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会津若松散策 その1 (H25.8.26)


鶴ヶ城



磐越西線車窓からの会津磐梯山



磐越西線車窓からの会津磐梯山

JR東日本の「駅からハイキング」のイベント「会津若松『駅からまちなか歴史散策ガイド』」に参加しました。

サブタイトルは「歩くたび新しい会津が見えてきます。ゴールは赤瓦となった鶴ヶ城です」です。


細部説明は「駅から鶴ヶ城までの4キロウォーク。会津若松の新たな発見をお楽しみ下さい。」となっています。


コースの概要は次のとおりです。

磐越西線会津若松駅→西軍墓地→会津町方伝承館→景観指定建造物札の辻旧金陽医院跡野口英世青春広場(野口英世像)外堀跡興徳寺入口会津若松市役所山川健次郎生誕の地西郷頼母邸跡鶴ヶ城(路線バス)→会津若松駅


会津若松駅



会津若松駅の白虎隊の像

歩行距離約4km、歩行時間約1時間30分(施設での見学時間等を除く)、所要時間約3時間(施設での見学時間を含む) です。

鶴ヶ城からの帰路も歩きましたので、歩行距離は約8Km、12000歩でした。

「特典・告知」で、「11時出発される場合は地元ボランティアガイド(無料)が同行し、見学ポイントでは地元ならではの歴史・エピソードを御案内いたします」と書かれています。


駅からハイキングの受付で配布された資料は「駅からまちなか歴史散策ガイド」のパンフレットで、コース図はついていますが、散策スポットに関する細かい地図はありません。

別途配布された「会津若松観光案内」は、駅からハイキング用の地図ではなく、会津若松全体の観光案内図です。


あかべこもお出迎え



駅前公園

この地図ではコースを散策する自信がありませんでしたので、ボランティアガイドに案内していただくことにしました。

ガイドコースは参加も離脱も自由ということで、会津若松駅出発時は4名でしたが、途中で参加者が加わり、鶴ヶ城到着時には10名程度になっていました。



大町通り ボランティアガイドを先頭に


「会津若松駅」から右手に進むと「駅前公園」があります。

「駅前公園」を通過して右折すると「大町通り」です。

「大町通り」の100mほど東側に、道路幅の広い「中央通り」が並行して走っています。

また、駅から前方に真っ直ぐ延びているのが「白虎通り」で、2Kmほど進むと飯盛山です。


大町通りの瀟洒な建物 迎賓館



街中に八重の桜がひらめいています

今回の散策コースは会津若松駅から大町通りを散策しながら鶴ヶ城に向かうコースで、白虎隊関連の史跡は残念ながら散策コースに含まれておりません。

大町通りの、会津若松駅から大町四つ角までの間は「町方蔵しっく通り」とも呼ばれ、江戸時代末期から昭和初期にかけての土蔵造りの商店が随所に見られます

。葦名時代(室町時代)から商業の中心地として栄えた通りです。


駅前公園から大町通りを300mほど進んだ右手に「延命地蔵」があります。

「延命地蔵尊」は会津二十一地蔵尊霊場第六番札所です。

弘安3年(1280年)時宗の開祖である一遍上人は白河の関を通り平泉に向かう時、会津東明寺を開基したと伝えられています。

東明寺は元和3年(1617年)に大町に移転しました。現在大町には地蔵堂のみが残されています。

東明寺の延命地蔵尊には古い木彫り地蔵尊が祀られており、詣でる人が多くあったとのことです。


延命地蔵尊



羽金家住宅



羽金家住宅

延命地蔵尊から少し進んだところが「羽金家住宅」です。

正面7間半、側面16間の2階建てで、屋根は入母屋瓦葺き、庇は銅板葺きです。

外壁は薄黄色の漆喰で仕上げられており、腰は下見板張りになっています。

1階の玄関と応接間のそれぞれの突き出し部の屋根や2階の大屋根は入母屋の起こり破風、2階正面突き出し部分は切妻造りの直線的な破風、これらの破風の巧みな重なりが重厚な正面外観を構成しています。

