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佐野散策 (H25.2.10)


JR佐野駅前



JR佐野駅

JR東日本の「駅からハイキング」のイベント「早春の城下町佐野!開運古刹めぐり」に参加しました。

サブタイトルは「佐野城の城下町として栄えた佐野市。例幣使道の宿場町としての風情と、心を癒す古刹めぐりをお楽しみ下さい」です。


細部説明は「各時代を代表する建物を探索しながら、大正期伝来の佐野ラーメンに舌鼓。お参りもお忘れなく!」となっています。


コースの概要は次のとおりです。

JR両毛線佐野駅→佐野駅前交流プラザ「ぱるぽーと」1階観光案内所→朝日森天満宮→星宮神社→日光例幣使街道→涅槃寺・日限地蔵尊→佐野市観光物産会館(チェックポイント)→佐野厄除け大師→観音寺→宝龍寺→大聖院→奥州塚→人間国宝・田村耕一陶芸館→佐野駅前観光案内所→佐野駅

コースの歩行距離は約6.5km、歩行時間約2時間(施設での見学時間等を除く)、所要時間約3時間(施設での見学時間を含む)です。

写真を撮りながらの散策でしたが、所要時間2時間30分、約14000歩でした。

交流プラザ「ぱるぽーと」



交流プラザ「ぱるぽーと」

今回のイベントは2月9日(土)〜2月24日(日)の間に設定されていますが、横浜〜佐野間は片道2210円の旅費がかかりますので、「休日おでかけパス」を利用できる2月10日(日)に出かけることしました。

佐野駅南口の交流プラザ「ぱるぽーと」で受付を済ませて出発です。



朝日森天満宮


佐野駅南口を右折して西方向に300mほど進んだ交差点を右折して昭和通りに沿って300mほど進むと天神橋の交差点で、前方が佐野高校です。

天神橋交差点を左折して100mほど進んだ右手が「朝日森天満宮」です。

平安時代、藤原秀郷の七代の孫家綱が、無実の罪におとしいれられた時に、大宰府天満宮に参篭し一心不乱に祈念した処、ようやく冤罪がはれ、所領が安堵されました。


朝日森天満宮



朝日森天満宮

家綱はこの偉大な神恩を感謝し、唐沢城中の天神沢に天満宮を勧請し尊崇の誠をつくしました。

以後、佐野氏の累代及び一門は祖先の遺志を継承し守護神として崇敬してきました。

その後、慶長7年(1602年)、唐沢城から春日岡(現在の城山公園の場所)に城を移すに際し、天満宮も現在地に遷座し、地名を冠して「朝日森天満宮」と称しました。

以来、佐野の氏神として、当地の人々より天神様と呼ばれ、親しまれてきました。


学問の神様である、菅原道真が祀られ、一年中、学生の姿が見受けられます。

社殿に続く石畳の両側には、梅の木がずらりと並び、季節になると満開の梅の花が春の訪れを告げてくれます。


境内の牛の像は、菅原道真が乙牛の生まれに因んだものです。


朝日森天満宮



両毛線の踏切の更に南に朝日森天満宮の鳥居が

「朝日森天満宮」から真っ直ぐ前方に延びている道を進み、両毛線の踏切を渡り、2つ目の路地を左折して50mほど進んだ左手が「星宮神社」です。

両毛線の踏切の南に鳥居があるので確認したところ、朝府森天満宮の鳥居でした。

「星宮神社」は、久安年中(1145年〜1150年)の草創です。

「星宮神社」はかつて日光例幣使街道の天明宿の氏神でしたが、明治9年の合併により旧佐野町の氏神となりました。



星宮神社


主祭神は迩々杵尊、配神磐裂、根裂神ですが、神仏分離までは虚空蔵菩薩を祀り、共に国土開発の神として崇拝されました。

石段の前の明神鳥居は、天明鋳物師の作で、享保20年(1735年)に造られ、佐野市の文化財に指定されています。

剣豪千葉周作が境内で果たし合いを行ったとのことです。


星宮神社



日光例幣使街道の建物



日光例幣使街道の建物

「星宮神社」から前方の細い路地を200mほど進んだ、左右の通りが「日光例幣使街道」です。

元和3年(1617年)、徳川家康の霊柩が日光山に改葬されましたが、その後正保3年(1646年)からは、毎年京都の朝廷から日光東照宮への幣帛を奉納する勅使(例幣使という)が遣わされました。

