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川越散策 その2 (H25.1.31)


川越一番街:蔵造りの町並み



蔵造りの町並み



蔵造りの町並み



小江戸名所巡りバス 建物は川越まつり会館

川越市役所から西方向に200mほど進むと「札の辻」交差点です。

ここから南方向に真っ直ぐ伸びているのが「川越一番街:蔵造りの町並み」です。

現在でも川越に残る蔵造り商家ですが、最盛期には100軒以上の蔵造り建物が街中にひしめき、町並みを形成していました。


川越に蔵造りの町並みが形成される契機となったのは、明治26年(1893年)の大火です。

この未曾有の大火災は、川越商人たちの防火対策への意識に変革をもたらしました。

川越商人は江戸時代以来、新河岸川の舟運などによる江戸との商いで富の蓄積があり、復興のための財力は十分にあったようですが、同じ惨事を繰り返さないよう、建物そのものを防火建築にすることを考えました。


川越元町郵便局



蔵造りの町並み



蔵造りの町並み



蔵造りの町並み



原家住宅

大火の際に焼け残った建物が伝統的な工法による蔵造り建物であったことに着目し、商人たちは競って蔵造り建築による店舗(店蔵)を建てました。

東京日本橋には明治10年代に既に蔵造り建物による町並みが形成されていたこともあり、江戸の商人に対する羨望や憧憬もあったのかもしれません。


この頃、東京では既に耐火建築として、レンガ造りや石積みの近代的な建物が造られていましたが、川越商人たちは伝統的な蔵造り建物を選択しました。

しかし、伝統工法に固執するわけでなく、レンガや大谷石、御影石などの新しい建築資材も柔軟に取り入れ、いわば「川越的蔵造り建物」による町並みが形成されていきました。

土壁・漆喰塗りだけでない建物は市街地のあちこちに見ることができます。


蔵造りの町並み



蔵造りの町並み



蔵造りの町並み



蔵造りの町並み



蔵造り資料館

「札の辻」交差点から「蔵造りの町並み」を200mほど進んだところに「蔵造り資料館」があります。

蔵造り資料館は、明治26年(1893年)の川越大火直後、類焼を免れた数軒の蔵造り建物や東京の日本橋界隈の商家を参考に、当時煙草卸商を営んでいた小山文造(屋号「万文」)が建てたものです。

蔵造り資料館では、川越の蔵造り家屋の意匠や構造、敷地内の様子を見学でき、今もなお息づく明治のたたずまいを体感することができます。



蔵造りの町並みと時の鐘



鐘つき通り


蔵造り資料館から少し南に進んだ「時の鐘入口」の交差点を左折すると「鐘つき通り」です。

「鐘つき通り」を50mほど進んだ左手にあるのが「時の鐘」です。

時の鐘は、江戸時代の初期、酒井忠勝が川越城主(1627〜1634年)の頃に、城下多賀町(現在の幸町)建設したのが最初といわれています。


鐘つき通り



時の鐘

その後何度か焼失し、現在の時の鐘は、明治26年(1893年)の川越大火の翌年に再建されたものです。

3層構造で、高さは約16mです。



時の鐘



時の鐘


創建された江戸時代の初期から、暮らしに欠かせない「時」を告げてきた川越のシンボルです。

現在は、1日に4回(午前6時・正午・午後3時・午後6時)、蔵造りの町並みに鐘の音を響かせています。

平成8年に、環境庁の「残したい日本の音風景百選」に選ばれています。


薬師神社



埼玉りそな銀行川越支店

時の鐘の建物の奥に薬師神社があります。

薬師神社は、以前は瑞光山医王院常蓮寺という寺でしたが、明治維新の折りに薬師神社となりました。

本尊は薬師如来の立像で行基菩薩の作といわれています。

五穀豊穣、家運隆盛、病気平癒、特に眼病にご利益があるといわれています。

右奥の稲荷神社は、出世、開運、合格に著しいご利益があるといわれています。



川越商工会議所(旧武州銀行川越支店)



