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平塚散策 その2 (H25.10.8)


平塚八幡宮



平塚八幡宮

駅からハイキングの散策コースは、馬入・光と風の花づつみの左手前を左折するコースになっています。

堤防から階段を下りると、右手にゴーカート場がある場所です。

ゴーカート場から真っ直ぐに延びる道を1.5kmほど進んだ「平塚市役所前」の信号を左折し、200mほど進むと「宮の前」交差点です。



平塚八幡宮


左右に伸びているのが国道1号(東海道)で、この交差点には横断歩道はなく、×字型の歩道橋を渡って右折します。

100mほど進んだ右手が「平塚八幡宮」です。

平塚八幡宮は古くは鶴峯山八幡宮と称えられ、仁徳天皇の68年(380年)、この地方を襲った大地震に苦しむ人々の様を見かねた天皇が国土安穏を祈り、應神天皇の御神霊をお祀りされたのが創祀の神社です。


平塚弁財天社



平塚弁財天社

現在でも平塚八幡宮は、應神天皇、神功皇后、武内宿禰を御祭神に、相模国一国一社の八幡宮として、また鎮地大神と仰がれ、多くの崇拝者から信頼を集めています。

8月15日の例大祭、5月5日に斎行される1000年余の歴史を持つ國府祭(こうのまち)、9月中旬に行われる「ぼんぼり祭」等、平塚八幡宮の鎮守の杜は、信仰、歴史、文化の交わる場として、また、心の故郷、憩いの杜として護り継がれています。



旧横浜ゴム製造所記念館



旧横浜ゴム製造所記念館


平塚八幡宮から50mほど進んだ「八幡宮前」の三叉路を斜め右方向に100ほど進むと「八幡山公園」です。

戦災により焦土と化した市街地に、昭和21年(1946年)戦災復興土地区画整理事業として、1.6ヘクタールの八幡山公園がつくられました。

桜、ツツジ、ハギなど多数の花木が植栽されており、「平塚八景」「かながわ美林50選」に選ばれています。


旧横浜ゴム製造所記念館



旧横浜ゴム製造所記念館

八幡公園内にある洋館は、旧横浜ゴム製造所記念館です。

旧横浜ゴム製造所記念館は、平塚市内では唯一、神奈川県内でも数少ない明治時代の洋風建造物です。

もとは、明治38年(1905年)12月に設立された日本火薬製造株式会社の英国人の住宅で、明治44年の火災で焼失した前身建物の後に再建(明治45年と推定)されたものです。


この会社は、大正8年(1919年)に日本海軍に買収され、その敷地に海軍火薬廠として発足しますが、建物は将校クラブ(水交社)として使用されました。

海軍火薬廠時代にも、関東大震災による復旧工事やその後の改修工事が度々行われています。

戦後の進駐軍による接収後、昭和25年(1950年)、横浜ゴム株式会社が、建物を含む敷地の払い下げを受けました。昭和30年(1955年)の改修工事を経て、主に応接室や会議室として使用されていました。


旧横浜ゴム製造所記念館



八幡公園の秋バラ


八幡公園の秋バラ



海軍火薬廠の碑

平成16年(2004年)、記念館は横浜ゴムから平塚市に無償贈与されることになり、旧所在地から八幡山公園に移築されました。

記念館の建築的に特徴ある個所として、屋根の上から部分的に突出している良く整った塔屋の形、主屋のアーチ型の窓やその上下に施された装飾などがあります。

八幡公園から200mほど進むと横浜ゴムの正門です。

横浜ゴムの敷地に沿って100mほど進んだところに「海軍火薬廠」の碑が建っています。


「海軍火薬廠」の碑の傍の交差点を左折し、200mほど進むと「崇善小学校前」の交差点で、左右の通りが国道1号(東海道)です。

「崇善小学校前」の交差点を右折し、東海道に沿って200mほど進んだ最初の信号を右折し、100mほど進んだ晴雲寺の墓所に「お菊の墓」(細部後述)があるとのことでしたが、事前の調査不足で発見できませんでした。


鏡山お初の墓



平塚の塚緑地

東海道に沿ってさらに1Kmほど進んだ「春日神社北側」の交差点を左折し、20mほど進んだ交差点を右折して30mほど進むと右側に「鏡山お初」のモデルになったといわれる、本名「松田たつ」の墓があります。

平塚宿松田久兵衛の娘たつは、萩野山中藩大久保長門守の江戸屋敷の中臈岡本みつ女に奉公していましたが、みつ女が年寄沢野から侮辱を受け自害しました。たつは直ぐに沢野を訪ね、みつ女の小脇差で仇を討ったといわれます。

歌舞伎で上演された「加賀美山旧錦絵」はこの義女たつの話が基になっているといわれています。



平塚の塚緑地


「お初の墓」の向かい側が要法寺でこの西隣に、平塚の地名発祥の地とされる「平塚の塚」があります。

江戸時代の天保11年(1840年)に幕府によって編纂された「新編相模国風土記稿」の中に当地の伝承として「桓武天皇三代の孫、高見王の娘である平真砂子が、都より東国へ向かう旅をした折り、天安元年(857年)2月長旅の疲れからかこの地で逝去しました。


