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東京龍馬会第57回史跡探訪 (H27.10.24)


九段下交差点



集合場所

東京龍馬会の第57回史跡探訪に参加しました。

今回のテーマは、『江戸城西 大名旗本屋敷を歩く〜九段下から番町・麹町・紀尾井町〜』です。

今回の史跡探訪のコースは次のとおりです。

地下鉄九段下駅(受付)→大隈重信邸跡→江戸城清水門→品川彌次郎像、大山巌像→靖国神社(大村益次郎像)→アーネスト・サトウ碑(イギリス大使館)→平河天満宮→尾張藩中屋敷→井伊家中屋敷→大久保利通終焉の地→紀伊徳川藩中屋敷跡→東京メトロ赤坂見附駅(解散)


今回は所要があって受付時刻には間に合わず、大隈重信邸跡から参加しました。

会費を支払うと名札と今回の史跡探訪の資料が渡されました。

史跡探訪の資料は、東京龍馬会の幹事の方によって作成されたものですが、市販の資料よりもずっと詳しいもので、このレポートでも配布された資料から一部抜粋させていただいております。


九段会館



大隈重信邸跡



大隈重信邸跡

九段下交差点から内堀通りに沿って300mほど進んだ左手が千代田区役所で、区役所のある場所が「大隈重信邸跡」です。

江戸城清水門前のこの場所は、将軍直属家臣の居住地や蔵・馬場・厩といった江戸城付属の施設が置かれていました。

大隈重信は、明治元年(1876年)10月から明治17年(1884年)3月まで、この邸宅に住み、明治15年(1882年)創立の東京専門学校(早稲田大学)の開校事務もこの邸宅で行いました。


大隈重信は、明治17年(1884年)に、現在の早稲田大隈会館(江戸時代の彦根藩・井伊家や高松藩・松平家の下屋敷のあった場所)の地を購入して邸宅としました。

大隈重信邸跡は、その後フランス公使館、憲兵錬成所、国営竹平住宅を経て千代田区役所となります。


大隈重信邸跡



千代田区役所

大隈重信は、江戸時代は藩校の教授になるなど、主に佐賀藩において活動します。

明治維新後は、政治家として活動し、明治6年(1873年)35歳で大蔵卿に就任し42歳まで務めますが、明治14年(1881年)に伊藤博文と対立、その後の政変によって参議を辞任します。


下野した大隈は、明治15年(1882年)、立憲改進党を結成、また、東京専門学校(早稲田大学)を開校します。

明治31年(1908年)6月に板垣退助らと憲政党を結成し、第1次大隈内閣を作りますが、12月に内閣は解散。明治40年(1997年)には早稲田大学学長に就任します。

大正3年(1914年)に76歳で第2次大隈内閣を組閣するなどの活躍をした後、大正11年(1922年)に死去しました。


清水濠



江戸城清水門



江戸城清水門

千代田区役所の道路の反対側に、江戸城清水門があります。

江戸城は麹町台地の東端に、扇谷上杉氏の家臣太田道灌が築いた平山城です。

近世に徳川氏によって段階的に改修された結果、総構周囲約4里と、日本最大の面積の城郭になりました。

徳川家康が江戸城に入城した後は徳川家の居城となり、江戸幕府の開幕後は幕府の政庁となります。



江戸城清水門


明治維新後の東京奠都で宮城(きゅうじょう)となりました。

以後は吹上庭園が御所、旧江戸城西ノ丸が宮殿の敷地となっています。

その東側にある旧江戸城の中心部である本丸・二ノ丸と三ノ丸の跡は皇居東御苑として開放されています。さらに、南東側の皇居外苑と北側の北の丸公園は常時開放され、それらの外側は一般に利用できる土地になっています。


江戸城清水門



江戸城清水門



江戸城清水門

清水門は、寛永元年(1624年)に助役大名・浅野長晟により建てられた枡形の城門です。蝶番の銘には万治元年(1658年)とありますが、これは江戸城の外堀の大工事を行った際に、この門を修復した年であると考えられています。

