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長崎散策 その2  (H27.5.8〜5.10)


長崎新地中華街



長崎新地中華街



ワシントンホテル

14時に、JR長崎駅でクラスメイトと落ち合い、路面電車で築町停留所まで移動し、ワシントンホテルにチェックインしたのち、長崎市内散策に出かけました。

今回のテーマは「近世諸外国との交易の窓口となった長崎市に、龍馬をはじめ幕末の土佐の偉人たちの遺跡を訪ね、長崎県沖の五島(福江島など)の歴史を刻む教会群をめぐる旅」です。

ということで、最初にワシントンホテルのすぐ傍の「長崎新地中華街」を訪ねました。


横浜、神戸と並ぶ中華街・新地は、江戸時代中期に中国からの貿易品の倉庫を建てるために、海を埋め立ててできた街です。

東西、南北あわせて約250mの十字路は、長崎市の姉妹都市である福建省の協力でできた石畳です。現在、中華料理店や中国菓子、中国雑貨など約40店舗が軒を並べています。

横浜や神戸と比べたら、中華街の規模は小さいものの、長い歴史の中で培われた濃厚な中国文化を感じることができます。


長崎新地中華街



長崎新地中華街

中国との貿易が盛んに行われた江戸時代(元禄)、出島に住むオランダ人と同様に中国人についても居留地が設けられました。

唐人屋敷(唐館)は、総面積約9360坪、役人詰め所や、大門、二の門、住宅、市場、関帝廟、土神堂、観音堂などがあり、高い練塀をめぐらせ、出入りは出島と同様厳しい制約がありましたが、中国人たちの出入りは比較的自由でした。


市内に在住する中国人は1万人ともいわれ、当時の長崎市の人口が6万人でしたから、たいへんな数の中国人でした。



湊公園



オランダ通り


中国船からの積荷は、五島町や大黒町の海岸の荷蔵に納めていましたが、1698年の大火で荷蔵が喪失したので、二度とこのようなことが起きないようにと、唐人屋敷前面の海面3500坪を埋め立てて隔離された荷物倉所を造り、この場所は新しく築地によってできた場所という意味で、「新地」とか「新地蔵所」と呼ばれました。中華街の中央に「新地蔵跡」の石碑が建てられています。

明治維新後、唐人屋敷とともに新地蔵所も廃止されたため、在留中国人は港に近い新地蔵所跡地に移り住み、長崎独特の中国人街を作ってきました。


オランダ通り



オランダ通り

中華街の四方にそびえる色鮮やかな中華門は、新地中華街商店街振興組合の人たちが横浜・神戸と並ぶ中華街に発展するよう願いを込めて、本場中国福州市から資材を取り寄せ、職人を招いて築造したものです。東、北、南門は高さ、幅とも9メートル。西門は高さ9メートル幅4メートル、屋根瓦は中国製で、昭和61年4月に完成しました。

各門は正確に東西南北を示す方角に位置しています。これは、古代中国の地相占い風水に基づくものです。銅座川に面する北の玄武門は水を呼び込むとされ、湊公園へと開かれた南の朱雀門は火を呼び込むとされています。そして鬼門の北東には、華僑の菩堤寺である崇福寺があり、邪気を封じています。

門の裏側には東門では青龍、西門は白虎、北門は玄武(亀と蛇)、南門は朱雀と門を守る神が彫られています。



オランダ通り


中華街を出たところが「湊公園」です。

毎年春節祭に合わせて行われる、ランタンフェスティバルのメインイベント会場となる湊公園は、東側に中国産の御影石で高さ50センチの石畳舞台のほか、中国蘇州地方に残る伝統的建築様式の石造り表門(中国名牌楼)と裏門(同牌坊)さらにあずま屋(休憩所)が設けられています。