大正浪漫夢通り


「鐘つき通り」から「時の鐘入口」交差点に戻り、「蔵造りの町並み」を300mほど進んだ「仲町交差点」を左折して50mほど進むと、ドーリア式列柱が並ぶ重厚な洋館・川越商工会議所(旧武州銀行川越支店)があります。

川越商工会議所の建物の手前を右折した通りが「大正浪漫夢通り」です。


大正浪漫夢通り



大正浪漫夢通り

川越城の城下町の特徴として戦に備えて緩やかにカーブした約200mの通りの両側には、大正から昭和初期のレトロな店舗がおよそ30軒余り並んでいます。

特に関東大震災以後に流行した看板建築の洋風店舗や町屋造りが多く残っています。



大正浪漫夢通り


御影石の石畳の通りを歩けば、そこかしこに大正ロマンの風情が漂います。

毎日の買い物から、こだわりの逸品、川越観光のお土産などを販売する、個性豊かなお店が軒を並べています。大正ロマンの雰囲気を求めて、テレビや映画の撮影によく使われる商店街です。


大正浪漫夢通り



大正浪漫夢通り

かつては「銀座商店街」といい、大正から昭和初期にかけては「埼玉県随一の商店街」と呼ばれた歴史ある商店街です。

市の商業の中心が南の「クレアモール」に移り衰退しますが、「大正ロマン」をテーマに商店街のあり方を変え、平成7年には老朽化したアーケードを撤去、平成13年には電線の地中化も完工し、江戸時代から明治の蔵造りの街並みが残る「川越一番街」と新市街地の「クレアモール」の間に位置する大正時代の街として観光客を集めています。


