アーネスト・サトウは、1862年生麦事件が起きる直前に横浜に到着。その1週間後に、薩摩藩の島津久光の大名行列を馬に乗って横切った英国人を薩摩藩士が切り殺すという生麦事件が発生しました。これが原因で1年後に起きた薩英戦争でサトウは通訳として活躍しました。
その後、長州藩が攘夷のために外国船に砲撃を仕掛け、報復のため4国連合艦隊が下関を占拠したときの交渉の時も通訳として活躍します。生麦事件後の3年ほどの間に集中的に日本語を勉強し、1865年に日本語通訳官に昇進します。
1884年シャム総領事となって離日しますが、1895年イギリス特命全権公使として再来日し、1900年駐清公使として中国に赴任します。
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