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曽我の里散策 (H27.2.28)


小田原牧場アイス工房そばの別所梅林



小田原牧場アイス工房そばの別所梅林

曽我の里の「観梅と史蹟めぐり」の散策コースとして、「丘陵コース 約8km」「里コース 約6km」の2つが用意されています。

いずれのコースも3つの梅林と主な史蹟を巡回するコースとなっています。

今回は、別所梅林で梅を楽しんだ後、里コースをコース案内の逆コースで散策しました。

コースの概要は次のとおりです。

別所梅林法蓮寺満江御膳の墓別所薬師堂曽我別所公民館二宮尊徳遺髪塚大運寺跡曽我宅伝曽我氏館跡雄山荘跡城前寺宗我神社天津神社岸地蔵尊瑞雲寺中河原ふれあい広場下曽我駅


法蓮寺



法蓮寺の枝垂れ梅



法蓮寺の枝垂れ梅

別所梅林のそばに「小田原牧場アイス工房」があります。「小田原牧場アイス工房」から南に100mほど進んだ信号のある交差点が、Bコースへの入口です。

交差点を左折して100mほど山の方向に進むと「法蓮寺」です。

法蓮寺は慶長19年(1614年)の創建で、大乗院日相大徳を開山和尚とする日蓮宗の寺院です。元々は周辺の寺の多くと同じく天台宗だったとのことです。

境内の毘沙門堂には安永3年(1774年)に小八幡(酒匂川河口近く)の海岸で漁網に引っかかって出現したと伝えられる毘沙門天像が安置されています。


満江御膳の墓石から70mほど北方向に進んだところに、別所薬師堂(やけ薬師)があります。別所薬師堂には行基の作と伝わる薬師如来が祀られています。

里人の伝承によれば、この薬師如来像は、山彦山(曽我山の旧名)薬師沢の奥の佛体ヶ窪の堂に奈良時代から平安時代にかけて安置されていましたが、戦国時代に戦火により、その背中が焦げてしまったことから、別名「焼け薬師」と呼ばれていました。

その後、この場所に法輪寺末寺の応福寺を建てて納めましたが、明治初期に廃寺となり、薬師堂のみが残ったとのことです。


満江御膳の墓



別所薬師堂(やけ薬師)

満江御膳の墓石から70mほど北方向に進んだところに、別所薬師堂(やけ薬師)があります。別所薬師堂には行基の作と伝わる薬師如来が祀られています。

里人の伝承によれば、この薬師如来像は、山彦山(曽我山の旧名)薬師沢の奥の佛体ヶ窪の堂に奈良時代から平安時代にかけて安置されていましたが、戦国時代に戦火により、その背中が焦げてしまったことから、別名「焼け薬師」と呼ばれていました。

その後、この場所に法輪寺末寺の応福寺を建てて納めましたが、明治初期に廃寺となり、薬師堂のみが残ったとのことです。



別所薬師堂(やけ薬師)付近の梅林


別所薬師堂の日田約200mのところに曽我別所公民館があります。
皇国地誌残稿(明治中期に政府が編纂した地誌)には、別所の字防田に溜池と大屋敷があったと記されています。その大屋敷が、満江御膳が居住していた曽我氏の下屋敷であったと伝えられています。

曾我兄弟は、源頼朝の巻狩に随行して随行している仇敵工藤祐経を討つために、いよいよ富士の裾野に向かおうとする時、今生の別れに母の満江御膳から小袖を乞い受けました。曽我物語の「小袖乞い」の一節は、謡曲や幸若舞においても「小袖曽我」として代々語り、舞継がれ、人々の涙をそそってきました。

下屋敷の前にかつては大池があり、そこに祀られていた水神碑が現存しています。
また、屋敷内の東南に隣接する武藤・安池両家の祖先は、伊豆から満江御膳に随行してきた家臣であったと伝えられています。


