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長崎散策 その1  (H27.5.8〜5.10)


平和祈念像



長崎駅前を走行する路面電車

高校時代のクラス会に参加し、長崎及び五島列島を旅行してきました。

初日はJR長崎駅に14時集合ということでしたから、久し振りの長崎ですので、朝早い便で行って、集合時刻前に長崎を散策することにしました。

羽田発08:15のANA661便で、10:05長崎空港着、リムジンバスで11時15分に長崎駅に到着しました。

長崎駅から路面電車に乗車して、「松山町」停留所で下車すると目の前が原爆公園と平和公園です。


原爆投下中心地の北側の小高い丘の上にある「平和公園」は、悲惨な戦争を二度と繰り返さないという誓いと、世界平和への願いを込めてつくられた公園です。

階段を登ると、被爆直後、水を求めて亡くなった犠牲者に捧げる「平和の泉」があります。

世界恒久平和と核兵器廃絶の願いを込めて浄財を募り建設された円形の泉で、直径18メートルで昭和44年(1969年)年に完成しました。


平和公園への階段



平和の泉



平和公園



原爆殉職者の碑

平和の鳩と鶴の羽根を象徴した噴水が舞い、正面には被爆し、水を求めてさまよった少女の手記

「のどが乾いてたまりませんでした 水にはあぶらのようなものが一面に浮いていました どうしても水が欲しくて とうとうあぶらの浮いたまま飲みました」

が刻まれています。


平和公園


平和公園


平和公園の一番奥には「平和祈念像」があります。

長崎市民の平和への願いを象徴する高さ9.7m、重さ30トン、青銅製の平和祈念像です。

制作者の長崎出身の彫刻家北村西望氏は、この像を神の愛と仏の慈悲を象徴とし、天を指した右手は“原爆の脅威”を、水平に伸ばした左手は“平和”を、軽く閉じた瞼は“原爆犠牲者の冥福を祈る”という想いを込めたとのことです。

毎年8月9日の原爆の日を「ながさき平和の日」と定め、この像の前で平和祈念式典がとり行なわれ、全世界に向けた平和宣言が読み上げられます。


平和公園



落下中心地標柱



浦上天主堂の遺壁



原爆公園 前方中央が落下中心地

昭和20年(1945年)8月9日11時2分。アメリカのB29爆撃機から投下された原子爆弾は松山町171番地の上空約500mで炸裂しました。

現在、その地には落下中心地標柱として昭和43年(1968年)に建立された黒御影石の碑が立てられています。


原爆公園の園内には、被爆当時の地層も残されています。

原爆の爆風により、爆心地周辺のほとんどの樹木は倒れ焼き尽されたことから70年は草木も生えないだろうという「70年不毛説」が流れましたが、1ヶ月後には約30種類の植物が芽吹きました。

この爆心地周辺も今ではすっかり緑に囲まれていますが、被災しこの公園に移築された、浦上天主堂の遺壁の一部などが、当時の惨状を伝えています。


被爆当時の地層の展示



長崎原爆資料館



長崎原爆資料館

原爆公園に隣接して「長崎原爆資料館」があります。

緑豊かな静かな環境の中に建てられた近代的な建物の資料館です。

地上2階、地下2階の館内は、原爆投下直後の長崎の街の惨状や、浦上天主堂の姿を再現しているほか、原爆の悲惨な被害を示す数々の写真や遺物を展示しています。


原爆投下時刻で止まった時計や炭化してしまった弁当箱、頭蓋骨が付いた鉄かぶとなどが当時の惨状を生々しく伝えています。

原爆投下後の惨状を撮影した資料映像も流れ、黒焦げの遺体や焼け野原になった風景、ただ呆然と立ち尽くす人々の様子などを目の当たりにすると、核兵器の恐ろしさを実感せざるを得ません。


長崎市平和会館



国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館



国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館

「長崎原爆資料館」に隣接して、国による追悼施設である「国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館」があります。

「国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館」は死没者の追悼と平和を祈念する施設です。

地下の「追悼空間」には死没者名簿が奉安してあり、メッセージをパソコンで書き残すコーナーもあります。


夜間、地上部水盤には昭和20年(1945年)末までの死没者数を示す7万個の灯りが点ります。


国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館



浦上天主堂



浦上天主堂



ヨハネ・パウロ2世

爆心地から北東へ約500mの小高い丘の上に「浦上天主堂」があります。

キリシタン弾圧に耐え、信仰の自由を得た浦上の信者たちが、明治28年(1895年)から30年の歳月をかけて、大正14年(1925年)に完成させた教会です。

その美しさから「東洋一」ともいわれていましたが、爆心地のすぐそばだったため、原爆によって全壊しました。


現在の建物は、昭和34年(1959年)に再建されたものに、昭和55年(1980年)に内外装を加え、往時の赤レンが造りの天主堂に復元しました。

大聖堂の中には、美しい24枚のステンドグラスが配され、赤や青、黄色の美しい色が堂内を照らしています。

正面入り口の手前の脇には、原爆で焼け落ちた像が残されています。


原爆で焼け落ちた像



原爆で破壊された鐘楼

浦上天主堂の左奥の崖下に、浦上天主堂旧鐘楼が残されています。

1945年8月9日の原爆により天主堂は破壊され、北側の鐘楼は現在の位置まで崩れ落ちました。

その後、1959年に浦上天主堂は再建されましたが、この鐘楼は原爆により破壊された旧浦上天主堂の被害を、当時と同じ場所で物語る唯一の遺構となっています。



永井隆記念館



如己堂


浦上天主堂の北西400mほどのところに、永井隆記念館と如己堂があります。

戦後の日本の歌謡曲で大ヒットした「長崎の鐘」。現在でも長崎では観光バスガイドが歌ったり、観光スポットで静かに流されたりしています。

この「長崎の鐘」は、長崎での被爆体験を基に書いた永井博士のベストセラー「長崎の鐘」をモチーフに作られたもので、昭和25年には映画化もされました。

この名著を残し、日本全国に平和を訴え続けた永井博士。医学博士であるとともに敬虔なカトリック信徒だった氏は、長年取り組んでいた放射線研究・診療で被爆前にすでに白血病を患い、余命3年の宣告を受けていました。


如己堂



永井隆記念館

原爆で妻を亡くし、自らも被爆して重傷を負いますが、被災者の救護や原子病の研究と発表を続けました。

寝たきりになってからは如己堂と名付けた2畳ひと間の部屋に子供たちと住み、そこで多数の著書を執筆。昭和26年(1951年)に亡くなるまで平和を訴え続けました。

平成12年(2000年)に全面改装した、如己堂に隣接する永井隆記念館には、博士の遺品、書画のほか関係写真などが展示されています。



中町教会堂


JR長崎駅の近くに「中町教会堂」があります。

キリシタン大名・大村純忠ゆかりの大村藩蔵屋敷跡に建てられたカトリック教会です。

原爆投下により大部分が焼失しましたが、昭和26年(1951年)に再建しました。

白を基調とした美しい教会は、荘厳で清浄な祈りの空間となっています。


中町教会堂



中町教会堂



中町教会堂



 
長崎散策その2(中華街&グラバー園)へ


 長崎散策その3(亀山社中&出島)へ




        風来坊


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