慶応4年(1868年)2月には精鋭隊歩兵頭格となって、寛永寺の護衛に当たります。
2月11日の江戸城重臣会議において、徳川慶喜は恭順の意を表し、勝海舟に全権を委ねて自身は上野寛永寺に籠もり謹慎していました。
勝海舟はこのような状況を伝えるため、征討大総督府参謀の西郷隆盛に書を送ろうとし、高橋泥舟を使者にしようとしたが、彼は慶喜警護から離れることができなかったため、義弟の山岡鉄舟に白羽の矢が立った。
3月9日に駿府で西郷に会った鉄舟は、勝海舟の手紙を渡し、徳川慶喜の意向を伝え、朝廷に取り計らうよう依頼します。
この際、西郷から5つの条件が掲示されます。
○ 江戸城を明け渡す。
○ 城中の兵を向島に移す。
○ 兵器をすべて差し出す。
○ 軍艦をすべて引き渡す。
○ 将軍慶喜は備前藩にあずける。
というものでした。
このうち最後の条件を鉄舟が拒んだところ、西郷はこれは朝命であると凄みました。これに対し、鉄舟は、もし島津侯が同じ立場であったなら、あなたはこの条件を受け入れないはずであると反論した。西郷はこの論理をもっともだとして認めた。これによって江戸無血開城が速やかに行われることになります。
3月13日、14日の勝と西郷の江戸城開城の最終会談にも立ち会います。
天皇の側近として宮内大書記官や宮内少輔などを歴任します。
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