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長崎散策 その3  (H27.5.8〜5.10)


坂本龍馬と記念撮影



坂本龍馬像



「龍馬がゆく」の文学碑

クラス会の3日目は、福江港9時20分発のジェットホイール「べがさす」に乗船し、海上から五島列島の島並を眺めながら、上五島の奈良尾港を経由して11時10分に長崎港に到着しました。長崎港到着でクラス会は終了し、以後は、自由散策となり、風来坊は龍馬ゆかりの地を巡ることにしました。

幕末に長崎を舞台に活躍した著名人は数多くいますが、なかでも幕末の志士・坂本龍馬はその代表格です。

坂本龍馬が長崎を訪れたのは元治元年(1864年)2月です。翌年、風頭山北麓に日本初の貿易会社であり、海援隊の前身でもある亀山社中を設立しました。しかし、数年後、志半ばで龍馬は凶刃に斃されてしまいました。その夢の名残というべき足跡が風頭の一帯に残っています。



龍馬像傍からの長崎港の展望


風頭公園の中央付近に、腕を組みブーツを履いて力強い目線を港に向けている坂本龍馬の像があります。

ここから長崎市街を一望することができます。

また、坂本龍馬の像の傍らには「龍馬がゆく」の著者・司馬遼太郎の文学碑が建てられています。


龍馬像傍からの長崎市街の展望



龍馬通り



亀山社中の跡

坂本龍馬像の傍から「龍馬通り」が始まります。

「龍馬通り」は風頭から寺町を結ぶ細い石段の道です。

坂本龍馬や亀山社中の志士たちも闊歩したであろうこの道は「長崎歴史探訪路」としても整備されています。

「龍馬通り」の近くの風頭北麓に「長崎市亀山社中記念館」「龍馬のぶーつ像」「亀山社中資料展示場」「若宮稲荷神社」が点在しています。


「長崎市亀山社中記念館」は、坂本龍馬が設立した日本初の貿易商社「亀山社中」の遺構として、今日に伝わる建物を復元した記念館です。

「長崎市亀山社中記念館」の建物は、坂本龍馬ゆかりの亀山社中の遺構として現在に伝わる建物を所有されている方のご厚意により、長崎市が当時の姿により近い形で整備し、平成21年8月1日から公開しているものです。

長崎市亀山社中記念館のある場所は、幕末に亀山焼の再興を図った一族が大正9年まで所有していたと登記簿に記されています。また、幕末の長崎地図に描かれた亀山一帯の建物は当建物らしいものを含めわずかであり、亀山社中が寄寓した建物であった可能性は高いと推測されています。


長崎市亀山社中記念館



亀山社中記念館



亀山社中記念館

母屋は10畳・8畳・3畳の部屋と土間に分かれていました。

龍馬がもたれかかって座ったと伝えられる10畳座敷の柱など黒褐色の建具は幕末の家屋の雰囲気を忠実に再現しています。その先の縁側からは長崎の街と港が一望できます。

一方、土間の北側には玄関があり、かつてはそこから出入りをしていたようです。「亀山社中記念館」の入り口とは、建物の反対側になります。

また土間と3畳の部屋の上側には中二階がありました。有事の際には大人数人が潜むのに十分な広さです。

また、現在は失われていますが、母屋の北側には土蔵と馬小屋もあったとされています。



亀山社中記念館


亀山社中は、慶応元年(1865年)薩摩藩などの援助により、土佐の浪士坂本龍馬が、長崎・伊良林に同志と組織した日本最初のカンパニーといわれる結社です。のちに土佐藩の後援を得て、海援隊となります。

メンバーは、幕府の神戸海軍操練所閉鎖に伴い龍馬と行動をともにした若者たちが中心に20余名です。長岡謙吉、近藤長次郎、陸奥陽之助、沢村惣之丞など幕末の激動期を生きた志士たちです。

