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紫宸殿
紫宸殿:左近の桜
紫宸殿:右近の橘
京都御所は、桓武天皇によって京都に都が遷された延暦13年(794年)に造営された大内裏(宮城)で、現在の京都御所から2Kmほど西にありました。 しかし、平安京の内裏は天徳4年(960年)に焼失したのを始めとして、度重なる内裏の焼失により、主に摂関家の邸宅を一時的に皇居とする里内裏が置かれるようになりました。
安貞元年(1227年)の火災以後は、元の位置に内裏が再建されることはありませんでした。 現在の京都御所は、里内裏のひとつであった東洞院土御門殿に由来するもので、元弘元年(1331年)、光厳天皇がここで即位されて以来、御所とされたものです。 明徳3年(1392年)の南北朝合一によって名実ともに皇居に定まり、明治に至るまでの500年もの間天皇の住まいとなりました。
丹塗の回廊と承明門
承明門と紫宸殿
承明門
豊臣秀吉や徳川の時代になると、御所周辺には宮家や公家たちの屋敷が集められ、何度も大火に見舞われながらも明治初期の東京遷都まで、大小200もの屋敷がたちならぶ公家町が形成されていました。 現在の建物の殆どは、安政2年(1855年)に再建されたものです。
京都御苑は、京都御所、仙洞御所を囲む面積約63haの公園で、いつでも自由にはいることができます。 平安京の大内裏の規模には及ばないものの、北を今出川通、南を丸太町通、東を寺町通、西を烏丸通に囲まれ、東西約700m、南北約1,300mの広大な敷地は、江戸時代には二百もの宮家や公家の邸宅が立ち並んでいた場所でした。
宜秋門
明治になって都が東京に移った後、これらの邸宅が取り除かれて、皇宮付属地として整備され、戦後、国民公園として開放されたものです。 外周は石垣と土塁で囲まれ、蛤御門、堺町御門、今出川御門、清和院御門などの9つの門と、切通しと呼ばれる6つの通路があります。 苑内には玉砂利を敷きつめた幅広の道が縦横に走り、松樹や花桃、梅、桜などをあしらった簡素な景観が清澄な雰囲気を漂わせています。
御車寄
また、檜皮葺造りの建礼門や建春門、宜秋門などの独特な様式をもつ門や、築地塀と御溝に囲まれた10余棟の宮殿建築群からなる京都御所は、明治に至るまで皇居の地として数々の国家的行事が執り行われた、歴史と由緒に富む象徴的な存在です。 現在の建物の殆どは、安政2年(1855年)に再建されたものです。 今年も10月31日から11月4日の間、一般公開が行われました。 京都御所の見学は事前の申し込みが必要ですが、春秋の一般公開時には自由に見学できます。風来坊、11月1日に秋の一般公開に行ってきました。
諸大夫の間
虎の間
宜秋門 京都御所の西側築地には南から宜秋門、清所門、皇后宮門があります。宜秋門は、宮・摂家その他の公卿が参内するときに用いられたことから「公卿門」とも、また長い間の習慣の名残から「唐御門」とも呼ばれていますが、檜皮葺、切妻屋根に四脚門で、唐門の様式は備えていません。 宜秋門は屋根の葺き替え工事中でした。 春秋の一般公開では、宜秋門が入口に、清所門が出口となります
御車寄 宜秋門を入るとすぐに「御車寄(おくるまよせ)」があります。 御車寄は昇殿を許された親王、摂家、堂上、六位の蔵人などが、正式な参内の場合にのみに昇降するところで、檜皮葺で優雅なそりをもつ屋根をいただいております。
鶴の間
諸大夫の間 諸大夫の間は正式の用向きで参内した者の控えの建物で、身分の上下によって控える部屋が異なっています。 3室よりなり、それぞれの室の襖絵にちなんで、「虎の間」(岸岱筆)、「鶴の間」(狩野永岳筆)、「桜の間」(原在照筆)と呼ばれています。
虎の間は、「公卿の間」ともいい、儀式の折の公卿の控えの間で、3室の中で最も格がたかく、清涼殿の近くに位置しています。 虎図は天明の火災で焼失する以前にあったものを、安政の再建時に再び描いたものといわれています。
桜の間
新御車寄
