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東京龍馬会第50回史跡探訪 その2 (H24.6.3)
『彰義隊の風を感じる上野の一日』


大雄寺


寛永寺から言問通りに出て、左手方向(西方向)に進み、「上野桜木交差点」を右折して50m程進んだ左手が大雄寺(高橋泥舟墓所)です。

高橋泥舟は幕末期の幕臣、槍術家です。
天保6年(1835年)旗本・山岡正業の次男として生まれ、後に母方を継いで高橋家の養子になります。生家の山岡家は槍の自得院流(忍心流)の名家で、精妙を謳われた長兄・山岡静山に就いて槍を修行、海内無双、神業に達したとの評を得るまでになります。

泥舟も含めた生家の男子がみな他家へ出た後で、長男静山が27歳の若さで病死したため、山岡家に残った妹英子の婿養子に迎えた門人の小野鉄太郎が後の山岡鉄舟で、泥舟の義弟にあたります。



高橋泥舟の墓

剣術の名人として世に称賛され、21歳で幕府講武所教授、25歳のとき同師範役となりました。

佐幕、倒幕で騒然としていた文久2年(1862年)12月、幕府は江戸で浪士を徴集し、翌3年2月に京都に送ります。

泥舟は浪士取扱となりましたが、京都に到着した浪士が尊攘派志士と提携したため、任を解かれ、同年12月に師範役に復職します。


鳥羽伏見の戦いの後、主戦論も多数を占めていた中で、泥舟は徳川家の恭順を説き、15代将軍慶喜が恭順の意を示して寛永寺に蟄居した折りや、水戸に転居したときも遊撃隊を率いて警護に当たります。

江戸に向かって進軍してくる東征軍への使者として、勝海舟は最初に高橋泥舟を選びますが、泥舟は慶喜警護を優先して代わりに妹婿の山岡鉄舟を推薦、鉄舟が見事に大任を果たすこととなります。

墓所のある大雄寺は上野戦争当時、激戦地となった谷中門があった辺りになります。


大雄寺に咲いていた隅田の花火



全生庵



山岡鉄舟の碑

大雄寺から千駄木の方向に向かって約15分道なりに進んだ右手に全生庵があります。

全生庵は、明治16年(1883年)山岡鉄舟居士が幕末明治維新の際、国事に殉じた人々の菩提を弔うために、建立しました。

全生庵という寺名は、明治7年に居士が鎌倉建長寺開山蘭渓道隆禅師自筆の「全生庵」という額を貰い、これを書斎にかけていたことによるそうです。


山岡鉄舟は、明治維新のハイライトといわれる江戸無血開城の功労者です。

山岡鉄舟は天保6年(1836年)に幕臣小野朝右衛門の五男として生まれ、寛永5年(1852年)に槍術の師山岡静山の婿養子となって山岡家を継ぎます。

北進一刀流の同門であったことから清河八郎と親交があり、浪士組では浪士取締役を命じられます。

文久3年(1863年)、将軍・徳川家茂の先供として上洛しますが、まもなく清河の動きを警戒した幕府により浪士組は呼び戻され、これを引き連れて江戸に戻ります。清河八郎暗殺後は謹慎処分を受けます。


三遊亭円朝の碑


慶応4年(1868年)2月には精鋭隊歩兵頭格となって、寛永寺の護衛に当たります。
2月11日の江戸城重臣会議において、徳川慶喜は恭順の意を表し、勝海舟に全権を委ねて自身は上野寛永寺に籠もり謹慎していました。
勝海舟はこのような状況を伝えるため、征討大総督府参謀の西郷隆盛に書を送ろうとし、高橋泥舟を使者にしようとしたが、彼は慶喜警護から離れることができなかったため、義弟の山岡鉄舟に白羽の矢が立った。

3月9日に駿府で西郷に会った鉄舟は、勝海舟の手紙を渡し、徳川慶喜の意向を伝え、朝廷に取り計らうよう依頼します。
この際、西郷から5つの条件が掲示されます。

○ 江戸城を明け渡す。
○ 城中の兵を向島に移す。
○ 兵器をすべて差し出す。
○ 軍艦をすべて引き渡す。
○ 将軍慶喜は備前藩にあずける。

というものでした。
このうち最後の条件を鉄舟が拒んだところ、西郷はこれは朝命であると凄みました。これに対し、鉄舟は、もし島津侯が同じ立場であったなら、あなたはこの条件を受け入れないはずであると反論した。西郷はこの論理をもっともだとして認めた。これによって江戸無血開城が速やかに行われることになります。

