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第56回東京龍馬会史跡探訪 その1 (H27.5.30)



東京龍馬会の第56回史跡探訪に参加しました。



今回のテーマは、『新緑の世田谷、大河ドラマ「花燃ゆ」ゆかりの地を歩く~豪徳寺から松陰神社』です。



今回の史跡探訪のコースは次のとおりです。

豪徳寺駅(受付)→豪徳寺(井伊家代々墓所・招猫観音・三重塔)→世田谷城趾→代官屋敷跡・世田谷区郷土資料館→勝国寺(土屋䔥海墓所)→勝太郎墓所→広沢真臣墓所→松陰神社(吉田松陰墓所・松下村塾(解散)


豪徳寺駅



史跡探訪受付

受付開始時刻の12時の少し前に豪徳寺駅に到着すると、東京龍馬会の幹事の方々がすでに到着されていて、受付作業を行っていました。

受付で会費を支払うと名札と今回の史跡探訪の資料が渡されました。

史跡探訪の資料は、東京龍馬会の幹事の方によって作成されたものですが、市販の資料よりもずっと詳しいもので、このレポートでも配布された資料から一部抜粋させていただいております。



豪徳寺駅から宮の坂方面に向かう商店街



豪徳寺駅から宮の坂方面に向かう商店街



豪徳寺山門


豪徳寺駅付近には広場がないため、受付終了後、直ちに史跡探訪に出発です。

豪徳寺駅から南方向に500mほど進むと豪徳寺です。

豪徳寺境内で、東京龍馬会佐藤会長の挨拶があり、引き続いて初参加者の紹介がありました。

今回は千葉道場の御子孫の千葉さんが初参加されていました。


佐藤会長挨拶



史跡探訪参加者



案内役の修行代表幹事&伊藤幹事

豪徳寺

豪徳寺は、世田谷城主吉良政忠が、文明12年(1480年)になくなった叔母の弘徳院のために城内に創建した小庵で、初めは臨済宗に属し、弘徳院と称したと伝えられています。


その後、天正12年(1584年)に曹洞宗に転じています。



豪徳寺本殿



豪徳寺仏殿



豪徳寺仏殿


豪徳寺は彦根藩主井伊家の墓所となっていますが、次のような経緯があります。

井伊家は、遠江国井伊谷を中心に勢力を持った武士で、戦国期には今川家の配下にありました。

井伊家24世とされる直政は天正3年(1575年)、15歳で徳川家康に仕え、慶長5年(1600年)の関が原合戦においては、自ら先鋒を務め東軍の勝利に貢献しました。

合戦後、直政は近江国などに18万石を与えられ、初代藩主として彦根藩の礎を築きました。


豪徳寺



豪徳寺招猫殿



豪徳寺招猫殿



豪徳寺

続く2代直孝も大阪夏の陣で功績を挙げ、近江国、下野国、武蔵国世田谷に併せて30万石を有する譜代大名の筆頭格となりました。

以後、幕末までこの家格は堅持され、藩主は江戸城溜間に控えて将軍を近侍し、時には大老職に就き幕府政治に参与しました。



豪徳寺招猫殿



豪徳寺招猫殿


寛永10年(1633年)頃、世田谷が井伊家の所領となったのを機に、領地視察に訪れた2代藩主井伊直孝が、山門前に通りかかったところ、一匹の猫に招かれて中に入ると、さっきまで自分と供たちが居た場所に雷が落ちました。

このことはきっかけで和尚の法談を聞くことができたことを大いに喜び、後に弘徳院を井伊家の菩提寺に取り立てられたといわれています。


豪徳寺招猫殿



豪徳寺三重塔



豪徳寺三重塔



豪徳寺梵鐘

これが招き猫発祥と言われ、豪徳寺では「招福猫児(まねぎねこ)と称し、招猫観音(招福観世音菩薩、招福猫児はその眷属)を祀る「招猫殿」を置いています。

招猫殿の横には、願が成就したお礼として、数多くの招福猫児が奉納されています。

ちなみに、招福猫児は右手を上げており、小判などを持たない素朴な白い招き猫です。



豪徳寺井伊家墓所



豪徳寺井伊家墓所


直孝の没後には、その法号にちなみ豪徳寺と寺号を改め、以後、井伊家墓所として、江戸で亡くなった藩主や家族がここに葬られました。

墓所の北西角には、豪徳寺中興開基の直孝墓が位置し、そこから南西に直進したところに幕末の大老、13代井伊直弼の墓があります。

直弼墓に至る参道沿いには、藩主や藩主正室らの墓が整然と並び、豪徳寺の伽藍造営に貢献した亀姫(直孝長女)墓がその中央西側に位置しています。


井伊直孝墓所



井伊直弼墓所



桜田殉難八士の碑

彦根藩主井伊家墓所は、豪徳寺、清涼寺(彦根市)、永源寺(東近江市)の3ヶ所にあり、歴代藩主とその一族の墓が網羅されています。

各墓所は、将軍家側近であった井伊家の姿をものがたり、江戸時代の幕藩体制と大名文化を考える上で欠くことのできない貴重な遺産であるため、3ヶ所一括で「彦根藩主井伊家墓所」として、平成20年3月28日、国史跡に指定されました。