曽我別所公民館



二宮尊徳遺髪塚



二宮尊徳像

曽我別所公民館の北西200mほどに「二宮尊徳遺髪塚」があります。

二宮金次郎の母よしの実家は、旧別所曽我村の川久保太兵衛でした。当時、川久保家は父太兵衛の才覚で繁栄していましたが、兄太兵衛の代になると、分を超えた生活と病災に見舞われて家運も傾き始めました。


天保11年(1840年)、尊徳は川久保家の再興を図ることとなり、市太郎、民次郎、常次郎の3人の子息に無利息の報徳金を貸与し、復興の指導を行いました。その結果、最も優れた成果を上げた民次郎が川久保家を継ぐことになりました。この民次郎は下野国の桜町(栃木県二宮町)仕法時代から、永らく尊徳に従者として仕えており、尊徳の死去にあたり、その遺髪を得て曽我へ帰りました。

この遺髪塚は民次郎の遺言によるもので、孫の興三郎が昭和13年(1938年)にその遺志を継いで建てたものです。


大山道沿いの梅



大山道沿いの梅



大運寺跡

「二宮尊徳遺髪塚」の前の道路が「大山道」です。

大山は神奈川県の最高峰の一つで、雨降山とも呼ばれていました。江戸時代にはその中腹の不動寺の鉄不動が広く尊崇され、明治以降は阿夫利神社が信仰されています。

相模平野の農村では雨乞いなどの農業の守護が祈られ、漁村では船の上からも遙拝される山なので海上安全の目的で信仰されました。

江戸から講を作って参拝団が来るのは、春秋のリクレーションの目的を兼ねていました。

その大山への参詣道が「大山みち」で、相模平野の各地から多くのルートがありました。曽我の大山みちは、千代〜曽我原〜殿沢川〜曽我別所〜六本松峠〜田中のルートです。



曽我宅の見事な藤牡丹枝垂れ梅



曽我宅の見事な藤牡丹枝垂れ梅


「二宮尊徳遺髪塚」から大山道を200mほど下がった交差点を大角度に右折し、案内板に従って200mほど進むと「大運寺跡」で、さらに200mほど進むと「曽我宅」です。

「曽我宅」には、見事な藤牡丹枝垂れ梅が見頃を迎えていました。


曽我宅の見事な藤牡丹枝垂れ梅



曽我氏館跡

「曽我宅」から案内板にしたがって細い路地を500mほど進むと「曽我氏館跡伝承地(曽我祐信屋敷跡」です。

「新編相模国風土記稿」に、越前寺の後方の丘一帯が曽我太郎祐信の屋敷跡と考えられ、一辺が200m〜300mの四角形で、その中に一辺100mほどの館があったことが記されています。


曽我氏は、太郎祐信(曾我兄弟の義父)以来、連綿として14代甚五郎信正まで繁栄しましたが、永禄2年(1559年)に北条氏に叛いたため、北条氏康に攻められ、6月15日、城に火を放ち城主の信正とともに360人余が自決したと伝えられています。

その後、400年の月日が経ちましたが、誰一人としてその霊を供養する者はありませんでした。

平成5年6月、曾我兄弟の仇討800年記念を機に、曽我御堂供養の会有志により観世音菩薩を祀り、曽我氏一族の供養のための御堂が建立されました。


曽我一族郎党の供養御堂



雄山荘跡

「曽我氏館跡伝承地」から南に200mほど進んだところが「雄山荘跡」です。

昭和22年(1947年)2月に、太宰治が数日間滞在し、太田静子の日記を基に書いた小説「斜陽」のモデルとなった家で、「斜陽の家」として知られていました。

現在は荒れ地となっています。



城前寺


「雄山荘跡」から西に100mほど進むと「城前寺」です。

城前寺は、建久4年(1193年)富士裾野で親の仇工藤祐経を討った曽我兄弟の菩提寺です。曽我兄弟の叔父宇佐美禅師が兄弟の菩提を弔うために庵を結んだのがはじまりとされています。