3月13日、14日の勝と西郷の江戸城開城の最終会談にも立ち会います。
天皇の側近として宮内大書記官や宮内少輔などを歴任します。



山岡鉄舟の墓



三遊亭円朝の墓

全生庵には山岡鉄舟の墓所がありますが、鉄舟居士との因縁で、落語家の三遊亭円朝の墓所もあります。

今回の史跡探訪においては、全生庵は工事中であり、また住職も不在とのことで、中の見学はできませんでした。

全生庵の由来については、次のサイトで住職のお話を直接聞くことができます。

「お経・講話」「講話」「全生庵」の順でクリックして下さい。

  


全生庵から元来た道を戻り、約10分で谷中霊園です。

谷中霊園は東京三大霊園の一つで、広さは約10万平方メートルです。

およそ7000基の墓があり、徳川家15代将軍慶喜や鳩山一郎、横山大観、渋沢栄一などが眠っています。


横山大観の墓



徳川慶喜墓所



徳川慶喜墓所

徳川慶喜は天保8年(1837年)、水戸藩主徳川斉昭の七男として、江戸小石川の水戸藩邸で生まれました。

弘化4年(1847年)に御三家の一橋家を相続し、元服を済ませ12代将軍の徳川家慶に拝謁し、「慶喜」と改名します。


13代将軍徳川家定の後継問題が浮上すると、慶喜は父の斉昭に擁立されて候補にあがり、老中安部正弘や薩摩藩主島津斉彬の支持を得ます。しかし、家定生母の本寿院など大奥は慶喜の後継に反対し、紀州徳川家の徳川慶福(後の家茂)と対立します。
安政5年(1858年)に南紀州派の井伊直弼が大老に就任すると、井伊の断行で将軍後継は慶福に決定します。

同年、井伊直弼は無許可で日米修好条約を締結しますが、これを詰問したことが原因で、安政の大獄と呼ばれる反対は弾圧を行っていた井伊直弼から、安政6年(1859年)に登城停止、謹慎を命じられます。
井伊直弼は万延元年(1860年)の桜田門外の変で、暗殺されます。

その2年後の文久2年(1862年)、島津斉彬の弟・久光の活躍により、慶喜は14代将軍家茂の後見職になります。
慶喜は政事総裁職となった松平慶永とともに文久の改革と呼ばれる幕政改革(京都守護職の設置、参勤交代の緩和、軍制改革など)を実行します。

元治元年(1864年)に長州藩が武力で朝廷における主導権奪回を図った禁門の変では、幕府軍を指揮して長州軍を撃退します。慶応2年(1866年)6月の第二次長州征伐の最中に将軍家茂が急死すると、同年12月に江戸幕府15代将軍に就任します。

江戸幕府15代将軍となった徳川慶喜は、慶応3年(1867年)10月に、土佐藩建白による大政奉還を受諾して将軍職を辞して、徳川家を盟主とした新たな政治体制を築こうとしますが、武力倒幕路線を望む薩摩の大久保利通や公家の岩倉具視らの画策により、12月には新政府による王政復古が宣言され、慶喜には辞官納地が命じられます。


そして、慶応4年(1868年)1月に勃発した鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗退すると、江戸城に逃げて帰ってしまいます。

その後の慶喜は新政府に対してひたすら恭順を表すこととなり、2月12日に江戸城を出て上野寛永寺で謹慎に入り、4月には水戸に、7月には駿府に退去して謹慎し、明治2年(1869年)に戊辰戦争が終結して、謹慎から解除されます。


