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風情ある荒川区の街並み散策と歴史ある寺院めぐり その2 (H24.11.20)


観臓記念碑



回向院

南千住駅の反対側に出て、左に100mほど進んだところが「回向院(小塚原回向院)」です。

回向院の辺りは、江戸時代は小塚原といわれ、品川の鈴ヶ森とともに処刑場のあったところです。

寛文7年(1667年)に本所の回向院が、牢死者や牢死者や刑死者等を供養するために、この地に回向院を開創しました。


回向院には、安政の大獄で獄死した吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎などの墓所があります。

また毒婦と云われた高橋お伝も葬られている。


吉田松陰の墓



橋本左内の墓

また、杉田玄白や前野良沢らが奉行所の許可を得て、ここで刑死者の腑分け(解剖)に立会い、書物内の解剖図の正確さを確かめました。

後に、「解体新書」を翻訳し、日本医学史上に大きな功績を残したことを記念して、本堂入口右手に「観臓記念碑」が建てられています。

回向院は当初は両国回向院の別院でしたが、現在は独立して正称は豊国山回向院です。

小塚原回向院ともいわれています。



ねずみ小僧の墓


高橋お伝の墓



JR常磐線を渡る歩道橋 前方の交差点を右折です


小塚原回向院から右手に進み、歩道橋渡って常磐線を横切り、100mほど進むと「南千住2・3丁目」交差点です。

交差点を右折して500mほど進むと「大関横丁」の交差点で日光街道にぶつかります。


南千住2・3丁目交差点を右折した道路



歩道橋から大関横丁交差点を望む



交差点から入谷・根岸方面を望む



右側の金杉通りを進みます

「大関横丁」の交差点で日光街道を横断し、左折して日光街道に沿って100mほど進むと歩道橋があり、さらに100mほど先にも歩道橋があります。

2つ目の歩道橋の先で道路がY字型に分かれており、左側の広い幅の道路が「昭和通り」で、右側の細い道路が「金杉通り」です。右側の金杉通りを進みます。

現在の昭和通りは昭和初年に開通しました。旧道は上野山下から入谷口通りを経由して、昭和通りと平行して東北に延び三ノ輪で昭和通りと合流します(先ほどの分岐点です)。

この道は金杉通りと呼ばれていますが、昔はこの街道を奥州街道裏道といったそうです。

金杉通りに入って700mほど進んだ「柳通り」の交差点を右折すると柳の通りが暫く続きます。


柳通り



柳通り

根岸界隈のうち、旧日光街道沿い(金杉通り)は戦災で焼け残り、土蔵造りの商家が残っており、柳通りの裏路地には旧花街時代の建造物が所々に残っています。

根岸の柳通りから来る道はかつて音無川が流れていた道です。

柳通りには歩道の両側に柳が街路樹として植えられており、柳が密になるこの通りがかつて花街のあった界隈とのことです。



竹台高前交差点


柳通りを道なりに600mほど進むと「竹台高前」の交差点で広い道路「尾久橋通り」に合流します。

「尾久橋通り」に沿って進み、次の「東日暮里5丁目」の信号で、斜め左方向の細い通りに入ります。

細い通りを100mほど進んだ右手が「善性寺」です。


善性寺



善性寺

「善性寺」は日蓮宗のお寺で、長享元年(1487年)に建立されたと伝えられています。

寛文4年(1664年)に6代将軍徳川家宣の生母長昌院がにここに葬られて以来、将軍家ゆかりの寺となりました。

家宣の弟松平清武がここに隠棲したため、しばしば将軍のお成りがありました。

門前の音無川に架けられた橋は「将軍橋」と呼ばれています。

上野戦争では、彰義隊の屯所となりました。


相撲で69連勝の偉業を達成した名横綱双葉山、政治家石橋湛山の墓などがあります。

また安土桃山時代の作と伝わる「不二大黒天像」も多くの信仰を集めています。


不二大黒天像



横綱双葉山の墓


石橋湛山の墓



善性寺から日暮里駅に向かう通り



日暮里駅 日暮里・舎人ライナー

「善性寺」から300mほど進むと日暮里駅ですが、今回のゴールではありません。

日暮里駅の一番北側の日暮里・舎人ライナーの高架下の駅入口からエスカレーターで上り、右側の短い階段を上がると日暮里駅の上側の、JRを横断している道路に出ることができます。