曽我城の大手門がこの辺りだったことから、城前寺となりました。

城前寺の境内に、曽我兄弟、父河津祐康、母満江御膳の供養塔があります。また兄弟ゆかりの品々も伝わっています。

曾我兄弟が、実父祐康と名字が異なるのは、母満江が夫祐康の死後、曽我佑信と再婚したので、兄弟は曽我氏を名乗っていたためです。


城前寺



法輪寺



法輪寺

「城前寺」の北200mほどに「法輪寺」があります。

「法輪寺」は、臨済宗建長寺派の寺院で、南北朝時代の延文3年(1358年)鎌倉建長寺35世本覚禅師が開山しています。

本尊は地蔵菩薩でしたが、天保2年(1831年)に焼け、釈迦如来(室町時代の作)になりました。

曽我裕信の霊碑が祀られています。



宗我神社


「法輪寺」の西方100mほどに「宗我神社」があります。

宗我神社は、長元元年(1028年)宗我播磨守保慶の建立で、宗我氏の祖先を祀った神社といわれています。曽我郷六ヶ村(上曽我、曽我大沢、曽我谷津、曽我岸、曽我原、曽我別所)のそれぞれの鎮守を明治時代に合祀し、曽我の里の総鎮守となっています。

また、小田原北条氏時代から小田原城鬼門守護の社とされていました。


宗我神社



散策路の農家に咲く枝垂れ梅

宗我神社祭礼は五穀豊穣を願う祭礼で、午前中は各地区の山車5台と神輿1基がそれぞれの地区を回り、午前11時頃になると猿田彦を先頭にお宮入りがあります。

お宮入り後、1台の山車に高砂の人形が飾られ、お囃子と舞を奉納した後、下曽我駅に向かいます。下曽我駅には午後3時頃に到着します。

宗我神社の大鳥居のそばに、昭和12年(1937年)に第5回芥川賞を受賞した尾崎行雄の文学碑がありますが、見逃しました。尾崎一雄は宗我神社の神主の息子です。



天津神社


宗我神社の裏手から案内板にしたがって400mほど進むと「天津神社」です。

天津神社は通称十二天さんといわれ、十二天尊神を祭神としています。旧相州曽我岸村の平和と氏子ノ繁昌守護を祈念して造立されました。

社内に十二天を描いた元禄12年(1699年)銘の厨子が安置されています。


天津神社



岸の石地蔵尊

天津神社から坂道を下ったところに「岸の石地蔵尊」があります。

「岸の石地蔵尊」は、旧曽我村の地蔵堂の本尊です。

地蔵菩薩・閻魔王像は曽我岸公民館に安置されています。



瑞雲寺



瑞雲寺の枝垂れ梅


「岸の石地蔵尊」から北西方向に500mほど進むと「瑞雲寺」です。

梅林と小田原市天然記念物のコモックの群生で知られている寺です。

瑞雲寺の境内の大部分が梅林になっている感じですが、特に枝垂れ梅が有名なようです。

境内の一角に曽我兄弟が父の仇を討つために願文を納め「十人力」を授けられたという力不動尊が安置されています。


瑞雲寺の枝垂れ梅



瑞雲寺の梅林



瑞雲寺の梅林



自修学校発祥の地の碑

また、境内に「自修学校発祥の地」の碑があります。

明治時代, 小学校の制度は全国的に普及したものの、それ以上上級の進学は困難だったのを、瑞雲寺21代住職・大井龍跳和尚は、寺の本堂でこの地域の青年を教導し、やがて明治43年(1910年)、ここで校舎の建設に着工しました。自修学校です。

その後移転して、湘北中学校・湘北高等学校向上高等学校へと発展しています。



瑞雲寺



蘇我駅前


瑞雲寺から南方向に100mほど進むと「中河原ふれあい広場」があります。

この付近が富士山と梅林を撮影するスポットですが、午後2時過ぎでしたから、富士山はすっかり霞んでしました。

「中河原ふれあい広場」の周囲一帯が「中河原梅林」です。

「中河原梅林」の梅を眺めながら、案内板にしたがって500mほど進むと下曽我駅です。

関連のホームページ

 曽我の里散策コース

          風来坊


蘇我駅


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