徳川慶喜の墓



徳川慶喜夫人の墓

朝敵とされた自分を赦免した上、華族の最高位である公爵にも列してくれた明治天皇に感謝の意を示すため、慶喜は自らの葬儀を仏式ではなく神式で行うよう遺言しました。

光圀や斉昭などの勤王家を輩出した徳川家の伝統に従ったともいわれています。


このため、慶喜の墓は徳川家菩提寺である僧正寺徳川墓地でも寛永寺徳川墓地でもなく、谷中霊園に皇族のそれと同じような円墳が建てられました。


勝精

徳川慶喜の墓所の隣に勝精の墓所があります。

勝精は、徳川慶喜の十男として生まれ、後に勝家に養子に入ります。

勝海舟の孫に当たります。

慶應義塾大学を卒業後、オリエンタル写真工業、浅野セメントなどの重役を歴任しました。


勝精の墓


覚王院義観

上野戦争時の寛永寺執当職です。

東叡山大慈院堯覚の弟子となり、ついで真如院義厳の弟子となります。26歳で住職となり、輪王寺宮執当覚王院となります。

慶応4年(1868年)寛永寺を彰義隊の拠点とさせました。


慶応4年(1868年)5月の上野戦争で徳川方彰義隊が敗れたため、公現法親王を戴き会津若松や仙台の眺海山仙岳院に逃れましたが、9月に捕らわれて東京に移されました。
罪状確定前に47歳で病死(自殺説あり)しました。

輪王寺宮公現親王より寂静院の号を賜ってします。


渋沢栄一

武蔵国の豪農の家に生まれましたが、文久3年(1863年)に江戸に出て文武を修行しながら尊皇攘夷に身を投じ、従兄弟の渋沢成一郎らと横浜の外国人居留地の襲撃を計画するが断念します。

元治元年(1864年)一橋家用心の平岡円四郎の推挙により一橋家家臣となり、ついで慶喜が将軍となったことから幕臣となります。


渋沢栄一の墓


慶応3年(1867年)、将軍の名代としてパリで行われる万国博覧会に出席する、慶喜の弟・徳川昭武の随員としてフランスに渡航します。その後、ヨーロッパを歴訪する昭武に随行して、各地で先進的な産業、軍備を見るとともに、将校と商人が対等に交わる社会を見て感銘を受けます。

大政奉還に伴い、明治元年11月に一行とともに帰国します。

明治維新後は新政府に出仕し、大蔵官僚として改革案の企画立案などを行いますが、予算編成を巡って大久保利通や大隈重信と対立、明治6年(1873年)に井上馨とともに退官します。

その後、実業家に身を転じ、地方銀行や多種多様の企業の設立に関わり、明治の実業界を牽引しました。



岡本健三郎の墓

岡本健三郎

岡本健三郎は幕末の土佐藩士で、明治期の政治家、実業家です。

天保3年(1842年)、土佐藩士岡本亀七と寅との間に土佐郡一宮で生まれます。

土佐藩下横目を務め、また坂本龍馬らと交流をもって国事にも奔走します。

慶応3年(1867年)龍馬とともに由利公正を訪ねて維新後の経済政策を聞き出しています。

坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺された慶応3年(1867年)11月15日に、近江屋を訪ねています。


明治維新後は大阪府に勤め、土木頭、治部司、太政官権判事、大蔵大亟を歴任し、明治5年(1872年)には博覧会用務でオーストリアへ派遣されます。

明治6年(1873年)の明治六年政変で板垣退助らとともに下野し、板垣らとともに民選議院設立建白書を作成しました。明治11年(1878年)立志社の獄で、小銃の弾薬を購入を企てた事を理由に投獄され、出獄後は自由党に加入しつつ、実業家として活動を始め、明治18年(1885年)日本郵船理事となっています。


岡内俊太郎

岡内俊太郎は天保13年(1842年)土佐郡潮江村(現在の高知市潮江)で岡内清胤の長男として生まれます。

俊太郎は土佐藩の横目役として務めていましたが、のち坂本龍馬に従い海援隊に入り、長岡謙吉と共に秘書として活躍します。


岡内俊太郎の墓



岡内家の墓誌

慶応3年(1867年)に長崎で起きた英国船イカルス号水夫殺害事件の嫌疑が海援隊にかかると、佐々木高行と共に長崎へ派遣され、薩摩国へ滞在していた嫌疑のかかる菅野を長崎へ連れ戻しています。