鶴の間は別名「殿上人の間」ともいわれ、諸侯、所司代などの控えの間です。 また、桜の間はそれ以外の者の控えの間として用いられた、狭義の「諸大夫の間」です。 この建物は建具にも蔀(しとみ)を用いず、書院造りに見られる舞良戸(まいらど)を用いるなど、近世の様式を伝えています。
新御車寄 「新御車寄(しんみくるまよせ)」は1915年の大正天皇の即位に際し、建てられたもので、天皇、皇后のみが昇降される、大正以後の天皇、皇后両陛下の玄関です。 ここにはもともと新嘗祭が行われる神嘉殿がありましたが、現在は取り払われ橿原神宮の拝殿として移築されています。
丹塗の回廊
日華門
紫宸殿から延びた丹塗の回廊の南正面に「承明門」、東側に「日華門」、西側に「月華門」があります。 承明門は瓦葺き、切妻屋根で、中央部は天皇行幸や上皇後譲位後の出入りに用いられています。また、節会、御即位、御元服、立后、立太子などの厳儀の際にも開かれています。
日華門、月華門は東西に相対して位置し、ともに瓦葺き、化粧屋根裏、丹塗りの八脚門です。 これらの諸門は築地の諸門とは異なり、いずれも瓦葺きに丹塗りの円柱を用いた唐様の門で、平安の古制を伝えています。
建礼門
建礼門 建礼門は京都御所の正門で南面中央にあります。 檜皮葺き、切妻屋根に角柱を四脚門で、内部にある承明門と向き合っています。 南御門ともいい、現在は外国元首などの国賓来訪を始めとして、天皇が臨幸される時に開かれますが、近世においては、御即位の大礼などの儀式の時のみに開かれたとのことです。
建春門 東側の築地には切妻で平入りの前後の向唐破風(むかいからはふ)の屋根をいただく四脚の建春門があります。 現在では皇后の出入りに用いる門とされています。
建春門
春興殿
春興殿 紫宸殿の東に建っているのが春興殿です。 内侍所、賢所ともいい、皇位継承の印である三種の神器の一つである、御鏡(八咫鏡:やたのかがみ)を安置するところでした。 しかし、東京に都が遷されるにともなって内侍所も遷され、現在御鏡は東京の賢所に安置されており、即位の大礼を行う際に、ここ春興殿に移御、奉安する慣わしとなっています。
紫宸殿と右近の橘
紫宸殿 「紫宸殿」は御即位礼、節会、朝賀などの儀式が執り行われた、御所の建物のなかで最も格の高い正殿で、「南殿(なでん)」「前殿」とも呼ばれる京都御所の象徴的な存在です。 大正天皇・昭和天皇の即位礼もここで行われました。
紫宸殿と左近の桜
高御座
建物は正面の柱間が九間(約33m)、側面が四間(約23m)の入母屋檜皮葺き、総檜造りの高床式木造寝殿造りです。 床はすべて拭板敷、天井は二重紅梁の化粧屋根裏で天井板はなく、中央に母屋、四方に庇の間を設け、四周に高欄を付けた簀子縁を巡らせた古制に則った宮殿建築の様式を伝えています。 簀子縁の中央に18段の階段を有し、その正面壁面に幕末の書博士岡本保孝の手になる「紫宸殿」の扁額が掛かっています。
紫宸殿母屋の中央に天皇の御座である「高御座(たかみくら)」、そのやや右後方に皇后の御座「御帳台(みちょうだい)」が置かれています。 高御座は御即位、朝賀、賓客引見などの大礼の際に用いられましたが、現在は御即位の大礼の際だけに用いられます。 現在の高御座と御帳台は、大正天皇の即位礼に際し、古制に則って造られたものです。 今上階下の即位礼の際には、東京の宮殿に運ばれて使用されました。
御帳台
紫宸殿の北廂
階段脇には、東に「左近の桜」、西に「右近の橘」が配され、前面には白砂の平庭(南庭)が広がっています。 儀式に際しては建物と同様に庭も重要な役割を果たし、建物と平庭は一体のものとして機能しています。 紫宸殿の北廂を「御後(ごご)」といい、賢聖障子の背面には極彩色の花鳥画が描かれています。
清涼殿
清涼殿 「清涼殿」は、平安時代、天皇が日常の御生活の場として使用された御殿で、入母屋桧皮葺の寝殿造りです。四方に廂(ひさし)を持ち、日常の御殿であるため内部は襖などによる間仕切りが多くなっています。 中央正面に御帳台が置かれ、御休息にあてられました。手前の厚畳は御坐で「昼御坐(ひるおまし)」といわれます。向かって右側に、夜御殿(御寝所)、左側に漆喰で塗り固めた石灰壇(天皇が神宮や賢所を遥拝されたところ)があります。 また、中央後側には、御湯所、朝餉の間、台盤所(台所)などがあります。