門名については、昔この辺りに清水が湧き出ていた。また、古くはこの辺りに清水寺があったことから、その名をとって清水門と称したともいわれています。


宝暦元年(1759年)、9代将軍家重の第2子重好をして、この門内に一家を創立させて門名にちなんで清水家と称しました。

文久3年(1863年)の本丸炎上の時には将軍家茂と夫人親子(静寛院宮)は一時ここkに移ったといわれています。

現在は、24時間開門されていますが、国の重要文化財に指定されています。


江戸城清水門



九段会館



九段会館



九段会館

清水門から千代田区役所方向に戻り、左折して内堀通りを300mほど進んだ「九段下交差点」を左折して、200mほど進んだ左手が九段坂公園です。

九段坂公園に「品川彌次郎銅像」と「大山巌像」があります。



九段坂光園



品川彌次郎像


品川彌次郎は、15歳で松下村塾に入門。その後、長州藩士として尊皇攘夷運動で活躍し、京都で倒幕運動に奔走しました。

維新後は、欧州留学後、駐独公使、農商務大輔(次官)などを歴任。明治17年(1884年)子爵に。明治24年(1891年)第一次松方内閣の内務大臣となりました。しかし、松方の命で強力な選挙干渉を行い引責辞任を余儀なくされました。

晩年は、吉田松陰の遺志を継ぎ京都に尊攘堂を創設し、勤王志士の霊を祀るとともに、志士の史料を集めました。


品川彌次郎像



大山巌像



大山巌像

大山巌は天保13年(1842年)に、薩摩藩士大山彦八の次男として生まれました。西郷家は父の実家であり、西郷隆盛、従道は従兄弟です。

薩英戦争直後、砲術研究のため黒田清隆とともに江戸の江川太郎左衛門の塾に留学。戊辰戦争期には西郷の幕下にあって砲術面で優れた成績を上げました。

西南戦争では新政府に忠誠を尽くして田原坂・城山攻防戦での勝利に貢献し、山県有朋に次ぐ陸軍での地位を確定的なものとしました。

日清戦争では第2軍司令官、日露戦争では総司令官を務め、明治40年(1907年)には侯爵の位を与えられました。



靖国神社



靖国神社



靖国神社


九段坂公園の道路の反対側が靖国神社です。

靖国神社は、明治維新で斃れた人々を弔慰するために、明治2年(1869年)東京招魂社として建てられました。明治12年(1879年)に靖国神社と改称され、以後今日に至るまで幾多の戦争での戦没者の霊が祭られております。

幕末の志士である吉田松陰、坂本龍馬、高杉晋作、中岡慎太郎、武市半平太、橋本左内、大村益次郎なども維新殉職者として合祀されています。

これは戊辰戦争における新政府軍側の戦没者を契機として創祀された事情から戊辰以降の戦没者を対象とする合祀基準を、嘉永6年(1853年)に遡らせたためです。


靖国神社



靖国神社:桜の標本木

境内にある遊就館は、明治14年(1881年)に開館した、千代田区内でも古い歴史を持つ博物館で、奉納された武具・武器等が展示されています。

靖国神社は、春には、千鳥ケ淵と並んで桜の名所としても知られています。境内には、東京都の桜の開花の基準となる、標本木があります。



大村益次郎銅像


大村益次郎は、文政7年(1824年)、周防に漢方医の子として生まれました。オランダ医学を学ぶ傍ら西洋兵学を修め、のちに長州藩の兵制の近代化に辣腕を振るいます。

西洋式装備の常備軍「奇兵隊」の整備・育成を始めとする成果は、幕府軍を撃破した第二次長州征伐における戦などで遺憾なく発揮されます。


戊辰戦争渦中の上野戦争では、彰義隊の蜂起を一日で鎮圧するなどの活躍をしました。兵制化を指導するなど、日本陸軍創設の中心的人物でしたが、明治2年(1869年)刺客に襲われ、その傷がもとで亡くなりました。