世田谷城址公園


世田谷城址公園

豪徳寺から宮の坂駅と反対方向に100mほど行ったところが、世田谷城址公園です。

世田谷城は、初代吉良氏が南北朝の頃、関東管領・足利基氏から、戦の手柄により武蔵国世田谷領をもらいうけて築城したのが始まりとされています。

以後、吉良氏八代、二百数十年の間、居城として栄え、吉良御所、世田谷御所と呼ばれました。


世田谷城址公園



世田谷城址公園

吉良氏は関東に北条氏が台頭してくると、これと姻戚関係を結び、その庇護の下に入りますが、天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原攻攻略により、北条氏と親戚関係にあった吉良氏も運命をともにし、世田谷城も廃城となりました。

その後、徳川家康が江戸に入ると、世田谷城の石垣は江戸城改修のために再利用されたとのことです。


世田谷城は武蔵野台地の一角、経堂台地から南に突き出た舌状台地の先端に立地し、西・南・東の3面に烏山川が蛇行して、天然の堀を形成していました。

豪徳寺付近に本丸を置き、現在の世田谷城址公園付近まで城域が拡がっていたものと考えられています。

公園内には、昔のおもかげを残す土塁や丘、谷があり、樹木に覆われた自然豊かな公園です。さぎ草の伝説の主人公「常盤姫」もここに住んでいたとのことです。


世田谷城址公園



城山通り



城山通り



世田谷線上町駅

世田谷城址公園の信号を右折し、道なりに進むと「城山通り」となります。

世田谷城址公園から約300mで東急世田谷線上町駅です。



上町駅からボロ市通りに向かう路地


世田谷線を横切ってそのままさらに200m程進むと丁字路となり、左右に走っているのがボロ市通り(旧大山通)です。

丁字路を左折して100m程進んだ右手が世田谷代官屋敷です。


世田谷代官屋敷



世田谷代官屋敷



世田谷代官屋敷



世田谷代官屋敷

世田谷代官屋敷

世田谷氏に代わって寛永10年(1633年)に世田谷に入ってきたのが彦根藩主井伊家であり、井伊の世田谷領20ヶ村の代官として大場氏が明治を迎えるまでその職を世襲しました。

世田谷代官屋敷は大場氏の屋敷で、大名領の江戸屋敷としては都内唯一の存在です。

表門、母屋などが残り、敷地内には世田谷区立郷土資料館もあります。



世田谷代官屋敷


世田谷代官屋敷は、代官の陣屋として建てられたのではなく、この地の名主であり代官職を務めた大場家宅を役所とした邸宅兼用の代官所でした。

したがって、現存する建物は代官所としての特徴も見られますが、武家屋敷というよりも豪農の邸宅としての形態をよく伝えています。

表門も武家屋敷の長屋門形式ではなく、民家の門に近い簡素な形です。

表門と母屋は明治期以後も大場家によりそのまま受け継がれ、今も旧態を保存している貴重な建物で、国の重要文化財に指定されています。

世田谷代官屋敷



白州跡

母屋の脇に御白州の石組みが残されています。

大場家が治安維持や裁きの権限をも任されていた証で、建物は農家風ですがれっきとした代官屋敷であったことを物語っています。



世田谷区立郷土資料館



坂本竜馬実物写真



世田谷区立郷土資料館


世田谷区立郷土資料館

世田谷区立郷土資料館は、昭和39年に開館した区立として最初の登録博物館です。

世田谷区に関する区内外の歴史・民俗資料等の収集・保存、調査・研究を行っています。

常設展示では原始・古代から現代にいたるまでの世田谷の歴史を概観できます。

また、ビデオブースでの映像展示や、閲覧室も利用することができます。

今回は郷土資料館に保管されている坂本龍馬の写真を見ることができました。


世田谷区立郷土資料館



世田谷区立郷土資料館



世田谷区立郷土資料館



世田谷区立郷土資料館


関連のホームページ


 東京龍馬会


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          風来坊


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