その後海援隊士の無実が確定するまで長崎に駐在しています。


慶応3年9月に龍馬がオランダの会社ハットマン社から1000挺ものライフル銃を購入し、ライフルを土佐へ持ち込むことになると、9月18日に龍馬に同行して長崎を出航して土佐に帰国。

種崎に上陸して御船手方中城助蔵の屋敷に入ります。


俊太郎は高知城下へ出て土佐藩参政渡辺弥久馬らと接触して龍馬がライフル銃を持って種崎に入った事を告げ、9月24日には城東松ヶ鼻の茶亭にて渡辺弥久馬や本山只一郎らと龍馬の交渉の周旋をおこなっているのです。

またこの帰国で龍馬は実家に帰宅することができましたが、この際に同行して坂本家に泊まっています。


明治維新後の俊太郎は明治2年(1869年)には司法官、明治6年にはヨーロッパを視察しており、帰国後は司法大検事、長崎上等裁判所心得などを経て明治19年には元老院議院、明治23年には貴族院議院を歴任する活躍をしています。

岡内家の墓誌には坂本龍馬や中岡慎太郎などの名前が刻まれています。


墓誌に坂本龍馬、中岡慎太郎などの名前が



伊達宗城の墓


伊達宗城は宇和島藩8代藩主です。

天保15年(1844年)に養父宗紀の隠居に伴い藩主に就任します。宗紀の殖産興業を中心とした藩政改革を発展させ、木蝋の専売化、石炭の埋蔵調査などを実施しました。また、幕府から追われ江戸で潜伏していた高野長英を招き、さらに長州より村田蔵六を招き、軍制の近代化にも着手しました。

また、福井藩主・松平春嶽、土佐藩主・山内容堂、薩摩藩主・島津斉彬とも交流を持ち「幕末の四賢侯」と称されました。

安政5年(1858年)に大老に就いた井伊直弼と将軍継嗣問題で真っ向から対立しました。13代将軍・徳川家定が病弱で嗣子が無かったため、宗城ほか四賢侯、水戸藩主・徳川斉昭らは次期将軍に一橋慶喜を推していました。一方、井伊は紀州藩主・徳川慶福を推していました。直弼は大老強権を発動して、慶福が14代将軍・家茂となり、一橋派は排除されました。いわゆる安政の大獄である。これにより宗城は春嶽、斉昭らとともに隠居謹慎を命じられています。

謹慎を解かれて後は、再び幕政に関与するようになり、島津久光とも交友関係を持ち、公武合体を推進しました。慶応3年(1867年)12月の王政復古後は、新政府の議定(閣僚)に名を連ねました。
しかし、明治元年(1868年)に戊辰戦争が始まると、心情的に徳川寄りであったため薩長の行動に抗議して、新政府参謀を辞任しました。

明治2年(1869年)、民部卿兼大蔵卿となって、鉄道敷設のためイギリスからの借款を取り付け、明治4年(1871年)には欽差全権大臣として清との間で日清修好条規に調印し、その後は主に外国貴賓の接待役に任ぜられた。しかし、その年に中央政界より引退しています。



島田一郎の墓

島田一郎

島田一郎は大久保利通を暗殺した紀尾井坂の変で知られています。

嘉永元年(1848年))、加賀藩の足軽の子として生まれました。

廃藩置県後、陸軍軍人を目指してフランス式兵学を修め、中尉にまで昇進しますが、その後帰郷します。

不平士族の一派三光寺派のリーダー格として萩の乱、西南戦争に呼応し挙兵を試みるが断念します。


その後、方針を要人暗殺に切り替え、明治11年(1878年)に長連豪等と共に大久保利通を東京紀尾井坂で暗殺。

その後警察に自首し、同年7月に斬首刑に処されます。


島田一郎等6名の墓所は東京の谷中霊園にあり、6本の墓石が並んでいます。

島田一郎は「島田一良」と彫られているが、反政府主義者の聖地となることを恐れて、あえて彫り変えた可能性もあります。


谷中霊園からの東京スカイツリー



日暮里駅

谷中霊園から日暮里駅に出て、今回の史跡探訪を終了しました。


関連のホームページ

 東京龍馬会


東京龍馬会第50回史跡探訪その1へ


       風来坊


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