散策スポット・北海道東北

散策スポット目次

HOME

前ページ

次ページ

我孫子散策 その1 (H24.11.7)


我孫子駅南口周辺観光案内



我孫子駅南口 我孫子市ゆかりの文化人の碑

「駅からハイキング」の「秋の手賀沼を望む野鳥と自然の道」に参加しました。

コースの概要は次のとおりです。

我孫子駅→我孫子インフォメーションセンター「アビシルベ」(スタート)→嘉納治五郎別荘跡地→杉村楚人冠記念館→我孫子市白樺文学館→志賀直哉邸跡→旧村川別荘→我孫子市鳥の博物館→千葉県手賀沼親水広場「水の館」→道の駅しょうなん(チェックポイント)→満天の湯→手賀沼公園→我孫子生涯学習センター「アビスタ」→我孫子インフォメーションセンター「アビシルベ」(ゴール)→我孫子駅


サブタイトルは「ゆったりとした時間を味わう手賀沼と歴史・文化を色濃く残す街並みを、深まる秋と共に感じませんか?」です。

コースの歩行距離は約8.4km、歩行時間は約2時間10分(施設での見学時間を除く)、所要時間約3時間10分(施設での見学時間を含む)です。


けやきプラザ



我孫子インフォメーションセンター アビシルベ

JR我孫子駅の南口を出て左手方向を見ると背の高いビル「けやきプラザ」があり、その右手前が「我孫子インフォメーションセンター アビシルベ」です。

今回は我孫子在住の友人たちと一緒に散策する計画で、ここで待ち合わせました。

今回は友人のほかに、我孫子に詳しい方が案内して下さることになり、4人で散策しました。


いつもは地図を片手にが、道に迷いながらのハイキングですが、今回は地図で場所を確認する必要もなく気楽で楽しいハイキングとなりました。

受付を済ませ我孫子駅の方に戻り、駅前から南の伸びている広い道路「公園坂通り」に沿って、700mほど進むと正面が「手賀沼公園」です。


公園坂通り



手賀沼公園前



左側の細い道「ハケの道」を進みます

「手賀沼公園前」の信号を左折して50mほど進むと道路がY字型に分かれています。

右側の広い道路ではなく、左側のセンターラインのない道路に入ります。

この道は昔からある「ハケの道」です。

「ハケの道」への入口にある観光案内板を見ると、ここから1km以内にこれから散策予定の観光スポットが集中しています。


狭い道路に入って50mほど進んだ住宅の合間の細い路地を入ったところが天神坂です。

天神坂を登ると、坂の途中の石垣に

「三樹荘に 夢を紡ぎし文人の 足跡しるす天神の坂 平成四年 村山祥峰」

と刻まれた短歌のレリーフがありました。


「ハケの道」入口の案内板 散策スポットがずらり



三樹荘の短歌のレリーフ

また、「天神坂の記」も刻まれていました。

「かつて我孫子が、北の鎌倉と言われた大正時代、文人達の集まった三樹荘と椎の実の降る天神坂は、彼らがこよなく愛したという。耳をすますと、往時の人々の声が、足音が、轆轤(ろくろ)の軋みが、聴こえてきそうである。この度、市がこの様な石段となし、私たちの憩いの道として整備された。遠き日の三樹荘が天神様の境内であった歴史の道、文学の径を私たちも愛し、守っていきたいと思います。平成5年春 三樹荘主 村山詳峰」


天神坂を上った右手が「嘉納治五郎別荘跡地」で、左側が「三樹荘」です。

明治2年(1896年)に常磐線が開通し、我孫子が鉄道によって東京と1時間あまりで結ばれるようになると、静かな手賀沼を望む丘の上は別荘地として注目されるようになりました。


天神坂



嘉納治五郎別荘跡地



三樹荘の椎の木

嘉納治五郎は柔道の始祖、講道館の設立者として有名ですが、文部省参事官、高等師範学校校長といった教育者としても多大な功績を挙げました。

嘉納治五郎は明治44年(1911年)にこの地に別荘を設けました。

翌年には嘉納の姪である柳直枝子がこの地に別荘を構えましたが、敷地内に「智・財・寿」の木として村人の尊崇を集めていた3本の椎の木がそびえていることから嘉納が「三樹荘」と命名しました。