長崎孔子廟



長崎孔子廟・儀門



長崎孔子廟・儀門



長崎孔子廟・大成殿



長崎孔子廟・72賢人石像

「湊公園」から「オランダ通り」を進み、途中で左折して「長崎孔子廟・中国歴代博物館」を訪ねました。

元来、孔子廟とは、孔子の遺品を納め祀ったのが始まりです。

「長崎孔子廟」は、明治26年(1893年)に清朝政府と在日華僑が協力して建てたもので、日本で唯一の本格的な中国様式の孔子廟です。

中国山東省の曲阜(きょくふ)にある総本山並に、伝統美溢れた儀門や大成殿をはじめ廟宇の随所に中国の歴史と文化、伝統芸能の粋がちりばめられています。

琉璃瓦、青白石製欄干、龍紋様の御道石、孔子像、72賢人石像などはすべて中国から取り寄せられたものです。


大成殿奥の博物館は、1983年に、中日両国の相互理解と文化交流を目的に新設されたものです。

2階には北京故宮博物院提供の宮廷文化財を、3階には中国歴史博物館提供の出土文化財を常設展示しています。


長崎孔子廟・72賢人石像



長崎孔子廟・大成殿



長崎孔子廟・大成殿

儀門

正門となる門を儀門といいます。

昭和初期の台風によって破壊されましたが、昭和42年(1967年)に再建したもので、孔子廟の正式な内正門(二の門)です。

元来中国の廟の門戸は3カ所以上の奇数をもって作られ、中央は神様と皇帝以外の通行を禁止して通常は閉鎖されている神聖な門です。


72賢人

両廟の前・横の石像が孔子の高弟72賢人で、「六芸」に通じた賢者たちです。

石像は等身大で重量1.8トンです。それぞれ史実に基づき北京美術工場で彫刻したものです。

台座には全面に賢人の名前、後面に彫刻した制作者の名前が記されています。

「六芸」とは徳、知、体に秀でた六つの才能のことです。

徳・・・・・礼(礼儀)・楽(音楽)
知・・・・・書(書道)・数(数学)
体・・・・・射(弓の技術)、御(馬車の運転)


長崎孔子廟・東廡



長崎孔子廟・博物館

宥座之器(ゆうざのき)

「宥座之器」とは座右において戒めとする器という意味です。

「虚となればすなわち傾き、中となればすなわち正しく、満つればすなわち覆る」ほどよく水を入れないと器はひっくり返ってしまうということです。

孔子は魯の桓公の廟に参詣したとき、宥座之器をさして弟子たちに「満ちて覆らない者はいない」と諭しました。無理をすることや満ち足りることを戒め、中庸の徳、謙虚の徳の大切さを教える器です。

今回は器の存在がわからず、水入れにはチャレンジしませんでした。


「長崎孔子廟」の次に、「グラバー園」を訪ねました。

今回は路面電車石橋駅近くにある「グラバースカイロード」を利用してグラバー園に登りました。グラバースカイロードは、日本初の街路事業での斜行エレベーターです。

「グラバー園」は、長崎港を見下ろす高台にある、長崎を代表する観光スポットです。

国指定重要文化財の旧グラバー住宅を始め、旧リンガー住宅、旧オルト住宅などの個性溢れる洋館を巡っていると、当時の長崎に生きた外国人の暮らしが垣間見え、居留地時代にタイムスリップしたような気持ちになります。


グラバースカイロード



グラバー園から長崎市街を望む



グラバー園から長崎市街を望む



トーマス・グレーク・グラバー

遠くスコットランドから渡来したトーマス・ブレーク・グラバーが、ここ南山手の丘に住まいを建設したのは1863年のことです。当時の長崎の街は、日本の新しい夜明けを夢見る人々の熱気で溢れていました。

大洋の波涛を越え、夢を抱いてやってくる異国の商人たち。倒幕の野望に燃える幕末の志士たちや、西洋の学問を志す日本の若者たち。

あれから100年以上を経過した現在でも、グラバー園にはグラバーたちの家族が暮らした当時の記憶が、共に長崎を愛し長崎に暮らした貿易商たちの邸宅が、形を変えることなく残されています。



旧グラバー住宅



旧グラバー住宅


旧グラバー住宅

旧グラバー住宅は、文久3年(1863年)に建築された、現存する日本最古の木造洋風住宅です。

貿易商であり、グラバー商会を設立したトーマス・ブレーク・グラバーが住んでいました。

昭和26年(1961年)に、主屋・附属屋が国の重要文化財に指定されています。


旧グラバー住宅



旧グラバー住宅



旧グラバー住宅

トーマス・グラバーは幕末の志士を陰で支え、明治維新を推進した功労者で、炭鉱や造船、鉄道業など日本の近代化に貢献した人物です。

旧グラバー住宅は、数多い洋風建築の中でも独特のバンガロー風様式を持つ建物で、邸内にはいくつもの部屋があり、それぞれに置かれたアンティークな家具や雑貨は歴史を感じさせる逸品ばかりです。



旧グラバー住宅



旧グラバー住宅


旧ウォーカー住宅

旧ウォーカー住宅は、ウォーカー・ジュニアの旧邸です。

明治中期に建てられたと考えられるこの建物を大正4年(1915年)に購入し、昭和32年(1958年)に亡くなるまで居住していました。その後、彼の妻シゲコ・メーベルが母屋の一部を市に寄贈し、昭和49年(1974年)にグラバー園に移築されました。

もとは大浦天主堂のそばに建てられていました。


旧グラバー住宅



旧ウォーカー住宅



旧長崎地方裁判所長官舎



旧長崎地方裁判所長官舎

旧長崎地方裁判所長官舎

この洋風建築は、明治16年(1883年)に長崎控訴裁判所(現在の高等裁判所)の官舎として八百屋町1番地(現長崎市上町4番21号)建てられました。昭和20年(1945年)に長崎控訴裁判所が福岡に移転したことから、この建物は控訴院の官舎から長崎地方裁判所長の官舎となりました。

建物は、明治時代の西欧化を反映した貴重な官庁建築のひとつとして、昭和54年(1979年)に現在地に移築し復元したものです。現在はレトロ写真館として利用されています。