越後大工の棟梁坂田の作といわれています。


その昔、一説によると、当主は駅前から他人の土地を踏まずに往来できたともいわれています。距離は300m以上あります。

羽金家住宅は現在も居住されており、斜め向かいに医院があります。

羽金家住宅の向かいに昭和12年創業の吉原ミシン商会があります。

店舗2階にレトロ調の大型看板を設置し、多くの観光客の目を楽しませています。

地域全体で伝統を守ろうという雰囲気が溢れている姿の一つといえます。


吉原ミシン商会



会津町方伝承館



会津町方伝承館



会津町方伝承館

「羽金家住宅」から200mほど進んだ左手が「会津町方伝承館」(チェックポイント)です。

「会津町方伝承館」は、会津市民や会津市を訪れる人たちが、伝統産業や伝統工芸とふれあい、相互交流を深めることにより、伝統産業の振興を図り、個性と魅力あるまちづくりを進めるために設置された施設です。


1階では、会津漆器や会津木綿、絵ろうそく、赤べこなどの民芸品が販売されています。

2階の企画展示コーナーでは、関係する団体などが伝統産業品などの展示や作品の発表が行われています。

また、観光情報の提供やレンタサイクルの貸出しなども行われており、街中観光の拠点として利用することができます。


会津町方伝承館



西軍墓地



西軍墓地

「会津町方伝承館」の本町通りの反対側に「西軍墓地」があります。

戊辰戦争(1868年)で会津に攻め入った新政府軍諸藩は長州、薩摩をはじめ36藩、その数3万人といわれています。

この戦役に従軍し会津の地で戦死した新政府軍10余藩、174柱の精霊の眠る霊域です。

土佐藩が最も多く49柱です。



左から美濃大垣・戸田家
薩摩・島津家、備前岡山・池田家


左から長門・毛利家
肥前佐賀・鍋島家、土佐・山内家


明治2年(1869年)に墓が建てられ、その後荒廃していましたが、戊辰90年祭にあたる昭和32年(1957年)、関係5県の協力のもと整備修復されました。

この墓地の北隣にある融通寺は、新政府軍の各藩連絡の会議所で軍務局が置かれた場所です。

西軍兵士の墓地は、このほか会津市内の自在院、専福寺、法華寺、会津坂下町の光明寺にもあります。


融通寺



伝統的建造物



伝統的建造物:小野寺漆器店

西軍墓地から少し進んだところに、小野寺漆器店などの伝統的建造物があります。

小野寺漆器店は明治時代の土蔵商店建築です。

この周辺は葦名時代(室町時代)からの商業の中心地でした。

会津は特に漆器が基幹産業でもあり、現在でも大町周辺には漆器問屋が数多くあります。


小野寺漆器店から少し進んだところを左手に20mほど入ったところに「御造酒地蔵尊」があります。

数多くあるお地蔵さまの中で、お酒の地蔵様としては、おそらく日本で唯一といわれる地蔵尊です。

この場所には、一桂院という寺院があり、その寺を偲ぶよすがとして地蔵尊が安置され大いに栄えたといわれています。

また、この地に清水が湧き出し、人々はこの水を汲んで酒造を起こし、名酒会津の名を広めたと伝えられています。


御造酒地蔵尊



大町札の辻



若松市道路元標

小野寺漆器店から300mほど進んだ交差点が「大町札の辻」です。

「大町札の辻」は江戸時代には会津五街道(越後・米沢・下野・白河・二本松の五街道)の起点でした。

札の辻は「制札場」でもあり、保科正之が初めて制札を掲げました。

また、防火対策として火の見櫓も建てられていました。


「大町札の辻」の交差点を右折すると「七日町通り」です。

「大町札の辻」から只見線七日市駅までの通りで、藩政時代には、会津五街道のうち越後、米沢、下野街道の主要道路が通り、城下の西の玄関口として問屋や旅籠、料理屋が軒を連ねていました。

明治時代以降も重要な通りとして繁栄を極め、昭和30年代頃までは、会津一の繁華街として賑わっていました。その後、一度衰退したこの通りは現在大正浪漫を感じられる通りとして甦り、観光客に人気の通りとなっています。


