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伊東散策 その1 (H25.1.25)


伊東オレンジビーチ



伊東駅前

JR東日本の「駅からハイキング」のイベント「伊東の文化・歴史と足湯を楽しむハイキング」に参加しました。

サブタイトルは「伊東にゆかりのある文化人の句碑や温泉街の風情ある松川遊歩道を巡る」です。


細部説明は「コース途中には足湯施設(無料)がありますので、ハイキングの疲れを癒して下さい。」となっています。


コースの概要は次のとおりです。

JR伊東駅→伊東駅前観光案内所(受付)→伊東オレンジビーチ→なぎさ公園佛現寺伊東市役所伊東祐親像伊東祐親の墓東林寺音無神社松川遊歩道東海館伊東駅前観光案内所(ゴール)伊東駅


伊東市観光案内所



伊東オレンジビーチ

歩行距離約7.5km、歩行時間約2時間(施設での見学時間を除く)、所要時間約3時間(施設での見学時間を含む) です。

東海館見学などで時間を撮りすぎたのでしょうか? 所要時間4時間30分、約14000歩でした。



伊東オレンジビーチ


観光案内所で受付を済ませ、駅前の道を左手方向に300mほど進むと海岸線に出ます。

海岸沿いを走っているのが国道135号線で、国道に沿って拡がっているのが「伊東オレンジビーチ」です。

真冬でしかも10m近い強風が吹いていましたので、砂浜に人影はありませんでしたが、夏には多くの海水浴客で賑わいます。


伊東オレンジビーチ



初島 強風で海は荒れています

しかも、温泉街から徒歩数分のところにありますので、水着のまま海水浴に出かけ、濡れたまま帰ってきて温泉に浸ることができるので、人気のようです。

もちろん海水浴の時期には、数多くの海の家が建ち並びます。


オレンジビーチの中程に、伊東市出身の文学者・木下杢太郎の「海の入日」の詩を刻んだ文学碑が建っています。

この詩は、木下杢太郎が23歳の時、新詩社の「明星」に発表したものです。


木下杢太郎の文学碑



なぎさ公園



なぎさ橋

「伊東オレンジビーチ」を500mほど進むと「なぎさ公園」です。

松川河口にある公園で、房総半島、三浦半島、真鶴岬、初島などを一望でき、市民や観光客の憩いの場となっています。

昭和52年(1977年)に伊東市市制30周年を記念して、地元彫刻家・重岡建治の「家族」と題した彫刻をメインに、重岡建治の彫刻が数点展示され、伊東市民の平和と幸せを希求する姿をシンボル化した公園として整備されたものです。