その勅使が通る道が日光例幣使街道です。


例幣使は京都から中山道を下り、倉賀野(現高崎市)から太田、佐野、富田、栃木、合戦場、金崎を通り日光西街道と合わさる楡木を経て日光に至りました。

この日光例幣使街道に所在する宿場は、東照宮に参拝する西国の諸大名も通り、賑わいを見せました。


日光例幣使街道の建物



日光例幣使街道の建物

佐野市の中心部は碁盤目状に町割されています。

これは、慶長年間に佐野藩主・佐野信吉が春日岡城の築城と同時に進めた城下町の建設での町割りの結果です。

碁盤目の突き当たりには寺院が配置されているのが大きな特徴です。

佐野が城下町として機能したのは、佐野信吉改易迄でその後は、江戸時代を通じて日光例幣使街道の宿場天明宿の中心として栄えました。


佐野信吉の改易の原因はよく判っていませんが、縁類の大久保長安・大久保忠隣事件に連座した説や豊臣氏縁故の外様大名取り潰し策のためともいわれています。

佐野信吉改易後、佐野は廃藩と立藩を繰り返し、文政9年(1826年)堀田正敦が入封して何度目かの佐野藩が成立し、堀田氏の支配のまま明治維新を迎えています。


日光例幣使街道の建物



日光例幣使街道の建物

小屋町と天明町の二つの町を合わせた全体で天明宿の機能を果たし、本陣は小屋町に置かれ、松村氏が代々その職にありました。

天保年間(
1830年〜44年)の家数は小屋町522軒、天明町573軒で、旅籠は8軒ありました。

現在も例幣使街道沿いの大町・万町・本町や金屋仲町・大和町・大祝町・天明町などに伝統的な古い民家が残されています。


日光例幣使街道を西方向に300mほど進んだ交差点を左折して、南方向に200mほど進んだ右手が、「涅槃寺・日限地蔵尊」です。

後醍醐天皇から「涅槃寺」の題字を授けられたことが名前の由来とのことです。


涅槃寺



日限地蔵尊

日を限って祈願すると願いが叶えられるといわれる日限地蔵尊があります。

毎月24日が縁日とのことです。

涅槃寺本堂、日限地蔵尊のいずれも閉鎖されていました。


涅槃寺の先の交差点を左折し手100mほど進んだ左手が「佐野市観光物産会館(チェックポイント)」で、右手が「佐野厄除け大師」です。

「佐野市観光物産会館」は、佐野市の観光情報発信基地の特性を有する観光の拠点として、平成7年にオープンしました。

佐野市の特産物を中心にアイテム約800種類と品揃えも豊富です。


佐野市観光物産会館



佐野厄除け大師



佐野厄除け大師



佐野厄除け大師

「佐野厄除け大師」は、惣宗寺の通称ですが、一般には「佐野厄除け大師」の通称で知られています。

青柳大師、川越大師と共に関東の三大師として知られています。


惣宗寺は天台宗の寺院で、山号は「春日岡山」です。

惣宗寺の開基は藤原秀郷、開山は奈良の僧・宥尊で、天慶7年(944年)に、藤原秀郷が春日岡(現在の城山公園)に創建しました。

慶長7年(1602年)、春日岡に佐野城を築くために、佐野信吉によって現在地に移転しました。


佐野厄除け大師



佐野厄除け大師

徳川時代には御朱印五十石を拝領し、寺社奉行も置かれ、三代将軍家光公も参拝する等徳川幕府との縁故も深い寺でした。

惣宗寺には、厄よけ元三慈恵大師(御本地・如意輪観音)が安置され、厄よけ、身体安全の祈願を続けています。

年毎に信者が増加し、正月大祭には百万人以上の参拝客があるとのことです。



観音寺 銅造阿弥陀如来座像


「佐野厄除け大師」から東方向に50mほど進んだ右手が「観音寺」です。

「観音寺」は、室町時代の大永年間(1521年〜1527年)に藤原秀綱が創建した、真言宗豊山派の寺です。


観音寺



大黒天

境内に、寛文9年(1669年)斉藤伝七郎久重、太田小左衛門藤原秀次、大川久兵衛藤原信正ら3人の天明鋳物師たちの合作による銅造阿弥陀如来座像があります。

容姿端麗な露座の大仏として高く評価されています。

像高は313cmで、佐野市指定文化財となっています。

七福神のうち大黒天があります。



宝龍寺


「観音寺」から東方向に200mほど進んだ信号のある交差点を右折し、南方向に200mほど進んだ左手が「宝龍寺」です。

「宝龍寺」は浄土宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来立像です。

「宝龍寺」は呑龍上人ゆかりの寺として知られています。

呑龍上人は、江戸時代の初期に活躍した浄土宗の僧侶で、佐野では9年間「宝龍寺」で活躍しました。


宝龍寺



宝龍寺 鋳銅阿弥陀如来坐像

庶民教育に心をくだき、生活困窮者の子供を引き取って教育をしたため、「子育て呑龍」と呼ばれ人々に親しまれました。

ここ宝龍寺では、子供たちの健全成長や安産を祈願する子育呑龍上人大祭が毎年9月8日に開催され、当日は子供連れのお父さんお母さんたちで賑わっています。


宝龍寺境内にある、ふくよかな表情が特徴の鋳銅阿弥陀如来坐像は、関東大震災で首が傾いていてより豊かな表情に見えます。

