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下野散策 その2 (H25.4.13)

思川桜と菜の花 残念ながら葉桜です



何処までも続く桜並木



何処までも続く桜並木

案内板にしたがって「天平の丘公園」を抜けて、丁字路を右折すると見事な桜並木が続いています。

残念ながら、すでに殆ど葉桜になっていました。

桜並木を500mほど進むと右手に見事な菜の花畑が拡がっていました。



菜の花畑と琵琶塚古墳


菜の花畑の奥の森が「琵琶塚古墳」で、桜並木の反対側にあるのが「摩利支天塚古墳」です。

いずれも100m以上の前方後円墳で、国の史跡に指定されています。

「琵琶塚古墳」は栃木県最大の前方後円墳です。

古墳の形状や出土した円筒埴輪などから、隣接する魔利支天塚古墳に次いで、6世紀前半に築造されたものと考えられています。


菜の花畑と琵琶塚古墳



摩利支天塚古墳



摩利支天塚古墳



摩利支天塚古墳

「琵琶塚古墳」は全長約123m、前方部は幅約70m、高さ約9m、後円部は直径約75m、高さ約11mです。埴輪や土師器などが出土しています。

今回は、「駅からハイキング」のコースに含まれていませんでしたので、菜の花を観賞したのみで立ち寄りませんでした。


「摩利支天塚古墳」は「琵琶塚古墳」よりも古く、築造年代は5世紀末から6世紀初めと推定されています。

「摩利支天塚古墳」全長約117m、前方部は幅約75m、高さ約7m、後円部は直径約70m、高さ約10mです。埴輪などが出土しています。

今回は、「摩利支天塚古墳」に立ち寄ることができました。


摩利支天塚古墳



菜の花と思川桜



思川桜



思川桜

「琵琶塚古墳」「摩利支天塚古墳」をはじめとし、思川、姿川の川筋には、強大な首長が葬られたと思われる大形古墳が散在しています。

この地域は、遠く大和朝廷の時代に、下毛野国を代表する首長達の活躍の舞台になったことがうかがわれます。


また、「天平の丘公園」を出たところから「摩利支天塚古墳」の傍まで約1Kmに渡って続いている桜並木は、思川桜の並木です。

思川桜は、昭和29年(1954年)に十月桜から突然変異して生まれた桜で、新種の桜が生まれた場所が思川のそばであったことから「思川桜」と命名されました。

「思川桜」は小山市の「市の花」に指定されています。


思川桜



摩利支天塚古墳付近の菜の花と思川桜並木



散策路から

「思川桜」は花弁は10片ほどの半八重咲きで、ソメイヨシノと八重桜の中間の時期に淡い紅色の可憐な花が咲き、その枝振りもやわやわと優しいのが魅力の桜です。

今年は桜の開花が早く、思川桜の桜まつりは2週間早めて、4月6日、7日に開催されたとのことです。

したがって、残念ながら見頃を過ぎていました。

なぜ、古墳のとなりに思川桜の桜並木?

じつは古墳のある場所は小山市なのです。



姿川土手の菜の花



姿川土手の菜の花


「琵琶塚古墳」「摩利支天塚古墳」から700mほど南に進み、「安川橋」を渡って姿川の左岸に出て、今度は姿川の土手を北上です。

土手には菜の花が植えられており、菜の花を見ながら3Kmほど歩くと、最初に渡った「御使者橋」です。


姿川土手の菜の花



国分寺運動公園と駅からハイキングの案内板



八重桜は咲き始め

「御使者橋」から案内板にしたがって700mほど進むと「国分寺運動公園」です。

ここにも八重桜が植えられていますが、残念ながら1分咲き程度でした。



八重桜


八重桜


八重桜の並木を抜けたところが「ゆうゆう館・天平の湯」です。

「ゆうゆう館・天平の湯」は下野市の保健福祉センター内にある温泉施設です。

泉質は天然温泉に含まれている成分を99%以上使用し、ほぼ天然温泉そのままとなっています。

6種類の泉質を2週間交替で楽しむことができるのが特徴とのことです。


ゆうゆう館・天平の湯



壁面に子供達の絵



遊歩道

「ゆうゆう館・天平の湯」から500mほど進み、地下道を下りて左折すると壁面に子供達の絵が飾られています。

そのまま遊歩道を300mほど進んだ「西原公園」の先を右折し、200mほど進んだ広い道路(国道4号線)を右折すると右手が「金井神社」で、その隣が「慈眼寺」です。



金井神社


金井神社は、近世は小金井宿の鎮守で、北辰社あるいは北辰宮とよばれ、慈眼寺が別当をつとめていました。昔は虚空蔵と称し、現在地よりも西の字余又というところにありましたが、宝暦4年(1745年)に遷座し北辰社となり、のちに星宮神社、明治5年(1872年)に金井神社と改称しました。

虚空蔵信仰を発端とする星宮信仰とかかわりの深い社で、磐裂・根裂神を祭神としています。


金井神社



慈眼寺



慈眼寺本堂

慈眼寺は、建久7年(1196年)下野の豪族新田義兼の開基により、新田一族の祈願所として建立された真言宗の古刹寺院です。

室町時代には、京都醍醐寺の直末寺院となり、室町幕府の庇護を受けて大いに栄えました。

江戸時代にはいると、慶安2年(1649年)、3代将軍家光から御朱印20石を賜りました。


日光街道が完備し、日光に徳川家康の霊廟が出来てからは、日光社参の将軍の小休所、後に昼食所とされ、将軍家と深い関係を持つようになりました。

境内には御成御殿が建てられていたとのことです。


慈眼寺観音堂



慈眼寺鐘楼堂

山門を入ると左手に弘法大師作と伝える千手観世音を奉安する江戸時代の三間四面朱塗りの観音堂があります。安産子育の観世音として信仰されています。

右手には総欅造り入母屋袴ごし付き棟まで約11mある江戸時代建立の鐘楼堂があります。

明治初年の火災で、観音堂、鐘楼堂を残し、堂宇をすべて焼失しています。

現在の本堂は昭和52年再建の入母屋鉄筋コンクリート造り瓦葺です。


慈眼寺から国道4号線を500mほど進んだところに「小金井一里塚」があります。

一里塚は、徳川家康が慶長9年(1604年)に江戸日本橋を起点に、東海道・中山道及び北陸道に造らせ、後に全国に広まったといわれています。

道程の目印として1里(約3.927km)ごとに塚を築き、榎や松を植えたもので、『官本当代記』によると、「一里塚五間四方也」とあり、一片約9mの方形に築かれていたとされています。


慈眼寺の桜



小金井一里塚



小金井一里塚

「小金井一里塚」は、日光街道沿いにつくられ、江戸日本橋から22里(約86.4km)の地点にあります。

2つの塚がほぼ完存していることなどから、日光道中で唯一国指定史跡に指定されています。

塚は5間(約9.1m)四方の四角形に築かれ、榎が植えられていましたが、長年風雨にさらされたため変形して丸塚となり、何代目かの榎といつの時代に生えたのかクヌギの巨木が同居しています。

2つの塚の間を通っている道が、江戸時代の日光街道です。


「小金井一里塚」から500mほどでJR小金井駅です。



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        風来坊


JR小金井駅


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