按針メモリアルパーク


なぎさ公園からなぎさ橋を渡ったところが、「按針メモリアルパーク」で、「日本初洋式帆船建造の地」の碑が立っています。

イギリス人のウィリアム・アダムスは、リーフデ号の航海士として乗り込んでいましたが、慶長5年(1600年)に九州豊後に漂着しました。

徳川家康に信頼され、航海術、砲術、天文学、数学などを教え、これらの功績により、三浦郡逸見村(横須賀市)に250石の領地を与えられ、名前を三浦按針としました。


サン・ブエナ・ベントゥーラ号



ウィリアム・アダムス

1604年頃、西洋式帆船の造船を命じられたアダムスは、伊東にドックを設けて日本で初めての洋式帆船を建造します。

モニュメントになっている船は2隻目に建造された船でサン・ブエナ・ベントゥーラ号と命名され、房総沖で難破したドン・ロドリコに貸与されアカプルコまで行ったそうです。


この歴史的偉業を将来に伝えるため、洋式帆船建造400年を記念し、公園整備と記念碑が建てられたとのことです。



川口公園


渚橋の下を潜って橋の上流側に進んだところが川口公園で、ここに「ウィリアム・アダムスの記念碑」があります。

三浦按針の功績を市民に伝えようと建てられた記念碑です。

また、記念碑の下の河川敷には、当時のアダムスと日本人を描いた大きなタイル絵も造られています。


ウィリアム・アダムス記念碑



タイル絵

「ウィリアム・アダムスの記念碑」の傍の河岸に、「江戸城築城石」があります。

徳川家康が、江戸に入り壮大な城を築く際に、基礎となる石垣用の石の大部分は伊豆各地のから切り出されました。

特に伊東はその中心的な場所に当たり、家康から命ぜられた各大名は石切場を設けて盛んに石を切り出して、江戸へ運びました。



江戸城築城石


数万人が採石に関わり、石船数十艘が伊東と江戸を往復したといわれています。

その石切場の跡は、宇佐美のナコウ山の周辺に残り、石を運んだ途中の道には各大名が自分の仕事である証明に刻印を刻んだ石も数多く見られるとのことです。

松川の河口付近に、その築城石が残されています。

ここに集まられている築城石には、大名の所有を示す封印があります。


江戸城築城石



オリーブオイルの石臼



オリーブオイルの石臼

松川に沿って200mほど上流に進むと左手に「オリーブオイルの石臼」があります。

このモニュメントは、伊東市の友好都市であるイタリア・リエティ市より贈られたものです。

オリーブオイルはリエティ市の特産品であり、石臼の部分は実際に使用されていたものです。


「オリーブオイル石臼」の傍に「伊東観光番」があります。

この建物は昭和33年(1958年)松原交番として建造されたもので、現存する静岡県最古の交番でした。

2006年に県から市に譲渡され、7月から市の観光案内事業拠点施設として、業務が行われています。


伊東観光番



和田寿老人の湯

「伊東観光番」の前の信号を渡って、Y字路の右側の道路を進みます。

商店街(あんじん通)に沿って300mほど進むと、左手に「和田寿老人の湯」があります。

伊東温泉には共同浴場が10個所あり、「和田寿老人の湯」もその一つで、どの浴場も市民の憩いの場となっています。

なまこ壁の鉄筋3階建ての立派な建物ですが、従来の和田湯会館が道路の向かい側に新築されたもので、その1階が共同浴場となっています。


「和田寿老人の湯」の手前を左折し、100mほど進んだ最初の信号を右折し、100mほど進むと前方に玖須美消防会館があり、メインの道路は左にカーブします。

玖須美消防会館の右側に緩やかな上り坂の道路があり、この道を300mほど上ったY字路を左折します。

30mほど進むと右手に長い石段が続いており、この石段を上ったところが「佛現寺」です。


玖須美消防会館 右側を進みます



Y字路を左方向へ


この階段を登ります



佛現寺からの展望



佛現寺



佛現寺

「佛現寺」は、日蓮聖人四大法難の一つ伊豆法難ゆかりの霊跡本山です。

日蓮は弘長元年(1261年)「立正安国論」を執筆しましたが、時の執権、北条氏の怒りに触れ、ただちに捕らえられ、伊豆へ流されました。

日蓮に病を治してもらった伊東の地頭・東伊東八郎左衛門は、恩人である日蓮を邸の鬼門除けとして建てた毘沙門堂に住まわせました。


日蓮は毘沙門堂に3年の間、暮らされたとのことです。

この毘沙門堂跡に建てられたのが佛現寺で、海が光り、仏さまが現れた、という故事に由来し日蓮自身が海光山佛現寺と命名しました。

「天狗の詫び状(天狗の侘証文)」と言われる判読不能の巻物でも有名です。

現在の毘沙門堂は日蓮の伊豆法難700年記念に建立したものです。


佛現寺



伊東市役所



伊東市役所



穂積忠歌碑

佛現寺の門を出て右折したところにある高層ビルが「伊東市役所(チェックポイント」です。

伊東市役所は、凄く綺麗な庁舎です。

ガラス張りの前衛的な建物は8階建てで、最上階には展望ルームがあり、市内が一望できるとのことでしたが、チェック不足で展望ルームにあがることができませんでした。

伊東市役所の裏手の一段下がったところに、「穂積忠歌碑」「幸田露伴句碑」があります。


伊東市役所の隣にある小さな公園が「物見塚公園」で、藤原氏の流れを汲む伊東領主伊東祐親の館跡です。

ここに馬上の伊東佑親の銅像、かつて館だった頃に櫓を組んで敵情の見張りをしたと伝える物見の松、尾上柴舟の歌碑などがあります。

伊東祐親は、平安時代の末期、伊豆一円を統合し、伊東氏繁栄の基礎を築いた人物です。

源頼朝と恋に落ちたという八重姫の父で、曽我兄弟の祖父にあたります。


幸田露伴句碑



伊東佑親の銅像



歩道橋の右が物見塚公園

伊東荘を領する工藤祐隆の嫡男であった父・祐家が早世すると、祖父・祐隆は後妻の連れ子である祐継を嫡子として本領の伊東荘を与え、嫡孫の祐親を次男として河津荘を与えました。

