散策スポット・横浜

散策スポット目次

HOME

前ページ

次ページ

鶴見散策 その1 (H24.10.20)


鶴見駅西口



鶴見駅東口「駅からハイキング」受付

「駅からハイキング」の臨海部の歴史・多文化が息づく鶴見タウンウォークに参加しました。

コースの概要は次のとおりです。

鶴見駅東口改札付近(受付・スタート)→總持寺→国道駅→貝殻浜(鶴見川河川干潟)→小野弁財天神社→入船公園(つるみ臨海フェスティバル会場)→潮田神社→鶴見駅東口改札付近(ゴール)


コースの歩行距離は約8.5Km、歩行時間は約2時間40分です。

写真を撮りながら歩きましたので、所要時間は3時間30分でした。

特に總持寺の見学に時間を要したと思われます。

本日はコースのみで1万2千歩でした。


鶴見駅東口から西口への連絡通路



西口を南方向へ

鶴見駅東口で受付を済ませ、連絡通路を経由して西口に移動し、東海道線の線路に沿って南方向に400mほど進むと總持寺の入口です。

今回の「駅からハイキング」のイベントは、10月20日(土)限定のイベントですから、数多くの方が参加しており、道に迷う心配はなく、安心して散策することができました



總持寺三松関


總持寺は曹洞宗の大本山です。

曹洞宗では、正しい仏教の教えを日本に伝え、永平寺を開いた道元禅師を「高祖」とあがめ、總持寺を開き、教えを全国に広めた瑩山禅師を「太祖」と仰ぎ、この二人の祖師を「両祖」と呼んでいます。

このため、曹洞宗には福井県の永平寺と横浜市にある總持寺の二つの大本山があります。


總持寺三松関



三門



三門

石川県にあった諸嶽寺を、元亨元年(1321年)に瑩山禅師が諸嶽山總持寺と改めたのが始まりです。

明治時代の焼失を機に、明治44年11月5日に横浜市に移転しました。

現在の總持寺はJR鶴見駅から10分程度という鶴見が丘にあり、かつわが国の海の玄関の横浜に位置することから、国際的な禅の根本道場として偉容を誇っています。


参道入口から150m程進むと三松関です。

總持寺の総門です。この総門は、禅宗寺院の第一門としては珍しく、特異な高麗門の様式で建てられています。

三松関には「三樹松関」と書かれた扁額があります。

總持寺中興の祖といわれる石川素童禅師が揮毫されたもので、總持寺の祖院がある能登には、みごとな龍の形をした三本の松樹があったことに由来しています。


三門



向唐門

総門をくぐり150m程進んだところにあるのが三門です。

この三門は、木原崇雲氏が妻の菩提のために寄進され、昭和44に落成した建物です。

鉄筋コンクリート造りでは、日本一の大きさを誇っています。


三門を通って境内に入ると右手にあるのが向唐門です。

三松閣の前方になります。

前後に唐破風を付けた精緻なつくりの四脚門です。

この向唐門をくぐると、左右に長い廊下のある中雀門、その先に仏殿が一直線に並んでいます。


宝物殿



百間廊下



玉兎門

向唐門の奥には左右に長い廊下が繋がっています。

長さ152mで、東西の殿堂群をつなぎ合わせて、外苑と内苑を分ける廊下です。

通称「百間廊下」と呼ばれており、廊下の途中にはそれぞれ

朝をあらわす「金鶏門」(東)

昼をあらわす「中雀門」(中央)

夜をあらわす「玉兎門」(西)