左方向に進むと谷中です。



本行寺


日暮里駅から谷中の方向に100mほど進んだ右手が「本行寺」です。

「本行寺」は日蓮宗の寺院で、太田道灌の孫の大田資高が大永6年(1526年)に江戸城内平河口に建立しました。

その後、神田、谷中を経て、宝永6年(1709年)に現在地に移転しました。

景勝の地であったことから「月見寺」とも呼ばれました。


小林一茶の句碑



種田山頭火の句碑

20世住職は自ら俳人であるとともに、小林一茶らと親交があり、小林一茶の句碑の他、種田山頭火の「ほっと月がある東京に来てゐる」などの句碑があります。


「本行寺」を出て谷中方向に200mほど進むと谷中銀座に下る「夕焼けだんだん」ですが、今回は本行寺から100mほど進んだ「和泉家石材店」の手前を左折します。

谷中のいろいろな建物を楽しみながら、500mほど進むと信号があり、左方向が谷中霊園です。
信号を右折して道なりに300mほど進むと右手に「全生庵」があります。


和泉家石材店



絵馬堂

「全生庵」は山岡鐵舟が幕末・明治維新の際、国事に殉じた人々の菩提を弔うために、明治16(1883年)に建立しました。

墓所には鐵舟の墓の他に、彼の因縁から、明治の落語名人三遊亭圓朝の墓があり、毎年8月には圓朝まつりと奉納落語が行われます。

山岡鐵舟は、江戸無血開城を決定した勝海舟と西郷隆盛の会談に先立ち、官軍の駐留する駿府に辿り着き、単身で西郷と面会し、その道を切り開いたことで知られています。

勝海舟、高橋泥舟とともに「幕末の三舟」と称されています。



全生庵



よみせ通り

「全生庵」から200mほど進むと文京区の看板があり、右折すると商店街が連なっています。

「よみせ通り商店街」です。

昔は駒込染井から上野不忍池まで、藍染川が流れていました。

大正9年(1920年)に藍染川の暗渠工事が完成すると、その上に道幅8mの通りが作られました。

それが現在の「よみせ通り商店街」となっています。


その後、同商店街には朝市が立ち、午後になると露店が軒を並べ、夜になると大道芸人も芸を競うような、下町風情たっぷりの楽しい通りへと成長し、その賑やかさが夜更けまで続いたことから「夜店通り」と呼ばれるようになりました。

商店街名の「よみせ」は「夜店」の名残とのことです。

現在も通りの此処彼処にその名残を感じられるような、そんな温かみを持った商店街です。


よみせ通り



よみせ通りと谷中ぎんざの合流点



谷中ぎんざ

「よみせ通り商店街」を300mほど進んだ三叉路の右手が、谷中銀座商店街入口です。

谷中銀座商店街を進むと「夕焼けだんだん」に行き着くことができます。

谷中銀座商店街入口から「よみせ通り商店街」を少し進んだ右手が、今回のゴールである「ツーリストインフォメーションYANESEN」です。


「ツーリストインフォメーションYANESEN」は、煎餅屋だった建物を利用し、外国人観光客に谷中・根津・千駄木はもちろん、日本各地や文化を紹介しています。

2.3階では日本語や水墨画、歌舞伎体験教室など、各種教室を開催しています。

1階には観光パンフレットを設置しており、日本語のパンフレットもあります。


ツーリストインフォメーションYANESEN



よみせ通り



よみせ通り

ゴール到着ですので、後は自由ですが、案内図にしたがって西日暮里駅に行きました。

「ツーリストインフォメーションYANESEN」からは、日暮里駅と西日暮里駅とほぼ同じ距離です。



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          風来坊


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