今回の散策コースには残念ながら含まれていません。


野口英世青春通り



野口英世青春通り



野口英世青春通り



野口英世青春通り

「大町札の辻」の交差点を過ぎると道路の色が褐色に変わります。

ここから先が「野口英世青春通り」です。

「野口英世青春通り」は、野口英世が15歳から19歳まで、青春の真っ只中を過ごした街です。


「大町札の辻」から少し進むと左手に「會津商人司簗田家屋敷跡」の碑があります。

簗田(やなだ)氏の資料が初めて出てくるのは、会津領主だった葦名盛隆の書状といわれています。

葦名氏は城下の有力商人だった簗田氏を商人司として用い、行商人を取り締まる権利を与えるとともに、山賊や盗賊の被害から商人を保護する任務も与えました。

また、簗田氏が商人司として支配できる地域は、会津のほか、日光・宇都宮・仙台・米沢などの及んだといわれています。


會津商人司簗田家屋敷跡



野口英世青春通り

1590年、蒲生氏郷が会津に入ると、簗田氏は氏郷の町作りに協力し、大町札の辻に2千坪を超える広大な屋敷を賜りました。

この後、上杉、加藤と領主が代わっても簗田氏は商人司職を与えられました。

保科正之が会津に入った後も大町検断を務め、代々苗字・帯刀を許されるなど、簗田氏の若松における商業支配は幕末まで続きました。



旧会陽医院


「大町札の辻」から100mほど進んだ左手が「旧会陽医院」です。

明治中期頃に第六十銀行として建てられましたが5年で閉店し、アメリカから帰朝し、最新の医療技術を身につけた渡部鼎によって、明治23年(1890年)に会陽医院として開業されました。

隣接する土蔵と後方にある木造2階建ての建物を総合して旧会陽医院といわれています。

旧会陽医院の1階は診察室、手術室、待合室に使用され、2階は書生部屋として使用されていたもので、現在1階は喫茶店、2階は野口英世青春館という資料館となっています。


旧会陽医院



旧会陽医院の隣の建物

幼少の頃に左手に火傷を負った野口英世は、渡部医師の執刀で手術を受けました。

医術の奇跡に感動した野口英世は、翌年猪苗代高等小学校を卒業すると、医学の道を志し、会陽医院に書生として入門しました。

野口英世はこの会陽医院で猛烈に勉強し、現存する2階の書生部屋で深夜まで英語や仏語、独語の原書を読みふけっていたといわれています。

明治29年(1896年)夏に上京するまでの約3年間、ここで多感な青春時代を過ごしました。女学生山内ヨネとの初恋もこの時代でした。



野口英世青春広場


「旧会陽医院」から100mほど進んだ左手が「野口英世青春広場」です。

「野口英世青春広場」は、まちなかにぎわいの拠点として2005年にオープンしました。

広場の一番奥には野口英世の像があります。


野口英世青春広場



野口英世の像

碑文には次のように記されています(英文訳文)

博士野口英世―ロックフェラー医学研究所員
1876年(明治9年)11月9日 日本猪苗代に生まれる。
1928年(昭和3年)5月21日アフリカ黄金海岸に死す。
科学と人生への献身の故に彼の生涯は喜んで黄熱病の征服と闘いのために捧げられた。
この銅像は彼の親愛なる市民によって彼の偉大なる業績を記念し、かつ将来の若き世代の人々に彼の示範と激励とを要請すべく建立されたものである。1957年


野口英世青春広場の花壇に使われている石は、東京都港区東新橋1丁目(都営地下鉄大江戸線汐留駅南側)にあった、会津藩の江戸での活動拠点の一つ「会津藩中屋敷」の船入場に築かれていた石垣の石が用いられています。