と呼ばれる脇門(通用門)があります。


「玉兎門」から内苑にはいると左手に「放光堂」があります。

明治44年(1911年)11月5日、總持寺が能登から移転されて、最初に法要が厳修された記念すべき建物です。

この堂宇は安政年間に山形・鶴岡の総穏寺本堂として建立されましたが、總持寺移転に際して特別に献納された由緒があり、当時は、大祖堂として中心的な役割を果たしました。

現在は全国檀信徒の永代供養の位牌を祀り、日夜回向しています。


放光堂



仏殿



大祖堂

「玉兎門」の右前方、「中雀門」の正面にあるのが「仏殿」です。

七堂伽藍の中心部に配置されている殿堂で、「大雄宝殿」とも呼ばれています。

總持寺では、中央の須弥壇上に禅宗の本尊である釈迦牟尼如来(坐像、木彫)を祀っています。

屋根は入母屋、二重屋根の総ケヤキ造りです。



大祖堂


仏殿の右手にあるのが「大祖堂」です。

大祖堂は、一般的にいわれる開山堂と法堂を兼ねた本堂客殿です。

千畳敷の内中外陣と、982坪の地下室を有しており、瓦葺形の銅版屋根は53トンにも及ぶとのことです。

貫首禅師演法の大道場であるのみでなく、諸種法要修行の場とされています。

この殿堂の内陣の奥には「伝灯院」として、高祖大師(道元禅師)、太祖大師(瑩山禅師)、二祖国師、五院開基の尊像及び独住禅師のご真牌が奉安されています。


大祖堂



紫雲臺

大祖堂の右手前にあるのが紫雲臺です。

總持寺の住持、禅師の表方丈の間です。

宗門の僧侶、全国の檀信徒と親しく相見する大書院とのことです。



待鳳館


紫雲臺の右側にあるのが、待鳳館です。

東京千駄ヶ谷の尾張徳川家旧書院を移築したものです。

總持寺の迎賓館です。


待鳳館



香積台


待鳳館から「金鶏門」を出た左手が「香積台」です。

正面玄関には、独住第三世・西有穆山禅師が揮毫された「香積台」の扁額が掲げられています。

また、中央廊下のつき当たりに、日本最大といわれる木彫の大黒尊天が奉安されています。この像を祀ると開運福徳を授かると信仰されています。



三松閣


「香積台」の右手にある大きな切妻造り鉄筋コンクリートの堂宇があります。

地上4階、地下2階、9400平方メートルの広さがあり、檀信徒研修道場、各種セレモニーの会場となっており、宿泊施設も整っています。

能登・祖院にあった三本の龍形の松にちなんで「三松閣」と呼ばれています。



石原裕次郎の墓所



石原裕次郎の墓所

また、總持寺は石原裕次郎や第24代横綱大錦の眠っているお寺としても有名です。

石原裕次郎の墓所は今回の散策コースには含まれておりませんが、少し寄り道をして参拝してきました。



閉鎖された踏切



陸橋からの光景 特急成田エキスプレス



第一京浜国道とJR鶴見線

總持寺参道を出て真っ直ぐ進むとJRの踏切ですが、この踏切が全面閉鎖になっていました。

このため陸橋を経由して線路の反対側に出て、南東方向に200mほど進むと「總持寺入口」の信号で、左右の道路が第一京浜国道です。

「總持寺入口」の信号を渡って右折し、第一京浜国道に沿って500mほど進んだ左手がJR鶴見線の「国道駅」です。



国道駅 構内はカーブしています


「国道駅」は相対式2面2線を有する、昭和5年(1930年)に完成した高架駅で、開業から80年以上経過しているにも関わらず当時のままの建物の構造がそのまま残っています。

駅が完成した当時に「国道1号」だった京浜国道(現在の国道15号・第1京浜)がそばを走っているから「国道駅」という名前が付けられたようです。


国道駅無人改札口



魚河岸通り側の国道駅入口

国道駅の駅舎は高架のガード下に集約されています。

アーチ状の橋脚と昼間でも薄暗い空間は昭和5年の開業当時から何一つ変わっていない感じです。

しかも、ガード下の両側がそれぞれ店舗兼住宅として機能していた形跡が残っています。

残念ながら駅の外側から撮影していませんので、その状況を紹介できません。



機銃掃討の跡


さらに、戦時中に米軍の機銃掃討を受けて破損した跡がそのまま残っています。

開業当時からの長い歴史がそのまま残っている駅舎といえます。

昭和24年(1949年)の黒澤明作品「野良犬」をはじめ、2007年の「ドラマ華麗なる一族最終話」など、現在でも映画、ドラマのロケ地としても使用されているようです。


機銃掃討の跡



魚河岸通りと国道駅

「国道駅」を反対側に出て、右折して少し進むと「生麦魚河岸通り」です。

日本が鎖国の時に、横浜は開港によりいち早く世界を知ることとなり、そして大きく発展しましたが、開港前の横浜は小さな漁師町でした。

開港前の横浜において大いに賑わっていたのが生麦です。

生麦では、江戸時代より、幕府に魚を献上する「御菜8か村」のひとつとして、魚が売買されていたとのことです。



魚河岸通り


現在、その名残をとどめているのが約400mにわたって続く「生麦魚河岸通り」です。

「国道駅」から少し進むと汐の香りが漂ってきます。

「生麦魚河岸通り」は旧東海道の一部区間でもあり、江戸時代からの賑わいを今にも残しています。

また、「生麦魚河岸では」、『少しでも、誰でも、気軽に』をモットーに一般の方に対してもプロと同じように販売しています。


魚河岸通り



魚河岸通りから鶴見河岸に出る路地

『少しでも・・・魚一尾、貝一個からの小売りにも応じます。欲しい品を必要な分だけお買頂けます。』

『誰でも・・・指定業者しか出入りができない市場もありますが、ここ生麦魚河岸は誰でも気持ちよく買物ができます。早朝はお寿司屋さんなどプロの仕入れで混雑するので一般の方は9時半〜10時半頃の買物がオススメです。(営業時間は8時半から11時です)』

『気軽に・・・扱い方のわからない貝類や、さばきづらい魚もご安心下さい。貝類は目の前でむき身にして、魚はさばいてお渡しします。』



貝殻浜付近の地図



貝殻浜


「生麦魚河岸通り」を300mほど進んで左折し、細い路地を50mほど進むと鶴見川の河岸に出ます。

遊歩道が設けられている最下流部分が「貝殻浜(鶴見川河川干潟)」です。

貝殻浜界隈の生麦地域の漁業は、徳川家康が江戸を領した16世紀末に始まったとされ、江戸城に魚を収める8つの浦の一つでした。


鶴見川河岸に出る階段



貝殻浜

明治期には貝類の養殖を始めて成功し、鶴見川一帯の土手がアサリの貝殻で築かれるほどだったとのことです。

貝殻浜はアサリ漁師が捨て続けた貝殻が堆積してできた土地です。

平成18年に堤防などの整備工事が行われ、現在の状況になりました。

遠目には砂浜に見えますが、浜に降り立ってみるとおびただしい数の貝殻とその破片です。


 
鶴見散策その2へ


目次  TOP HOME