清涼殿は清少納言の『枕草子』をはじめ、平安文学や古い絵巻にもしばしば描かれ、現存の清涼殿もこれらに酷似した様相を呈しております。 清涼殿の東側に広がる東庭には、殿前に2株の「呉竹(くれたけ)」「漢竹(かわたけ)」があり、『年中行事絵巻』などに描かれた平安の趣をそのままに伝えております。 現在の建物は平安時代のものより小さくなっていますが、比較的よく古制を伝えているといわれています。
小御所
小御所 「小御所」(こごしょ)は平安内裏にはなく、治承年間に源頼朝の世子の住居の呼称であったものを、建長3年(1251年)の再建時に内裏にも採り入れ、造営したものです。 紫宸殿の東北に建ち、時代とともに実用を離れて儀礼化する紫宸殿や清涼殿に代わり、小御所は東宮御元服、立太子など皇太子の儀式などに用いられ、「御元服御殿」とも呼ばれています。
また、年始御礼、御楽始め、和歌御会始めなどのいろいろな儀式や、江戸時代には幕府の使者や所司代の拝謁も行われました。 慶応3年(1867年)12月9日の王政復古の大号令が発せられた夜、有名な「小御所会議」が天皇出御のもとに、この御殿で開かれました。 建物は寝殿造りから書院造りへ移行する時期の建築様式とされており、両様式が織り交ざっています。
御池庭 小御所の東側には回遊式庭園の「御池庭」があります。前面は州浜で、その中に舟着への飛び石を置いています。 右手に欅橋が架かり、対岸には樹木を配し、苑路を廻りながらさまざまな景色を楽しむことができます。 一般公開では苑路への立ち入りはできません。
御池庭
小御所と御学問所
御学問所
御学問所 「御学問所」は小御所の北側にあり、桧皮葺き、入母屋屋根で外観は小御所と同じ様式ですが、引き違いの舞良戸を用い、上部に欄間を施した外観は、より書院造りに近いといわれています。 御学問所は天皇の御学問のための建物として、慶長年間に建てられましたが、専ら親王宣下、新茶封切、月例の和歌の会、摂家親王の謁見などの儀式場として使用されました。
蹴鞠の庭 「蹴鞠の庭」は、小御所と御学問所の間の小庭をいいます。 貴族たちが、鹿皮で作った鞠を地面に落とさないように蹴って遊んだといわれています。
蹴鞠の庭
御常御殿
御常御殿 御学問所の北側に位置する御常御殿は、御所の中で最も大きな御殿で、常御所ともいわれ、天皇の日常の御座所として用いられました。 天皇の御座所としては、古くは仁寿殿を、その後は清涼殿があてられましたが、清涼殿が儀式化して日常生活に供せられなくなるに伴い、豊臣秀吉の行った天正の造営を機に、御常御殿は平安の様式を脱皮して、別棟として建築されるに至りました。
御常御殿(右側)と御三間(前方
御三間
御常御殿の外観は寝殿造りの色彩が濃いですが、15室からなる御殿の内側は実用を重んじ、書院造りの手法が数多く採り入れられるとともに、15室を東西3列に配した機能的な構造となっています。
南側には上段の間、中段の間、下段の間があり、これら3室では天杯の下賜、古書初、摂家参賀などの公式行事が行われました。 各部屋の間には襖を用いず、段違いの無目敷居で仕切っています。
御内庭
御内庭と茶室
御常御殿には庭園が二つあります。一つは南面にある紅梅、白梅が植えられている「壺庭」です。 もう一つは東面にある寝殿造りの様の遣水形式を採り入れた「流れの庭」で、通常、「御内庭」(ごないてい)と呼ばれています。 庭園の東の奥の築山には「錦石」という四畳半の茶室があります。
御三間 御常御殿の南西に接して「御三間」(おみま)があります。 上段、中段、下段の三室よりなる建物で、南と北には御縁座敷があります。 御三間では茅輪、御玄猪の儀式のあとに杯を賜ったり、七夕、盂蘭盆などの儀式が行われたほか、内々のご対面にも用いられたようです。
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清所門