この会津藩中屋敷の場所は、寛永16年(1639年)に当時の山形藩主であり、後に初代会津藩主となった保科正之が拝領したものです。


野口英世青春広場



「野口英世青春広場」から50mほど戻り、東方向に100mほど進むと中央通りです。

中央通りを横切って50mほど進むと「興徳寺」です。

「興徳寺」は弘安10年(1287年)、葦名氏第5代葦名盛宗が鎌倉から大円禅師を招き開山したと伝えられています。


その後、葦名氏を滅ぼした伊達政宗が会津支配の仮館を置き、また豊臣秀吉が天正18年(1590年)奥州仕置の太閤検地の際、この寺を庁舎としました。

豊臣秀吉北限の地でもあります。

蒲生氏郷により城下町が整備され寺院が郭外に移された際も、その由緒と格式により唯一郭内に留まる事を許された寺院です。

戊辰戦争により、堂宇をことごとく焼失、昔日の面影はありません。



蒲生氏郷の墓



蒲生氏郷の歌碑

現在、寺内には、蒲生氏郷の五輪塔(墓)があります。

天正18年(1590年)天下統一を果たした豊臣秀吉は、織田信長にも仕えた戦国武将の蒲生氏郷を奥羽の押さえとして会津に封じました。

蒲生氏郷は黒川といったこの町を郷里(滋賀県日野町)の森の名にちなみ「若松」と名付けました。

また、鶴ヶ城や城下町を整備し、漆器産業を植え付け文化興隆にも力を注ぎました。

しかし会津の領主となって僅か5年で、病のため京都で亡くなりました。


蒲生氏郷の墓は、氏郷没後に子の蒲生秀行によって建立されたもので、京都で亡くなった氏郷の遺髪が納められています。

墓は空風火水地の五文字を刻した五輪塔です。万物の構成要素、宇宙の元素を表現したものです。

また、墓前には、「限りあれば吹かねど花は散るものを心短き春の山風」の辞世の歌碑があります。

会津史談会が昭和28年(1953年)に氏郷公360年祭を記念して建てたものです。

七層の天守、四方石垣を巡る名城鶴ヶ城が、名将最大の後世への遺産となりました。


七層の鶴ヶ城天守閣



会津若松市役所



会津若松市役所

「興徳寺」から南に100mほど進んだ丁字路を左折して100mほど進んだ右手が「会津若松市役所」です。

会津若松市役所庁舎は、昭和12年(1937年)に完成した建物で、総工費17万円です。

戦時の建築制限が始まる直前の、日本建築界の成熟期に建てられた庁舎建築の一つとのことです。

完成当時は、職員も少なく、空き室も多く閑散としていたとのことです。


「会津若松市役所」から庁舎に沿って南に100mほど進んだ丁字路を左折し、100mほど進んだ交差点を右折して300mほど進んだ左手が、清酒・焼酎醸造元の「宮泉銘醸」です。


会津若松市役所



宮泉銘醸



建物の傍に傍に「会津戊辰戦争終結の地」の案内板

この「宮泉銘醸」の傍が、「会津戊辰戦争終結の地」です。

明治元年(1868年)9月22日午前10時、1ヶ月の籠城戦に耐えた鶴ヶ城に、遂に降伏の白旗が掲げられ、会津戊辰戦争は終結しました、

この日の正午、錦旗を擁した西軍の軍監・中村半次郎等を迎え、会津降伏式行われました。

式はここ甲賀町通りの路上で行われました。


式場には、薄縁という畳表に縁布を物を敷き、そのうえに十五尺四方(約4.5m)の緋毛氈が敷かれました。

その上で、松平容保、喜徳父子によって降伏の調印がなされました。それは、天皇家に忠誠を尽くした会津が、逆賊の汚名を着せられての敗戦でした。

終了後、会津藩士たちはこの無念を忘れぬため、その場に敷かれた緋毛氈を小片に切り刻み、おのおの懐中深く持ち帰ったといわれています。

後に、その緋毛氈は「泣血氈(きゅうけっせん)」と呼ばれ、会津人の心の奥深く刻み込まれることになりました。

会津戊辰戦争終結の地の案内板



宮泉銘醸

また、宮泉銘醸の付近一帯は、旧会津藩家老職山川家の屋敷跡で、「山川健次郎生誕地」でもあります。

「山川健次郎」は旧会津藩家老職の家系、尚江・重固の次男で、戊辰戦争の時、15歳で白虎隊に編入されましたが、年少のため除隊となりました。

明治4年アメリカに留学、エール大学で物理学を修め、学位を得て帰国し、明治34年(1901年)に東京帝国大学総長に就任、のち九大、京都帝大総長、貴族院議員、枢密顧問官を務め男爵となりました。

「京都守護職始末」「会津戊辰戦争史」を編集し、明治維新史上、四面楚歌だった会津藩の立場を明らかにしました。


「宮泉銘醸」から南に50mほど進んだ左手が「西郷頼母邸跡」です。

西郷頼母は藩主松平容保が文久2年(1862年)京都守護職となった翌年、容保に守護職を辞退するように進言したことから、家老免職となり、足かけ5年間蟄居しました。

慶応4年(1868年)戊辰戦争が始まると家老復職となり、白河口総督に起用されますが、新政府軍に半日で完敗します。

8月23日新政府軍は城下に侵入しますが、この日、西郷家では一家21人が自刃するという悲劇が起こります。


西郷頼母邸跡



上菓子司 会津葵

21人自刃の3日後、頼母は容保切腹をすすめ家臣に殉死を発議したことにより、息子吉十郎を連れて鶴ヶ城を後にします。

「西郷頼母邸跡」から南に100mほど進むと「鶴ヶ城」です。



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         風来坊


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