大村益次郎銅像



大村益次郎銅像前にて



大村益次郎銅像前にて



大村益次郎銅像前にて

大村は戊辰戦争の戦死者を祀る東京招魂社建設に先立ち、自ら建設候補地であった九段の現地視察を行ったといわれ、その建設に尽力しました。

明治15年(1882年)、大村の慰霊祭の席で靖国神社宮司から銅像建立の案が出され、当時内務卿であった山田顕義らが中心となり銅像建立が進められました。

銅像は日本最初の西洋式銅像で、明治26年(1893年)に完成しました。

大村益次郎の顔は上野公園の方を向いており、西郷隆盛像と視線を合わせているともいわれています。



神道無念流練兵館跡


靖国神社の本堂の左手に、「神道無念流練兵館跡」の碑があります。

練兵館は神道無念流の剣客斎藤弥九郎により、文政9年(1826年)飯田九段下の俎板橋付近に開かれ、天保9年(1838年)3月に類焼したので、この地(麹町三番町の九段坂上)に移り、その後約30年間隆盛を誇りました。

明治4年(1871年)に招魂社(明治2年に東京招魂社が建てられ明治12年より靖国神社に改称)の敷地になり、牛込見付に移転しました。


神道無念流練兵館跡



神道無念流練兵館跡

この道場は、千葉周作(北辰一刀流)の玄武館、桃井春蔵(鏡新明智流)の士学館とともに幕末の三大道場といわれて、高杉晋作、品川弥次郎、師範代も務めた桂小五郎(木戸孝允)や渡辺昇など幕末の志士が多数入門し、伊藤俊輔(博文)も出入りしていたといわれています。


靖国神社の遊就館の近くに、鋼製30ポンド船用加農砲が置かれています。

1854年、ペリー艦隊が下田を去って4ヶ月後、ロシアのプーチャン提督が、皇帝ニコライ一世の命令でディアナ号に乗船して来航しました。

当時ロシアは、イギリス、フランス両国と戦争中でしたが、アメリカが日本と和親条約を結んだことを知り、危険を冒して来航し、条約締結を求めてきました。

条約に内容は、水や食糧の供給と千島列島国境問題の解決で、1954年下田の長楽寺で日露和親条約を締結しました。


鋼製30ポンド船用加農砲



鋼製30ポンド船用加農砲

ディアナ号は、当時のロシアの最新鋭の軍艦で、長さ52m、2000トンの木造帆走戦艦で、大砲52門を搭載、乗員500名です。

1854年11月4日午前に大地震が発生し(安政の大地震)、大津波が下田を襲い、ディアナ号は航行不能となり、修理のため曳航中に沈没しました。

乗員では修理不可能のため、日本の協力を得て、木造帆船を2隻建造して帰国し、ロシア本国に救援を求めることになりました。

後に、ロシアはディアナ号の大砲52門を幕府に贈り、その厚誼を感謝しました。

この大砲はそのうちの1門です。



イギリス大使館


靖国神社から内堀通りに沿って1kmほど進んだ右手がイギリス大使館です。

イギリス大使館の正門右前に「サトウ公使植桜の地」と書かれた掲示板があり、次の内容が書かれていました。

明治31年(1898年)、ときの英国公使アーネスト・サトウ氏(明治28年〜33年在住)が英国公使館前の空地に桜の木を植え、東京都に寄付しました。

のちに、それが見事な桜並木となり多くの人々に親しまれましたが、戦災等で枯れ木となったため、戦後再びこの辺りに桜の木が植えられました。

以後、新たな桜並木の名所として生まれ変わり人々に愛され続けています。


サトウ公使植桜の地



アーネスト・サトウ記念碑

イギリス大使館の正門左前には記念碑があり、次の内容が書かれています。

1898年、当時の英国公使サー・アーネスト・サトウが、この地に初めて桜の木を植えました。植樹100周年を記念して、1998年春、ここに英国大使館は新たに桜を植え、日英両国の友好の証とします。

