建物は戦争で焼失しましたが、やっちゃ場当時の店の名前を表示する立て札があちこちに建っており、当時の面影を今に伝えています。
やった場跡の案内板
やっちゃ場跡の中央部に蔵造りの「千住歴史プチテラス」があります。 この蔵は、千住4丁目の元地漉紙屋を営んでいた横山家より、平成4年に足立区に寄与された、天保元年(1830年)の土蔵です。 土蔵と歴史の生きる町づくりのために千住の旧道沿いに移築し、蔵の内部をギャラリーに、周囲には趣のある前庭・内庭を造成しています。
千住歴史プチテラス
千葉佐那・千葉灸治院跡
「千住仲町」の交差点を左折し、墨提通りに沿って200mほど進んだ「千住宮元町」の交差点を右折したところが、「千葉佐那・千葉灸治院跡」です。 千葉佐那は北辰一刀流剣術開祖地名周作の弟・千葉定吉の次女です。 小太刀に優れ、14歳で早くも北辰一刀流小太刀の免許皆伝になっています。 坂本龍馬よりも3歳年下です。
16歳の頃、北辰一刀流桶町千葉道場に学びに来ていた坂本龍馬と知り合います。 文久3年(1863年)、坂本龍馬は千葉佐那のことを姉の乙女に紹介しています。 その頃2人は婚約したらしいが、結婚に至らず、坂本龍馬の死を知った後も、龍馬のことを思い続け、一生独身で過ごしたと伝えられています。
昭和18年に移転した場所 現在は駐車場
旧日光街道 千住本町商店街
千葉佐那は明治維新後、学習院女子部の舎監を勤めたと伝えられています。 また、家伝の鍼灸を始め、兄重太郎が京都府に出仕した時には、佐那も一緒に京都に赴き、灸治を行って評判になったようです。 明治18年、重太郎が死去すると東京に戻り、明治19年(1886年)に千住中組(現千住仲町)に千葉灸治院を開業し、生業としました。 千葉灸治院は、区画整理、強制疎開のため昭和18年に仲町29番地(現3−7)に移転し、昭和50年代まで引き継がれ、その後平成12年までご子息が住んでいました。
千住宿問屋場・貫目改所跡
「千葉佐那・千葉灸治院跡」から旧日光街道に戻り、北方向に300mほど進んだ左手が「千住宿問屋場・貫目改所跡」です。 旧日光街道の西側にあたるこの場所には、江戸時代に千住宿の問屋場と貫目改所が置かれていました。 宿場は、幕府の許可を得た旅行者に対して、人足と馬を提供することを義務づけられていました。千住宿は、50人、50疋です。
地面に描かれた千住宿の地図
現在地が千住宿問屋場・貫目改所跡
この問屋場で、人馬の手配をしました。街道の向かい側には、馬寄場がありました。 問屋場は元禄8年(1695年)に設けられました。また、寛保3年(1743年)に貫目改所が設けられ、荷物の重量検査のための秤が備えられました。 馬に積める荷物には制限があり40貫目(150kg)を積むと本馬、20貫目あるいは人が乗って5貫目の手荷物を積んだものを軽足と呼び、次の草加宿までの運賃が定められていました。 貫目改所は、ここを出ると宇都宮宿までありませんので、重い荷物を制限内に認めてもらえるよう、賄賂が飛び交ったとの話しもあります。
江戸幕府は、江戸から全国各地への交通網を整備しました。なかでも五街道が重要で、道中奉行が直接管理しました。江戸日本橋を出て最初の職場である、東海道品川宿、甲州道中内藤新宿、中山道板橋宿、日光・奥州道中千住宿は、江戸四宿と呼ばれています。 地方と江戸の、文化や産品の結節点であると同時に、江戸人の遊興の地でもありました。 旅に出る人を見送るのも四宿までです。千住宿は、日本橋から2里8丁(約8.7km)ですから、江戸時代の人にとっては、気楽に出かけられる距離だったことでしょう。
問屋場・貫目改所配置図
千住本町商店街
この場所は、問屋場・貫目改所跡として知られていましたが、平成12年(2000年)の発掘調査により、現在より1mほど低い江戸時代の遺構面から、等間隔で並ぶ杭穴と礎石が見つかりました。分析の結果、この遺構は2棟の建物からなり、それぞれ問屋場跡と貫目改所跡であると推定されました。 また、南東の小石を厚く敷いた部分は、荷捌き跡と考えられます。
宿場町通り
問屋場・貫目改所跡から旧日光街道を北方向に500mほど進むと「宿場町通り」となります。「宿場町通り」を400mほど進んだところに、横山家住宅と千住絵馬屋・吉田家があります。 横山家住宅は、宿場町の名残として、伝馬屋敷の面影を今に伝える商家です。 伝馬屋敷は、街道に面して間口が広く、奥行も深い。戸口は、一段下げて造るのが特徴で、これはお客様をお迎えする心がけの現れとのことです。
千住宿
横山家住宅
横山家は、屋号を「松屋」といい、江戸時代から続く商家で、戦前まで幅広く地漉紙問屋を営んでいました。 現在の母家は、江戸時代後期の建造ですが、昭和11年に改修が行われています。 間口が9間、奥行が15間あり、大きくてどっしりとした桟瓦葺きの2階建てです。 広い土間、商家の書院造りといわれる帳場2階の大きな格子窓などに、一種独特の風格が感じられます。 上野の戦いで、敗退する彰義隊が切りつけた玄関の柱の傷痕や、戦時中に焼夷弾が貫いた屋根など、風雪に耐えてきた百数十年の歴史を語る住居です。
吉田家は、江戸中期より代々絵馬をはじめ地口行灯や凧などを描いてきた際物問屋です。 手書きで描く絵馬屋は都内では殆ど見かけなくなっており、希少な存在です。 当代の絵馬師は8代目で、先代からの独特の絵柄とその手法を踏襲し、江戸時代からの伝統を守り続けています。 縁取りした経木に、胡粉と美しい色どりの泥絵具で描く小絵馬が千住絵馬とのことです。
吉田家
清亮寺境内
清亮寺本堂
「宿場町通り」を抜けた最初の交差点を右折し、JRのガードを潜って100mほど進んだ左手が「清亮寺」です。 元和5年(1619年)見延山久遠寺末として、運寮院日表上人により、水戸街道入口のこの地に創建されました。 本堂は天保4年(1833年)に再建の総欅造りで、随所に江戸期の建築様式を残している優れた建造です。
墓域に、明治初年日本医学発展のために解剖された囚人11名を供養した解剖人塚があります。 また、かつて水戸街道に面して古松が茂り、水戸光圀ゆかりの「槍掛けの松」として有名でしたが、昭和20年頃に枯れてしまいました。 「清亮寺」から「宿場町通り」を経由して北千住駅に戻って、史跡探訪終了です。
解剖人墓
槍掛けの松
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