亀山社中は、海運業を中心とした商業活動のほか、薩長同盟を基軸とした討幕運動に参画し、幕末維新史において重要な役割を果たしました。

当時により近い形で復元した空間に、坂本家の家紋が入った着物、ブーツやピストルのレプリカなどが、龍馬ゆかりの品を展示しています。


亀山社中記念館



龍馬のぶーつ像

亀山社中から100mほど進むと「龍馬のぶーつ像」があります。

「龍馬ぶーつ像」は平成7年(1995年)に亀山社中創立130周年を記念して建立さえたものです。

長崎港を望む見晴らしの良い高台に作られています。

海の男・坂本龍馬をイメージした蛇輪と「袴にブーツを履いていた」というエピソードにちなんだブロンズ製の大きなブーツ像があります。

実際に足を入れることができる体験型モニュメントです。



亀山社中資料展示場



亀山社中資料展示場


「龍馬ぶーつ像」から龍馬通りを100mほど進むと「亀山社中資料展示場」です。

上野良彦が撮影した幕末志士たちの写真や長崎の風景写真など約150点を展示しています。

写真だけでなく、明治新政府が布告した「五箇条の御誓文」のもとになったといわれる「新政府綱領八策」の原文の写しなども展示しています。

ここは写真撮影自由で、貴重な資料も撮影することができました。


亀山社中資料展示場



亀山社中資料展示場



亀山社中資料展示場



亀山社中資料展示場

「亀山社中資料館」のすぐ裏手に「若宮稲荷神社」があります。

延宝元年(1673年)、出来大工町の乙名・若杉喜三太が開創しました。

伊良林郷の鎮守の神として崇敬を集め、「若宮様」と親しまれるようになりました。

明治元年(1868年)、社号を伊良林稲荷神社と改称し、明治29年(1896年)、境内の大改修等を行い、現在の神域を創成しました。



亀山社中資料展示場



若宮山稲荷神社坂本龍馬像


毎年10月14日、15日の秋祭りに奉納される行事「竹ン芸」は有名で、男狐・女狐の面をつけた若者が、高さ10m余りの2本の青竹の上で曲芸を披露します。

神社の使いである男狐と女狐が若宮神社の御神徳をよろこんで裏の竹薮で遊ぶ姿を模したものといわれています。


若宮山稲荷神



坂本龍馬と記念撮影

「若宮稲荷神社」は、亀山社中の勤王の志士たちが参拝していたことから、別名「勤王稲荷神社」とも呼ばれています。

若宮稲荷神社に坂本龍馬の銅像があります。

この銅像は、風頭山頂に立つ坂本龍馬之像の原型であり、龍馬ゆかりの地・亀山社中の一層の発展を願って制作者山崎和國氏から寄贈されたものです。

当初は亀山社中記念館に置かれていましたが、午後5時に閉館になるため、より多くの方に見てもらうために、若宮稲荷神社に移設されたとのことです。


龍馬通りを亀山社中記念館の方に戻り、長く続く石段を降りた寺町を南方向に進むと思案橋に出ます。

次に、「花街・丸山界隈」を散策することにしました。

思案橋は、花街・丸山の入り口に設けられた門前橋です。

当時の旦那衆が「行こうか・・・・戻ろうか」と思案したことから、思案橋と名付けられました。昭和30年代に道路拡張のため橋は消滅し、現在は橋の欄干を象った建造物が建つのみで、歓楽街の入り口になっています。


丸山町交番



福砂屋



史跡料亭 花月

思案橋から100mほど進んだ右手が「福砂屋本店」です。

円山公園の近くに本店を構える長崎カステラの本店です。風格ある店構えが、寛永元年(1624年)創業という歴史を物語っています。

「福砂屋本店」から円山公園の方向に進むと、歴史を感じる交番が建っていました。



史跡料亭 花月


円山公園を過ぎた左手に「史跡料亭 花月」があります。

花月は寛永19年(1642年)に創立した遊女屋引田屋の庭園内に文政元年(1818年)頃に造られた茶屋の名称です。

大正末期に引田屋は廃業しましたが、花月の名称と引田屋の庭園、建物は現在に伝承され、昭和35年(1960年)に長崎県の史跡に指定され、全国的に珍しい史跡料亭となりました。


史跡料亭 花月



史跡料亭 花月

花街丸山には江戸から幕末、明治と長崎で活躍した国際人の社交場であり文人墨客も数多く訪れましたが、花月も例にもれず、勝海舟、坂本龍馬、岩崎弥太郎のはか、歴史上のなだたる人物も訪れました。

坂本龍馬がつけたといわれる刀傷の跡が床柱に残る「竜の間」や、タイル貼りの床に和風の天井、中国の様式を取り入れた窓を使用した日本で最初の洋間「春雨の間」などがあります。


