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東京駅復元駅舎と江戸城史跡を巡り歴史と現代を肌で感じる その1
(H24.10.26&11.1)


第10回日比谷ガーデニングショーの作品



第10回日比谷ガーデニングショーの作品



第10回日比谷ガーデニングショーの作品

JR東日本の「駅からハイキング&ウォーキングイベント」の「東京駅復元駅舎と江戸城史跡を巡り歴史と現代を肌で感じる」に参加しました。

サブタイトルは『「皇居外苑・江戸城史跡・北の丸公園」歴史と自然散策コース』です。

コースの概要は次のとおりです。

JR有楽町駅京橋口(受付・スタート)→有楽稲荷神社→日比谷公園→皇居外苑→皇居東御苑→北の丸公園→千代田区観光協会(チェックポイント)→将門塚→東京駅丸の内駅舎→JR有楽町駅京橋口(ゴール)


コースの歩行距離は約8.5km、歩行時間は約2時間10分(施設での見学時間を除く)、所要時間約3時間10分(施設での見学時間等を含む)です。

写真を撮りながら歩きましたが、所要時間は約2時間30分で、約1万3千歩でした。

内部に入って見学する施設がなかったためかもしれません。

10月26日は皇居東御苑が休園日でしたので、11月1日に再度散策しました。


第10回日比谷ガーデニングショーの作品



有楽町電気ビル

JR有楽町駅京橋口で受付を済ませて、駅の西側(ビッグカメラのある方)に出て、有楽町駅に沿って進むと右手に有楽町電気ビルがあり、その前に「有楽稲荷神社」があります。

高層ビルと有楽町駅との間にある神社ですが、神社の周囲に建造物があるため、ややわかりにくいです。


「有楽稲荷神社」は、安政6年(1859年)に永井飛騨守が天下泰平と子孫繁栄を祈念して創立された神社です。

以来、地元の氏子の熱い信仰心のもと、様々な状況変化にもめげずに今日に至っています。

大正12年の関東大震災の際にも周囲はみな延焼したにも拘わらず、この神社は災害を免れたとのことです。昭和48年(1973年)の有楽町電気ビルの新築に伴い、一時、赤坂山王日枝神社に遷座されましたが、昭和54年2月に再びこの地に復座しました。


有楽稲荷神社



晴海通り



日比谷交差点

「有楽稲荷神社」から有楽町電気ビルに沿って南西方向に進み、最初の信号を右折して晴海通りに沿って200mほど進んだ左手が「日比谷公園」の有楽門です。

「日比谷公園」は江戸城日比谷御門のすぐ外側に位置していたため、江戸時代にはそうそうたる大藩の上屋敷が置かれていました。



日比谷公園有楽門



心字池


明治初期には陸軍練兵場となりましたが、明治36年(1903年)に日本初の近代的な洋風公園として開園しました。

園内には、公園のシンボル大噴水、江戸時代の遺構である心字池、公園の設計者・本多静六博士が自分の首を賭けて移植を実現した「首賭けイチョウ」など見所が点在しています。


小音楽堂



松本楼

また、園内には日比谷公会堂や大小音楽堂、新しくなった日比谷図書文化館、老舗洋風レストラン松本楼など、さまざまな施設や店舗があります。

花壇には一年中、色鮮やかな四季の花が咲き、ビジネス街に勤める人達の憩いの場になっています。

日比谷公園では年間を通じてさまざまなイベントが開催されますが、駅からハイキングに参加した時は「第10回日比谷ガーデニングショー」「第29回全国緑化フェアTOKYO」の2つのイベントが同時開催されていました。



日比谷公園 散策路の沿ってガーデニングショーの作品が


祝田門の近くに「水飲み」があります。

この「水飲み」は、明治36年(1903年)の日比谷公園開設時のものです。

鋳鉄製ですが、細かい装飾が施されています。

また、馬も水を飲めるような形に作られており、陸上交通の重要な部分を牛馬が担っていた当時が偲ばれます。

水飲みの後方が小高い丘になっています。


水飲み



丘の上からの丸の内方面の景観



水飲みの後方の小高い丘

日比谷公園の「祝田門」から出て、交差点を横断して、祝田橋を渡ると皇居外苑の「皇居外苑地区」です。

皇居外苑は、皇居外苑地区、北の丸地区、皇居を取り巻くお濠と堤塘の外周部からなっています。



皇居前広場


皇居外苑全体の広さは約115ヘクタールで、皇居の広さ約115ヘクタールとほぼ同じで、両者を合わせると約230ヘクタールで、東京ドーム約49個分の広さです。

皇居外苑は、皇居の森や隣接する日比谷公園とともに都心最大の緑地と水辺を形成し、公園としての利用だけでなく、自然環境保全及び都市景観保全上重要な地域となっています。