直枝子の結婚により一時空き家になりましたが、大正3年(1914年)直枝子の弟である柳宗悦がここで新婚生活を始めました。

白樺派の中心人物の一人であった柳の誘いにより、志賀直哉、武者小路実篤が相次いで我孫子に移住したほか、イギリス人陶芸家バーナード・リーチが三樹荘で窯を築いて作陶に打ち込みむなど、三樹荘を拠点として白樺派に関わる文人や芸術家が活動しました。


柳が我孫子を去った後、所有者が何回か変わり、柳が居住した建物は残っていませんが、名前の由来となる3本の椎の木は現在も残っています。

嘉納治五郎別荘跡には、嘉納が住んでいた頃の建物は残っていませんが、文人たちが憩う別荘地としての我孫子を作った原点は嘉納であるといえることから、この地を平成17年(2005年)に我孫子市が購入して保全しています。

庭からの手賀沼の展望は素晴らしいものがあります。


嘉納治五郎別荘跡地



丁字路を右へ


Y字路を左へ



杉村楚人冠の句碑

嘉納治五郎別荘跡から狭い路地をそのまま奥の方に進むと丁字路があり、右折するとすぐにY字路になっています。

左側の路地を100mほど進んだ右手にあるのが「楚人冠公園(緑南作緑地)」で、この公園には杉村楚人冠の句碑

筑波見ゆ 冬晴れの 洪い(おおい)なる空に

が建っています。


かつてはこの付近も杉村楚人冠の所有地で、手賀沼を望むことのできる高台でした。



杉村楚人冠記念館


「楚人冠公園(緑南作緑地)」を右に見て路地を100mほど進んだ右手が「杉村楚人冠記念館」です。

杉村楚人冠は、明治末期から昭和前期に東京朝日新聞で活躍したジャーナリストです。

新聞社内に調査部や記事審査部を創設する、アサヒグラフや縮刷版を発行するなど、日本初の試みを行った先進的な新聞人でした。


杉村楚人冠記念館



杉村楚人冠記念館

杉村楚人冠は手賀沼の風光を好み、明治45年(1912年)に我孫子に別荘を購入します。

関東大震災で2人の子供を失う不幸に遭ったのを機に、一家で我孫子に移住しました。

記念館の建物は、杉村楚人冠が我孫子に定住する際に建てた母家を利用しています。

当時、建築界の異端児と目された下田菊太郎の設計による平屋建て部分と、後年増築した2階建ての書斎部分からなっています。



杉村楚人冠記念館


杉村楚人冠記念館



杉村楚人冠記念館 庭園


邸内には杉村楚人冠の幅広い活躍を物語る文人、財界要人、知識人から送られた書簡、記念品、調度品など貴重な資料が残されています。

展示品は定期的に入れ替えられます。


杉村楚人冠記念館 澤の家



杉村楚人冠記念館 庭園

母家のほか、離れの茶室、蔵、「澤の家」があります。

「澤の家」は、我孫子の名工佐藤鷹蔵が建てた建物のうち、現存する最も古い建物です。

「澤の家」は杉村楚人冠の母堂居宅です。

また、記念館のほかに、竹林、椿、池などが残る庭も公開されています。


「杉村楚人冠記念館」の庭を出て左方向に進むと右手に「緑南地緑地」への階段があります。

「緑南地緑地」を右手に見て100mほど進んだ丁字路で「ハケの道」に戻ります。


丁字路を左折し、200mほど進んだ右手が「我孫子市白樺文学館」です。

「我孫子市白樺文学館」は白樺派文学と民藝運動の資料館です。

雑誌「白樺」全150冊、民藝運動の雑誌「工藝」全120冊、白樺派の文人たちの生原稿や書簡、書画などが展示されています。


我孫子市白樺文学館



志賀直哉邸跡

白樺派の中心人物の一人であった柳宗悦が大正3年に我孫子に移住し、柳の強い誘いで大正4年に志賀直哉夫妻、大正5年に武者小路実篤夫妻など、相次いで白樺派の仲間は住みようになり、我孫子の地で創作活動を大きく発展させます。