また、なかにし礼原作「長崎ぶらぶら節」で有名となった名妓・愛八直筆の歌本や写真、坂本龍馬直筆の書などを展示する集古館など、花月の歴史を物語る見どころも数多くあります。

各部屋から見渡せる元禄時代に造られた庭園も素晴らしいとのことです。



長崎検番


「史跡料亭 花月」から東方向に50mほど進むと「長崎検番」があります。

「長崎検番」の建物は、かつて丸山遊郭の妓楼であった「松月楼」の建物を譲り受けたものです。

日本三大遊郭の一つとして知られた丸山遊郭ですが、現在はかつてのような賑わいはなく、昔のような情緒も殆どありません。僅かに引田屋の建物が名所として残されているのみです。

それでも長崎検番には21名の芸子が所属し、今なお花街の伝統を守っています。


長崎検番



梅園身代わり天満宮への散策路



梅園身代わり天満宮

「長崎検番」の傍の路地を進み、階段を登ったところに「梅園身代わり天満宮」があります。

「梅園身代わり天満宮」は、不幸や災難の身代わりになってくれるという言い伝えを持ち、遊女や芸者衆も通ったといわれる天満宮です。

境内には願いごとを祈願する梅塚や、頭を撫でると知恵がつくといわれる撫で牛など縁起物も多くあります。


「梅園身代わり天満宮」の傍に「長崎ぶらぶら節の碑」があります。

吉永小百合主演で映画化された、なかにし礼の小説「長崎ぶらぶら節」の碑です。


長崎ぶらぶら節の碑



中の茶屋



中の茶屋



中の茶屋



中の茶屋

「梅園身代わり天満宮」のすぐ傍に「中の茶屋」があります。

「中の茶屋」は、寄合町の妓楼「中の筑後屋」の茶屋跡です。

江戸時代中期に築かれた現存する庭園が見事です。

現在は建物内に、かっぱの絵で有名な長崎出身の画家・清水崑の作品が展示されています。

見晴らしも良く、丸山散策の休憩所としても気軽に立ち寄ることのできる場所です。



出島和蘭商館跡:旧出島神学校


「中の茶屋」から「高島秋帆旧宅跡」「料亭 青柳」を経由して思案橋に戻り、次に「出島和蘭商館跡」を訪ねました。

出島は来舶ポルトガル人を居住させるために海中を埋築し。寛永13年(1636年)に完成しました。

寛永14年(1637年)に島原の乱が起こり、寛永16年(1639年)幕府はポルトガル人を渡航禁止にしました。

これにより出島は空き家になりましたので、寛永18年(1641年)平戸のオランダ商館をここに移しました。


旧出島神学校



旧長崎内外クラブ



旧長崎内外クラブ

日本が鎖国を行っていた頃、出島は西洋との唯一の窓口でした。

寛永18年から開国までの218年間、出島はオランダ屋敷と呼ばれました。

出島のオランダ商館では、この地を通じて日本とヨーロッパを結ぶ経済・文化の交流がおこなわれ、日本の近代化に果たした功績は大きいものがあります。

島内にはオランダ商館員の居宅・倉庫等数十棟が建ち、家畜を飼い、珍しい植物が植えられていました。



ミニ出島



ミニ出島


この歴史的価値を後世に残そうと、長崎市では19世紀初頭の出島を復元する計画が進行中です。

現在、西側5棟(ヘルト部屋、料理部屋、一番船船頭部屋、一番蔵、二番蔵)と水門、カピタン部屋、乙名部屋、礼拝筆者蘭人部屋、三番蔵が完成しています。


ミニ出島




出島和蘭商館跡



ヘトル部屋

今回は東ゲートからスタートしました。

東ゲートからスタートする標準コース(約2時間コース)は次のとおりです。

旧出島神学校ミニ出島ケンペル・ツュンベリー記念碑旧長崎内外クラブ旧石倉(考古館)表門新石倉(出島シアター)拝礼筆者蘭人部屋三番蔵二番蔵(貿易館)一番蔵一番船頭部屋ヘトル部屋料理部屋乙名部屋 カピタン部屋水門



三番蔵



カピタン部屋



関連のホームページ

 長崎市公式観光サイト


 長崎旅ネット

 長崎さるく


出島和蘭商館跡



カピタン部屋



カピタン部屋



カピタン部屋



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       風来坊


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