皇居前広場



皇居前広場

「皇居外苑地区」の皇居前広場には、約2000本のクロマツが東京湾に浮かぶ小島に見立てた島々に植えられています。

皇居の深い森と対照的に、開放的でしかも荘厳な雰囲気の国民公園、皇居外苑の景観となっています。


明治21年の「皇居御造営」完成後にクロマツなどの植栽整備事業が行われ、その後の整備を経て今日のような美しいクロマツ群ができ上がっています。



皇居前広場



皇居正門石橋


皇居前広場の観光スポットの一番人気は、二重橋前からの景観です。

手前に見えるのが「皇居正門石橋」で、その奥に見えるのが「二重橋」と呼ばれ国民に親しまれている「皇居正門鉄橋」です。

皇居正門石橋の西欧的な建築美と日本の近世城郭美が融合し、都内随一の観光名所となっています。

今回はイベントが開催されていたため、「二重橋」の撮影はできませんでした。


桔梗門



楠公像

松原のつづく外苑の一角に、建武の中興の忠臣・楠公像があります。

二重橋を正面に見据えるこの像は、楠正成公が元弘3年(1333年)6月、隠岐の島から還幸途次の後醍醐帝を兵庫の道筋でお迎えした折の勇姿を象ったものです。

これは、別子銅山開坑200年記念事業として献納したもので、住友家が明治23年(1890年)に東京美術学校(現・東京芸大)に製作を依頼し、同鉱山の銅を用いて高村光雲、山田鬼斎、岡崎雪聲などにより、10年を費やして完成したものです。



手前から巽門、桔梗門、富士見櫓


皇居前広場から桔梗門、巽櫓を眺めながらお濠に沿って進んでいくと大手門です。

大手門は、江戸時代は江戸城の正門で本丸大手門と呼ばれ、高麗門前には大橋が架かっていました。

幕府は、この一帯の左右13町に渡る石垣や枡形門などの築城を、東北の勇、伊達政宗に命じたと伝えられています。


大手門



大手門を入ると前方に、渡櫓の屋根を飾っていた鯱が下に降りて鎮座しています。

明暦の大火(1657年)で焼失した後、1659年に大手門が再建された時のものと考えられ、「明暦三丁酉」の刻印があります。

現在の渡櫓門は第2次世界大戦で焼失しましたが、昭和43年の皇居東御苑の開園に合わせて再建されたものです。

皇居東御苑は、江戸城の本丸、二の丸、三の丸があった場所で、宮殿の造営に合わせて皇居付属庭園として整備されたもので、皇居の東側に付属している広さ21ヘクタールの庭園です。

苑内は庭園のほか、歴史的な史跡も見ることができ、国内のみならず海外からの旅行者も多く訪れます。


大手門



三の丸尚蔵館

大手門から入ると右手に三の丸尚蔵館があります。

三の丸尚蔵館は、皇室に代々受け継がれてきた絵画・書・工芸品などの美術類が平成6年6月、国に寄贈されたのを機に、これらの美術品を環境の整った施設で保存、管理することを目的に平成4年に建設され、平成5年に開館しました。