この記念碑は紀宮清子内親王によって除幕されました。

1998年3月


アーネスト・サトウは、1862年生麦事件が起きる直前に横浜に到着。その1週間後に、薩摩藩の島津久光の大名行列を馬に乗って横切った英国人を薩摩藩士が切り殺すという生麦事件が発生しました。これが原因で1年後に起きた薩英戦争でサトウは通訳として活躍しました。

その後、長州藩が攘夷のために外国船に砲撃を仕掛け、報復のため4国連合艦隊が下関を占拠したときの交渉の時も通訳として活躍します。生麦事件後の3年ほどの間に集中的に日本語を勉強し、1865年に日本語通訳官に昇進します。

1884年シャム総領事となって離日しますが、1895年イギリス特命全権公使として再来日し、1900年駐清公使として中国に赴任します。


アーネスト・サトウ記念碑



半蔵門交差点



半蔵門

イギリス大使館から100mほど進んだ、半蔵門交差点の左手にあるのが「半蔵門」です。

半蔵門の内側のエリアは、江戸時代には吹上御殿と呼ばれ、隠居した先代将軍や、将軍継嗣などの住居とされました。現在は吹上御苑と呼ばれ、御所、吹上大宮御所、宮中三殿、生物学御研究所、天皇が田植えする水田などがあります。

天皇及内邸皇族の皇居への出入りには、主にこの門が用いられています。他の皇族は乾門を使用することが多いとのことです。



平河天満宮



平河天満宮


半蔵門から国立劇場の裏手に進んだところに「平河天満宮」があります。
平河天満宮は、江戸城主太田道灌が、菅原道真公の霊夢を見て、文明10年(1478年)に城内に天満宮を建立しました。

その後、徳川家康が築城のため本社を平河門外に移し、慶長12年(1607年)2代将軍秀忠により現在地遷座しました。

菅原道真を主神に八幡宮と東照宮(徳川家康)を相殿の神として祭っています。

徳川幕府に特別な格式で待遇され、紀州藩、尾張藩両徳川家、彦根藩井伊家の祈願所となり、新年の祭礼には宮司は将軍に拝謁できる特別な格式で待遇を受けていました。


平河天満宮



平河天満宮



平河天満宮

天保15年(1844年)に氏子町により奉納された銅鳥居や、力石、狛犬が千代田区の文化財に指定されています。

梅が天神様のシンボルであるのと同様に、牛(神牛)も天神様のトレードマークです。平河天満宮にも撫で牛が1体、石牛が4体鎮座しています。


御祭神菅原道真公は、承12年乙丑の生まれということもあり、牛が繰返し噛砕き消化することを学問に擬え、大変かわいがられたそうです。

天神様の使わしめ(神牛)の耳元でお願いごとを唱えながら、一番気にかかる箇所をやさしく撫でると、繰返し天神様にお願いしてくださり、撫でた箇所と同じところにご利益があるといわれています。


平河天満宮



ホテルニューオオタニ この場所の右手に近江彦根藩井伊家屋敷跡の石碑が



近江彦根藩井伊家屋敷跡

平河天満宮から北方向に100mほど進んだ交差点を左折して200mほど進むと紀尾井町交差点です。紀尾井町交差点から緩やかな下り坂を道なりに400mほど進み、次に上り坂を200mほど進んだ左手がホテルニューオオタニです。

ニューオオタニの入口の交差点を左折して50mほど進んだところに「近江彦根藩井伊家屋敷跡」の石碑があります。

この地には、江戸時代に近江彦根藩井伊家の麹町邸があり、井伊家は外桜田にあった永田町邸(国会前庭一帯)を上屋敷として使用していましたので、ここは中屋敷として使われました。