総領の地位を奪われたことに不満を持つ祐親は、祐継の死後にその子・祐経から伊東荘を奪いました。


これを恨んだ祐経は安元2年(1176年)10月、祐親の嫡男・河津祐泰を狩りの場で射殺し、これがのちに祐親の孫たちが起こす曾我兄弟の仇討ちの原因となります。


伊東祐親は、東国における親平家方豪族として平清盛からの信頼を受け、平治元年(1159年)の平治の乱に敗れて伊豆に配流されてきた源頼朝の監視を任されます。

しかし祐親が大番役で上洛している間に、娘の八重姫が頼朝と通じ、子・千鶴丸を儲けるまでの仲になってしまいます。

祐親はこれを知って激怒し、安元元年(1176年)9月、平家の怒りを恐れて千鶴丸を松川に沈めて殺害し、さらに頼朝自身の殺害を図りました。

頼朝の乳母・比企尼の三女を妻としていた次男の祐清が頼朝に知らせ、頼朝は夜間馬に乗って熱海の伊豆山神社に逃げ込み、北条時政の館に匿われて事なきを得たとのことです。


伊東祐親の墓



伊東祐親の歌碑

治承4年(1180年)8月、頼朝が打倒平氏の兵を挙げると、大庭景親らと協力して石橋山の戦いにてこれを撃破します。

しかし頼朝が勢力を盛り返して坂東を制圧すると、逆に追われる身となり、富士川の戦いの後捕らえられ、娘婿の三浦義澄に預けられます。

義澄による助命嘆願が功を奏し、頼朝の妻政子が懐妊すると助命されますが、祐親はこれを潔しとせず「以前の行いを恥じる」と、三浦家で自害します。

祐親の次男の祐清はその後も平家方として戦い、篠原の戦いで討ち死にしました。


伊東市役所から南方向に300mほど進んだ最初の信号を右折して300mほど進んだ右手に「伊東祐親の墓」があります。

五輪塔の墓です。


伊東祐親墓所からの展望 左の森の中が東林寺



東林寺



東林寺



東林寺

「伊東祐親の墓」から道なりに100mほど進むと、道はUターンし、急な下り坂となります。

坂を下りきった左手が「東林寺」です。

東林寺は、伊東祐親が、我が子河津三郎祐泰の菩提を弔うために創建した曹洞宗の寺院です。

もとは、久安年間(1145〜1150年)頃に、真言宗の久遠寺として開かれ、祐親の法号に因んで東林寺と改名され、1538年(天文7年)に曹洞宗へ改宗されました。

伊東祐親の死後、東林寺は伊東家の菩提寺となりました。


伊東祐親の子河津三郎祐泰は、安元2年(1176年)、工藤祐経との領地問題のもつれから殺害されました。

祐泰の子は、母の再婚先の曽我家で成長し、建久4年(1193年)に源頼朝が催した富士の巻狩りの際に、父・祐泰の仇である祐経を討ち果たしました。

これが有名な「曽我兄弟の仇討ち」です。

東林寺には、河津三郎祐泰と子の曽我十郎祐成・五郎時致兄弟の墓があります。


河津三郎祐泰と曾我兄弟の墓所への参道



日本相撲協会の相撲碑

河津三郎祐泰は、相撲の決まり手「かわづがけ」の名を残したことで知られています。

安元2年(1176年)、源頼朝も参加して催された巻狩りでは、その余興で相撲が行われました。

名手といわれ21連勝していた俣野景久の最後の相手が河津祐泰。祐泰は連勝中の景久を「河津掛」で破っています。

この巻狩りの帰路、祐泰は工藤祐経によって殺害されました。

河津祐泰と曽我兄弟の墓への参道入口には、昭和34年に日本相撲協会による相撲碑が建てられています。



葛見神社


「東林寺」から元の道に戻り、少し進んだ右手が伊東市の守護神「葛見神社」です。

葛見神社は、伊東氏の尊崇と保護を受けた神社で、主祭神は葛見神です。

かつてこの辺りは「葛見の庄」と称され、伊東氏の初代家次が社殿を造営し、京都の伏見稲荷大社を勧請して以来、神威を高めてきました。

伊東氏の菩提寺である東林寺が別当寺を勤めていましたが、明治の神仏分離によって東林寺の住僧が還俗して朝日氏を名乗り、以来朝日家が神職を世襲しているとのことです。


葛見神社



葛見神社の大楠


関連のホームページ

 伊東市観光協会


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     風来坊

葛見神社に樹齢約千年、目通し幹回り約20mの大楠があります。

幹の株は一大空洞ですが、幹勢は旺盛で全国でも有数のクスノキの大樹です。

国の天然記念物に指定されています。



葛見神社の大楠


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