現在、約9500点の美術品類を収蔵しています。

入館料は無料です。


三の丸尚蔵館から100mほど進むと右手に同心番所があります。

「番所」は警備の詰所のことで、百人番所、大番所と同心番所の3つが残っています。

城の奥の番所ほど、位の上の役人が詰めていました。

同心番所には同心が詰め、主に登城する大名の供の監視に当たっていました。

以前はこの番所の前に橋があり、御三家を除くすべての大名・役人はここで乗り物から降りて徒歩で本丸へ登りました。


同心番所



百人番所

同心番所から少し進むと左手に百人番所があります。

本丸と二の丸へ通じる要所である大手三之門の前に設けられた番所です。

鉄砲百人組と呼ばれた甲賀組、伊賀組、根来組、二十五騎組の4組が昼夜交代で詰めていました。

各組には同心100人ずつが配属されていました。



ここを進むと二の丸公園へ


本丸に進む中之門


百人番所に手前を右手にはいると二の丸庭園ですが、今回はパスして、百人番所の奥の中之門から本丸に向かいます。

中之門を入ると右手に大番所があります。

大番所は他の番所よりも位の高い与力・同心によって警備されていました。


大番所



中之門から本丸への坂道 左前方は大番所



この坂の上が中雀門

大番所の前の坂を上ったところが本丸の入口で、中雀門がありました。

坂を上りきると前方に大きな広場は広がります。

江戸城本丸跡です。



前方の広場が本丸跡


本丸跡の手前を左に進むと、左手に富士見櫓があります。

櫓は、倉庫や防御の役割をもった建物で、かつて江戸城には19の櫓がありました。

現在は、伏見櫓、桜田二重櫓と、この富士見櫓の3つが残っています。

明暦の大火(1657年)で焼失した天守閣の代用としても使われ、将軍が両国の花火や品川の海を眺めたといわれています。


富士見櫓



松の大廊下跡

富士見櫓から少し進むと松の大廊下跡があります。

赤穂浪士討ち入りにつながったことで知られる、浅野内匠頭長矩の吉良上野介義央への刀傷事件(元禄14年:1701年)のあったところです。

廊下に沿った襖戸に松と千鳥が描かれていたのが名前の由来といわれています。

江戸城中で2番目に長い廊下で、畳敷きの立派なものでした。



富士見多聞


松の大廊下跡から少し進み、坂を上ったところに富士見多聞があります。

多聞は、防御を兼ねて石垣の上に設けられた長屋造りの倉庫のことで、多聞長屋とも呼ばれていました。

鉄砲や弓矢が納められ、戦時には格子窓を開けて狙い撃つことができました。

本丸の周囲は櫓と多聞で囲まれて万一に備えられていました。


富士見多聞



石室

富士見多聞から天守台側の坂を降りたところに石室があります。

石室には、抜け穴とか、金蔵とか諸説がありますが、大奥御納戸の脇という場所柄から、非常の際、大奥用の調度などを納めたところと考えられています。

内部の広さは、20平方メートルです。

伊豆石(伊豆半島産の安山岩)で作られており、天井には長い石の板が使われています。



竹林


石室から天守台の方に少し進むと竹林があります。

この竹林は天皇陛下のお考えから、平成8年(1996年)に整備されました。

昭和天皇がそのお印であった『若竹』にちなみ喜寿の記念等に宮内庁職員から贈られ、吹上御苑にお植えになっていたものを、こちらに移したものです。

日本と中国の竹・笹類13種類が植えられています。


キッコウチク



天守台



天守台

本丸の一番奥に天守台があります。

最初の天守閣は、2代将軍の代の、慶長12年(1607年)に完成しましたが、その後大修築され、3代将軍家光の代の寛永15年(1638年)に、江戸幕府の権威を象徴する国内で最も大きな天守閣が完成しました。

しかしながら、わずか19年後の明暦3年(1657年)、明暦の大火で、飛び火により全焼し、以後は再建されませんでした。


天守台から前方に広がる大芝生とその周辺には、江戸城本丸御殿の建物が建ち並んでいました。

本丸御殿には、表、中奥、大奥の3つの空間に分かれていました。

表は、将軍の謁見など公的な儀式・行事、幕府諸役人の執務の場で、中奥は将軍の日常生活、政務を執る場、大奥は御台所と呼ばれた将軍の正妻をはじめ家族や女性たちの生活の場でした。


桃華楽堂



北桔梗門

天守台の傍にある桃華楽堂は、香淳皇后の還暦を記念して建てられた音楽堂で、昭和41年(1966年)に完成しました。

八角堂の建物で、屋根はテッセンの花弁を形どっています。

8つある壁面には、各面とも大きく羽ばたく鳥を中央に、それぞれ月日星、松竹梅、楽の音などをイメージした図柄が陶片で描かれています。

香淳皇后の「桃」にちなんで命名されました。



北桔梗門からの展望




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         風来坊


北桔梗門からの展望


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