元録7年(1694年)天命鋳物師丸山孫右ヱ門の作で、佐野市指定文化財です。


宝龍寺



佐野市駅

「宝龍寺」から南方向に道なりに300mほど進むと、東武佐野線の佐野市駅です。

佐野市駅の前を右折し、200mほど進んだ歩道橋の先で踏切を横断し、道なりに200mほど進んだ左手が「大聖院」です。



歩道橋の先を左へ



大聖院


「大聖院」は真言宗豊山派の寺院で、天慶元年(938年)の創立で、開山は良朝上人、開基は道雄と伝えられています。

境内に「法華の鐘」と称される梵鐘があります。

元文4年(1739年)天明鋳工・丸山善太郎の作で、佐野市有形文化財に指定されています。

境内の入口に、村民のために領主に直訴して命を落とした、高橋惣左右衛門の霊を慰めるため、村民が建てた地蔵があります。


大聖院 鐘楼



大聖院 地蔵

佐野は中世以来の鋳物や織物などの産業が盛んでした。

特に天明鋳物と称された鋳物業は京都にまで知られた特産品でした。

慶長7年(1602年)からの佐野信吉による城下町建設に伴って、金屋町に鋳物師が集められ70名にもなりました。

文政11年(1828年)の全国の「鋳物師名前帳」には全国の鋳物師を統率していた京都真鍋家支配の鋳物師が500名ほど記されていますが、当地の鋳物師は23名で全国第4位の鋳物師数でした。


その鋳物の作品で有名なのが、慶長19年(1614年)から豊臣秀頼によって復興されようとした京都方向寺大仏殿の梵鐘があります。

この梵鐘に「国家安康 君臣豊楽」と刻まれていたことが契機で豊臣氏が滅亡したことは広く知られています。


大聖院から100mほど進むと道路幅が2倍程度に広くなります。


大聖院から700mほど進んだ左手に「奥州塚」があります。

延歴7年(788年)紀古佐美は征夷大将軍として奥州平定に向かいましたが大敗し、この地まで退き、激戦を勝利しました。この時の多くの戦死者を埋葬したのが、この塚といわれています(伝説)。

明治42年(1909年)植野・新屋敷の青年一同が木碑を建てたという記録があります。



奥州塚



奥州塚

植野地区のランドマークであり、昭和30年代までは大変目立っていましたが、区画整理終了後には人家が急増し、家々の中にぽつんとあるような感じになりました。

しかしながら、ヒマラヤ杉は大きく生長し、現在ではこの地域のシンボルツリーのようにも見えます。


「奥州塚」から100mほど進んだ信号のある交差点を左折し、700mほど進むと東武伊勢崎線の踏切です。

踏切を渡り200mほど進んだ信号のある交差点を左折します。


左折すると左手が佐野小学校で、100mほど進んだ右手が金屋稲荷大明神です。


金屋稲荷大明神



吉井酒造



吉井酒造

この付近は、慶長年間の碁盤目状の町割りの一部のようで、古い民家が数多く見られます。

左折して200mほど進んだ左手が、吉井酒造です。

明治7年(1874年)創業以来、本物の酒と真心を込めて造り続けている蔵元です。

古い酒蔵と店先に帳場が残っているお店です。



影澤医院


吉井酒造から少し進んだ右手が影澤医院です。

明治期の典型的な木造洋風建造物で、一部増築がなされていますが当初の外観を保っています。

特にバルコニーや2階上部の三角破風内「影澤外科院」と「K・S」のイニシャルが装飾的にあしらわれているところが、当時の西洋文化へのあこがれを物語っています。


佐野市街の建物



佐野市街の建物

「影澤医院」から200mほど進んだ信号のある交差点(佐野厄除け大師や観音寺から東に進み、右折して宝龍寺に向かった交差点です)を右折し、100mほど進んだ信号なる交差点を右折します。

右折する右手前に洋風の建物があります。


右折して100mほど進んだ左手が、佐野商工会議所会館です。

佐野商工会議所会館から200mほど進んだ、信号のある交差点を左折し、100mほど進むと「佐野駅入口交差点」で左右に走っている道路が、日光例幣使街道です。

「佐野駅入口交差点」の右手前に「田村耕一陶芸館」があります。


佐野商工会議所会館



佐野未来館



田村耕一陶芸館

「田村耕一陶芸館」は、佐野出身で東京藝術大学教授を務め、人間国宝に認定されながらも、惜しまれつつこの世を去った、田村耕一の「鉄絵陶芸の美」を伝える陶芸館です。

鉄絵は酸化鉄によって文様が表現される陶芸技法で、着色剤の鉄分の含有量・焼成時の焔の性質により、黒色、茶褐色、黄褐色等様々に発色し、変化に富む加飾技法です。



田村耕一陶芸館前から佐野駅方向を望む



城山公園(佐野城址)


「田村耕一陶芸館」から信号を渡って北方向に300mほど進むとJR佐野駅(ゴール)です。

佐野駅の北側に佐野城址の「城山公園」があります。



       風来坊


佐野駅自由通路


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