白樺文学館は、この白樺派の文人たちの活動を広く次代に伝えるために佐野力によって建設され、現在は寄贈を受けた我孫子市が運営しています。



志賀直哉邸跡(緑雁明緑地



志賀直哉邸跡 母家の敷地


白樺文学館の斜め向かいに「志賀直哉邸跡」があります。

志賀直哉は大正4年(1915年)〜大正12年(1923年)に我孫子に在住し、ここで「城の崎にて」「暗夜行路」などが誕生しました。

現在は公園(緑雁明緑地)として整備されており、小さな茶室風の書斎が残っています。


志賀直哉邸跡 書斎



寿古墳公園(瀧井孝作仮寓跡)入口

「志賀直哉邸跡」から道なりに300mほど進むと左手に「富桝旅館」があり、そのすぐ先に「瀧井孝作仮寓跡(寿古墳公園)」の案内柱があります。

案内柱の階段を登り、更にその先の坂を登った丘の上に古墳があります。

この付近の手賀沼を見下ろす丘の上には「子の神古墳群」と呼ばれる14基の古墳があります。

このうち、子の神4号古墳、5号古墳ははっきりと盛り土がわかる円墳です。


元の道に戻り50mほど進むと左手に湧水があり案内板が建っていました。

関東地方では台地の崖を「ハケ」と呼びました。

「ハケ」下あたりは平坦で、安定していることから、集落と集落をつなぐ道である「ハケも道」が作られ、古くから人々の生活道として機能していました。

白樺派の文人たちもハケの道を往来し、友情をつないでいました。


子の神古墳



寿古墳公園下の湧水

また、「ハケ」からは台地に降った雨が浸透して染み出し、豊かな「湧水」が作られました。

湧水はハケの道沿いの水田の水源として利用されたほか、台地から手賀沼へとつながる生態系を形成、維持してきた点でも重要です。

我孫子のハケの道沿いには、かつてはあちこちに湧水が見られましたが、台地上のアスファルトで覆われ、斜面林が少なくなると、湧水も減ってきました。


その中で、寿古墳公園(瀧井孝作仮寓跡)下の湧水は、東側80mの旧三谷別荘下の湧水とともに現在でも比較的安定して水が湧き出しているとのことです。

この2つの湧水は、歴史的、自然的な意義を評価して、我孫子市が再整備したものです。


旧三谷別荘下の湧水



旧村川別荘 母家



旧村川別荘 母家のガラス(波を打っています)



旧村川別荘

湧水から300mほど進んだ左手が「旧村川別荘」です。

東京帝国大学教授で西洋史の大家である村川堅固が設けた別荘です。

村川堅固は熊本出身で、熊本の第五高等学校に入学した頃、校長として赴任したのが嘉納治五郎でした。

嘉納から「巴投げ」を習ったという逸話があり、大学卒業後も一時期秘書を務めるなど、終生変わらぬ師弟関係を結びました


堅固が我孫子に別荘を設けたのも嘉納の影響があったからだといわれています。

大正10年(1921年)に、我孫子宿本陣にあった離れを移築・一部改装して母家としました。


旧村川別荘 新館



旧村川別荘 新館

また、昭和2年(1927年)には、朝鮮半島での古墳調査に際して、現地の建物から得た印象を元に新館を建てました。

新館は関東大震災を教訓にコンクリート基礎、銅板葺きとしています。

沼を見下ろす南側の展望を意識した大きなガラス窓や、寄木モザイクを配したモダンな床作りが特徴です。



別荘の地図


新館内に展示されている燈籠は、昭和初めまでこの付近は電気が通じていなかったため、母家と新館を往復するための灯りとして使用されていたものです。

「旧村川別荘」に我孫子を見下ろす丘の上に立てられた別荘の地図がありました。

著名人の名前が並んでいます。


旧村川別荘 燈籠



子の神大黒天



子の神大黒天

「旧村川別荘」の裏木戸を出て右手に進んだところが「子の神大黒天」です。

子の神大黒天はネズミを使徒とする大黒天がまつられています。

源頼朝が行脚の途中、我孫子の近くで重い脚の病にかかった折、夢の中にネズミに乗った老人が現れ、ヒイラギで足を祓うと治ったと伝えられています。

足腰の疾患に霊験あるといわれ、遠くから参拝者が訪れるようになったとのことです。


毎年10月の第4日曜日に、「柴燈護摩火渡り」の行事が行われます。

火渡りの行事には、一般の人も参加できるため、年々訪れる人が増えているとのことです。

境内には珍しい七福神が奉納されていました。



 我孫子散策 その2へ


        風来坊


七福神


目次  TOP  HOME