楫取は文政12年(1829年)に、長州・萩の藩医である松島家の次男として生まれ、12歳で藩校明倫館の儒者・小田村吉平の養子となりました。通称は伊之助で、長州の藩校明倫館で教えるとともに、吉田松陰の信頼を受け松下村塾の後事を託され「松門の柱石・小田村伊之助」と讃えられました。
尊王攘夷運動などへの幕府からの追及を逃れるため、藩命により慶応3年(1867年)に「楫取」と改名しました。「楫(かじ)を取る」としたのは、祖先が水軍であったことに因みます。また、一説には「お前は国の楫を取る人間になれ」との長州藩主・毛利敬親の意思も含まれていたと言われています。こうして楫取は、幕末維新の国事に藩主・毛利敬親の懐刀として東奔西走しました。
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