井伊家は、武勇の誉れが高い家柄で、藩祖直政は、関ヶ原の戦いで徳川家康の軍奉行として活躍しました。

慶長5年(1600年)近江佐和田に18万石で封ぜられ、慶長9年(1604年)直政の子・直勝の時代に彦根藩主となり、近江国等を領地とし、以後、16代にわたって明治維新まで続きました。

石高はほぼ35万石でした。井伊家は、譜代大名に筆頭であり、大老職に任じられる名家でもありました。幕末に幕政を動かした井伊直弼は特に有名です。


明治5年、この地域は紀伊徳川家・尾張徳川家・井伊家の頭文字を合わせて、「紀尾井町」という町名になりました。


近江彦根藩井伊家屋敷跡



前方右手に尾張名古屋藩屋敷跡の石碑が



尾張名古屋藩屋敷跡

ニューオオタニの入口の交差点を右折して100mほど進むと「尾張名古屋藩屋敷跡」の石碑があります。

この一帯には、江戸時代に尾張名古屋藩徳川家の麹町邸がありました。

寛永14年(1637年)に拝領してから、藩主や世嗣が一時的に居住するなど様々な使われ方をしました。


尾張徳川家は、徳川家康の九男義直に始まる家で、紀伊家(十男頼宣)、水戸家(十一男頼房)とともに御三家と称され、義直が年長で知行も多かったため、御三家筆頭となり大名の最高位に位置しました。

義直は慶長8年(1603年)甲斐府中藩主、次いで慶長12年(1607年)尾張清洲藩主を経て、名古屋藩主となり尾張一国と木曽の山林を領地としました。尾張徳川家は以後、加増を重ねた結果、石高はほぼ61万9500石となり、16代にわたって明治維新まで続きました。


御三家で唯一将軍を輩出していません。尾張藩では家訓として将軍位を継承することよりも、徳川家康より与えられた尾張藩を護ることのほうが大切であるとされていたためです。


尾張名古屋藩屋敷跡



贈右大臣大久保公哀悼碑



贈右大臣大久保公哀悼碑

ホテルニューオオタニ入口から元に道を戻り、坂道を下った交差点を右折すると左手が「清水谷公園」です。

公園を入った正面に「贈右大臣大久保公哀悼碑」があります。明治11年(1878年)に時の参議兼内務卿の大久保利通がこの付近で暗殺されました。同僚の政府官僚により暗殺地に近いこの地に大久保の業績を称える石碑が建立されました。

明治21年(1888年)に完成した石碑は、高さ約6mにおよび、表面の碑文は太政大臣三条実美の揮毫によるものです。


この地は、明治23年(1890年)から東京市の公園とされ、現在も都会の喧騒を忘れさせる落ち着いた佇まいをみせています。

石碑は、千代田区の文化財に指定されていますが、この他にも園内には麹町大通り拡幅工事の際に出土した玉川上水の石枡が展示してあります。


贈右大臣大久保公哀悼碑



紀伊和歌山藩徳川家屋敷跡



紀伊和歌山藩徳川家屋敷跡は再開発中

清水谷公園から南方向に300mほど進むと弁慶橋があり、その先が赤坂見附の交差点です。

弁慶橋の左手前に「紀伊和歌山藩徳川家屋敷跡」の石碑があります。

この一帯は、江戸時代に紀伊和歌山藩徳川家の麹町邸がありました。明暦3年(1657年)の大火の後、この地を拝領しました。

紀伊徳川家は、徳川家康の十男頼宣に始まる家です。頼宣は、慶長8年(1603年)常陸水戸藩主、ついで慶長14年(1609年)駿河府中藩主を経て、元和5年(1619年)に紀伊和歌山家の藩主となり、紀伊国と伊勢国の一部を領地としました。

紀伊徳川家は、以後、14代にわたって明治維新まで続きましたが、その中で、8代将軍吉宗と14代将軍家茂は藩主から将軍の座についています。石高はほぼ55万石でした。



赤坂見附交差点で今回の史跡研修は終了しました。



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 東京龍馬会



     風来坊


紀伊和歌山藩徳川家屋敷跡


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