「大正ロマン夢通り」を過ぎたところを右折して100mほど進んだ正面が「蓮馨寺」です。

蓮馨寺は、天文18年(1549年)、時の川越城主・大道寺駿河守政繁が、亡くなった母・蓮馨尼を追悼するため、感誉上人を開山として創建した浄土宗の寺です。


大正浪漫夢通りから蓮馨寺への道



蓮馨寺



蓮馨寺

正面の呑龍堂は大正初期の建築で、呑龍上人の像が安置されており、「子育ての呑龍様」として親しまれています。本尊は阿弥陀如来です。

浄土宗関東十八檀林お一つに列せられ、葵の紋所が許されるなど檀林(僧侶の大学)として栄えました。

しかし、明治26年(1893年)の大火で鐘楼及び水舎を残して全焼し、現在の堂はその後再建されたものです。

入口正面の呑龍堂は大正初期の建築で、呑龍上人の像が安置されており、「子育ての呑龍様」として親しまれています。


祈願所(呑龍堂)の正面に、釈迦の弟子「おびんずる様」が鎮座しています。

参拝者がおびんづる様を撫でて次に自分の同じところを撫でると、頭ならよくなり、痛いところなら痛みがとれるそうです。

元はお釈迦様の16人の高弟(羅漢)の1人で、病人や悩みを持つ人を救って歩いたといわれています。

蓮馨寺は川越七福神の第五番札所で福禄寿です。


おびんずる様



菓子屋横丁



菓子屋横丁



菓子屋横丁

蓮馨寺から寺町通りを北方向に500mほど進んだところが「菓子屋横丁」です。

寺町通りは蔵造りの町並みに平行している通りで、「菓子屋横丁」は「蔵造りの町並み」の一番北側から西方に100mほどのところです。

「菓子屋横丁」では、江戸時代の末期から明治時代の初め頃に、江戸っ子好みの気取らない菓子を製造したのが始まりといわれています。


関東大震災で大きな被害を受けた東京に代わって、全国への製造・供給を行い、昭和の初期には約70軒が軒を連ねていました。

現在は20数軒の店舗が連なり、横丁気分が満喫できます。

横丁が醸しだす雰囲気と飴や煎餅などの下町風の駄菓子は、ノスタルジーを求めるファンを増やし、多くの人が訪れています。


菓子屋横丁



菓子屋横丁



菓子屋横丁

平成13年度には、横丁が醸し出す雰囲気と下町風の菓子の懐かしいかおりが漂うということで、環境省の実施した「かおり風景100選」に選ばれています。



見立寺


「菓子屋横丁」のすぐ傍に「見立寺」があります。

見立寺は、寿昌山良心院と号し、浄土宗に属しています。

元禄元年(1558年)、小田原北条氏の重臣で川越城将政繁は、城下に一寺を建立して建立寺と名づけ、存貞和尚を招請して開山とし、のちに見立寺と改めました。

現本堂は、明治14年(1881年)に建立したものです。

川越七福神巡り第六番札所で布袋尊です。


矢頭右衛門七の妹の墓の案内



矢頭右衛門七の妹の墓

見立寺に、赤穂浪士の一員・矢頭右衛門七(討ち入り当時17歳)の妹の墓があります。

妹は矢頭兄弟の次女で、元禄15年(1702年)12月の討ち入りを前に、母親らとともに叔母の嫁ぎ先の奥州白川藩に向かい、討ち入り後に幕府に窮状を認められ、親類の多賀谷家の次男と結婚しました。

その後、白川藩主の国替えに伴い、上州厩橋へ、さらに川越へと移住、その時には70代になっていたと推定され、川越へ来た翌年に病没しています。

嵐のような激動の時代に、男社会の中で思いがけない運命をたどった女性の姿がまさに浮かび上がってくるようです。



妙昌寺


見立寺から案内板にしたがって住宅地の路地を500mほど進んだところが「妙昌寺」です。

妙昌寺は、日蓮宗大本山池上本門寺の末寺として法眞山と号し、永和元年(1375年)に池上本門寺第四世(四代目の貫主)大鷲妙泉阿者梨日山聖人により現在の幸町に開創され、開山は法眞院日意上人です。

江戸時代の城下町整備により、現在地に移築したものです。

川越七福神の第七番札所で弁財天です。


弁財天



クレアモール



クレアモール



クレアモール

妙昌寺から案内板にしたがって住宅地の路地を500mほど進むと「クレアモール」です。

「大正ロマン夢通り」を真っ直ぐ南に進むと「クレアモール」になります。

クレアモールは、JR川越線・東武東上線の川越駅から、ほぼ真北に約1200m延びている商店街です。

クレアモールは川越新富町商店街と川越サンロード商店街の統一名称ですが、両商店街は別組織です。


かつては、川越駅や本川越駅と川越市役所を結ぶ連絡道路で、川越の商業の中心は川越一番街(蔵造りの町並み)など旧市街地にありましたが、昭和39年(1964年)に丸広百貨店が本店をこの通りに移し、急速に川越の商業の中心となっていきました。

現在では、特に川越駅から西武新宿線本川越駅までは幅員の狭い中に商店がひしめき、若者向けの店舗が集積することで、原宿竹下通りのような様相を呈しています。


小江戸蔵里



小江戸蔵里・明治蔵



小江戸蔵里・大正蔵

終日歩行者天国化されたことで、地元・近郊の買い物客や観光客で賑わっています。

近年の日本の都市の中心市街地空洞化が進む中で、例外的に賑っている商店街であり、クレアモールはさらに北に続く大正浪漫夢通り、川越一番街(蔵造りの町並み)、川越菓子屋横丁などとともに日本のがんばる商店街77選に選ばれています。


クレアモールに「小江戸蔵里」があります。

「小江戸蔵里」は、この場所で明治8年(1875年)に創業した旧鏡山酒造の建築物を、当時の面影を残しつつ改修した施設です。

市民と観光客との交流、地域の活性化を図るとともに、川越市の物産等を楽しむことができる新しい名所として、平成22年10月に誕生しました。


小江戸蔵里・昭和蔵



川越駅東口

施設は、明治・大正・昭和の時代に立てられた酒蔵の、おみやげ処(明治蔵)、まかない処(大正蔵)、くら市場(昭和蔵)の3つの蔵からなっています。

これらの蔵は、国の登録有形文化財に指定されています。

「小江戸蔵里」という名称は、川越市の別名「小江戸」、蔵造りの町並みを表す「蔵」、人々が気軽に立ち寄れてくつろげる心のふるさと「里」という意味を込めて公募の中から選ばれました。


クレアモールを抜けると川越駅(ゴール)です。



 
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       風来坊


川越駅東口


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