自由亭


自由亭

日本人初の西洋料理店シェフとなった草野丈吉のレストラン「自由亭」の建物です。

建物は明治11年(1878年)に建てられ、当時の長崎の三大西洋料理店のひとつで、内外の貴賓、地元高官などの社交の場に利用されていました。

草野丈吉が亡くなった後は、建物を長崎地方裁判所が購入し、検事正官舎として使用され、その後長崎市に寄贈され、昭和49年(1974年)にグラバー園に移築されました。

現在は2階が喫茶室として利用されています。


自由亭からの展望



グラバー園



三浦環の像

三浦環像

日本が生んだ世界的プリマドンナ三浦環は、イタリアの作曲家プッチーニが長崎を主題としたオペラ「マダムバタフライ(蝶々夫人)」を世界各国で歌い続けました。

三浦環像は、その功績をたたえた像です。

海の向こうを指さす仕草が印象的です。



旧リンガー住宅



旧リンガー住宅


旧リンガー住宅

イングランド出身で、グラバー商会に勤め、退職後、同じ英国出身のホーム氏と共にホーム・リンガー社を設立したフレデリック・リンガーの旧邸です。

この家にはフレデリック・リンガー一家が、明治時代から昭和時代にかけて住んでいました。

南欧バンガロー風テラスが素敵な木骨石造り住宅です。

昭和41年(1966年)に国の重要文化財に指定されています。


旧リンガー住宅



旧リンガー住宅

ホーム・リンガー商社を設立したリンガーは、製茶業を手始めに製粉、石油備蓄、発電などの事業に幅広い活動を始め、明治、大正、昭和初期を通じウラジオストクなど海外各港との貿易事業、各国商社代理業務にたずさわりました。

リンガーが1898年に大浦海岸通りに建設した「ナガサキ・ホテル」は、当時アジアの一流ホテルとして名を馳せました。



旧オルト住宅



旧オルト住宅


旧オルト住宅

オルト商会を設立し、製茶・貿易商として活躍したウィリアム・ジョン・オルトの旧邸です。

石造円柱が並ぶベランダの中央に妻切屋根のポーチがあり、軒高の堂々たる偉容を誇る幕末明治洋風建築の中でも出色の建築です。イギリス人の設計で日本人小山秀之進が施工したといわれています。

当時の洋風住宅で、別棟の台所や倉庫が現存しているのは珍しいとのことです。

昭和47年(1972年)、主屋・附属屋・倉庫が国の重要文化財に指定されています。

また、噴水1基が重要文化財の附(つけたり)指定となっています。


旧オルト住宅



旧オルト住宅

オルトは安政6年(1859年)に来日、貿易商として製茶業を主に実業家として活躍しました。

文久元年(1861年)、彼は居留地自治会の初代役員に選ばれ、同年6月には居留地商工会議所で最初の議長となりました。妻エリザベスと二人の娘との四人家族で、3年間この家で過こしました。その後大阪で1年半、横浜に2年間滞在しています。


オルトが大阪に移住後、この邸宅はメソジスト派の活水女学校の校舎や米国領事館として使われ、明治36年(1903年)からリンガー家の所有となりました。

フレデリック・リンガーの長男一家が太平洋戦争勃発まで住んでいましたので、リンガー(兄)邸ともいわれています



旧スチイル記念学校



旧スチイル記念学校



帆船


旧スチイル記念学校

東山手の旧英国領事館跡に建てられた、スチイル記念学校の校舎です。

スチイル記念学校は、当時アメリカのダッチ・レフォームド教会の外国伝道局長であったスチイル博士が、18歳で亡くなった息子のウィリアム・ヘンリーを記念するために寄贈した資金により開設された学校です。

以来、私立東山学院、私立中学東山学院、明治学院第二中学部東山学院と校名は改称されましたが、英語教育と特色ある学風で昭和7年(1932年)までの45年の歴史を長崎の教育史に刻みました。


御朱印船



エスメラルダ

その後、長崎公教神学校、東陵中学校、海星学園校舎と変遷して昭和47年(1972年)に海星学園より保存のため長崎市が寄贈を受け、翌年現在地に移築し復元したものです。

現在は、蒸気船や帆船などの船の模型や、居留地時代の入れ物や建物などの古い写真が展示されています。



グラバー園から大浦天主堂へのグラバー通り



グラバー通りに並ぶ商店



グラバー通りに並ぶ商店

グラバー園からグラバー通りを下っていく途中に、大浦天主堂があります。

大浦天主堂は、西坂の丘で殉教した26聖人に捧げるため、フランス人プチジャン神父によって建てられた教会で、正式名称は「日本二十六聖人殉教聖堂」です。

元治2年(1865年)に建立された、日本最古の木造ゴシック様式の教会で国宝に指定されています。



大浦天主堂



大浦天主堂


教会は、殉教地である長崎市西坂に向けて建てられています。

平成19年(2007年)にユネスコ世界遺産(文化遺産)暫定リストへの掲載が決まっています。

大浦天主堂で本日の散策を終え、ホテルに戻りました。

夕食は長崎新地中華街での、中華料理でした。


大浦天主堂



グラバー通り



グラバー通り



グラバー通り



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     風来坊



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