その鋳物の作品で有名なのが、慶長19年(1614年)から豊臣秀頼によって復興されようとした京都方向寺大仏殿の梵鐘があります。
この梵鐘に「国家安康 君臣豊楽」と刻まれていたことが契機で豊臣氏が滅亡したことは広く知られています。
大聖院から100mほど進むと道路幅が2倍程度に広くなります。
大聖院から700mほど進んだ左手に「奥州塚」があります。
延歴7年(788年)紀古佐美は征夷大将軍として奥州平定に向かいましたが大敗し、この地まで退き、激戦を勝利しました。この時の多くの戦死者を埋葬したのが、この塚といわれています(伝説)。
明治42年(1909年)植野・新屋敷の青年一同が木碑を建てたという記録があります。
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