平塚の塚



要法寺

棺はここに埋められ、墓として塚が築かれました。時を経ていつしかその塚は風化して平たくなり、周辺の地域は「平塚」と呼ばれるようになったとされています。

これが平塚という地名の起こりとされています。

真砂子は、桓武平氏の祖といわれる高望王の妹で、平国香(平氏嫡流、平清盛の祖)、平良将(平将門の父)、平良文(坂東八平氏の祖)等の叔母にあたります。

このため「平氏の姫の墓(塚)」がある、ということで「平塚」となったとする説もあります。


「平塚の塚」のある平塚の塚公園から左手(東方向)に50mほどすすむと「要法寺」です。

要法寺は日蓮宗の寺院です。
鎌倉幕府の執権北条泰時の次男泰知は、平塚に住んで平塚左衛門尉泰知といいました。

弘安5年(1282年)、病身を武州の池上邸で養うために身延山を出発した日蓮聖人は9月18日に平塚に到着し泰知邸に1泊しました。この宗祖の霊跡に建立されたのが要法寺です。

境内には、宗派の鎮守神をまつる七面社や、日蓮に帰依し要法寺の開基となった泰知入道松雲院日慈上人の供養塔などがあります。


要法寺



旧東海道



平塚宿西組問屋場跡

要法寺の前を右折し、南方向に100mほど進むと広い通りにぶつかります。

左右に走っている広い通りが旧東海道で、交差点の右手前に「平塚宿西組問屋場跡」の石碑が立っています。

平塚宿は東海道五十三次の7番目の宿場です。江戸時代に入り宿駅が制定された時点では、平塚宿はいわゆる本宿だけでしたが、慶安4年(1651年)には本宿の東に新宿が加えられました。

それでも平塚宿は神奈川県内の東海道の宿9つのうちで8番目の規模の小さな宿場でした。


平塚宿と加宿平塚新宿との間には、かつて松並木があり、その松並木の西端に平塚宿江戸見附がありました。

本来、見附は城下に入る門を示す「城門」のことをいい、城下に入る人々を監視する見張り場の役目を持ちました。

したがって、宿見附も宿の出入口を意味すると同時に、宿を守る防御施設として設置されたことがうかがえます。

また、見附は必ずしも宿境を意味するものではなく、見附から正式に宿内であることを示す施設でした。


宿と宿との距離は、この見附を基準としました。

平塚宿西組問屋場跡



平塚宿の江戸見附跡



平塚宿本陣跡

平塚宿の見附は2個所です。

一般に江戸側の出入口にあるものを江戸見附、京側にあるものを上方見附と呼びました。

この2個所の見附の間が平塚宿内で、街並みは東西約1.5Km続いており、その中に本陣、脇本陣、東・西の問屋場2個所、高札場、旅籠などがあり、江戸時代を通じて200軒を超える町並みが続いていました。


一般的に見附は、東海道に対して直角に位置するように設置され、土台部は石垣で固め、土盛りされた頂上部は竹夜来が組まれていました。

平塚宿の江戸見附は、長さ約3.6m、幅約1.5m、高さ約1.6mの石垣を台形状に積み頂部を土盛りし、東海道に対し直角に対をなし、両側の見附は東西に少しずれた形で設置されていました。


平塚宿高札場跡



平塚宿脇本陣跡

西組問屋場跡から江戸見附跡までの間に、本陣跡、高札場跡、脇本陣跡などの碑が建っています。

残念ながら平塚宿の名残を伝える建物等は残っていません。



市民プラザ前の交差点


江戸見附跡から少し進んだ「市民プラザ前」の信号を右折し、最初の路地を左折し、2つ目の路地を右折すると右手に「紅谷町公園」があり、この一角に「お菊塚」があります。

伝承によると、お菊は平塚宿の宿役人・真壁源右衛門の娘で、行儀作法見習いのため、江戸の旗本・青山主膳の屋敷へ奉公中、主人が怨むことがあって菊女を斬り殺したという。

一説によると、旗本青山主膳の家来が菊女を見染めたが、菊女がいうことを聞かないので、その家来は憎しみの余り家宝の皿を隠し、主人に菊女が紛失したと告げたので、菊女は手打ちにされてしまったが後日皿は発見されたという。


紅谷町公園



お菊塚

この事件は元文5年(1740年)2月の出来事で、のちに怪談「番町皿屋敷」の素材になったとのことです。

お菊の遺体は、罪人と同じ扱いで長持に入れられて、平塚宿に戻されました。

馬入川の渡しで遺体を迎えた父親の源右衛門は、「あるほどの 花投げ入れよ すみれ草」と詠み絶句したといわれています。

そして罪人扱いとして墓を作らず、センダンの木を墓代わりに植えたとのことです。


しかし、公園の一角に塚があるのにはかなり不思議な謂われが残っています。

昭和27年(1952年)に戦後復興のための区画整理がおこなわれ、この地に元からあった青雲寺は移転しました。


そこにあった墓と共にお菊の墓も移動させようとしましたが、工事に支障が出ることがたびたびあったので、結局、塚を築いて残したとのことです。

移転後の晴雲寺真壁家墓所には「貞室菊香信女」と戒名が刻まれたお菊の墓が現存しています。


紅谷パールロード



平塚駅北口

紅谷町公園から元に道に戻り50mほど進むと、紅谷パールロードです。

平塚七夕まつりの時とは全く雰囲気の異なる紅谷パールロードを抜けるとゴールの平塚駅です。



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      風来坊


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