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坂のまち 港区探訪 その2 (H25.3.22)


愛宕山は満開です



愛宕神社

麻布郵便局からそのまま進むと東京タワーですが、今回は飯倉交差点を左折です。

左折して400mほど進むと神谷町交差点で、さらに200mほど進んだ三叉路を右折して100mほど進むと愛宕トンネルがあります。

愛宕トンネルの手前左側に「愛宕山参道」と書かれた階段があります。

愛宕トンネルの上が愛宕山で、階段を上ったところに「愛宕神社」と「NHK放送博物館」があります。


愛宕神社は慶長8年(1603年)、徳川家康の命により江戸の防火の神様として祀られました。

主祭神は火産霊命(ほむすびのみこと)です。

ほかに、罔象女命(水の神)、大山祇命(山の神)、日本武尊(武徳の神)を正面社殿に祀っています。

境内には末社として、太郎坊社、福寿稲荷社、大黒天社、弁天社があります。


愛宕神社



愛宕神社

現在の本殿、幣殿、拝殿などは、昭和33年(1958年)に再建されたものです。
愛宕神社は、標高26mの愛宕山の山頂にあります。

これ東京23区内での自然の地形としては一番高い山です。

愛宕山は、都心の中にぽつりと残ったオアシス的な存在として人々の安らぎの場となっており、境内はお昼休み時には近隣で働く人々で賑わいます。

この日は桜が満開で、多くの人が昼食を兼ねた花見を楽しんでいました。



出世の石段


愛宕神社の正面にあるのが、曲垣平九郎の故事にちなみ「出世の石段」と呼ばれる急な石段です。

3代将軍徳川家光が増上寺に参詣した帰りに愛宕神社の下を通りかかったところ、愛宕山には源平の梅が咲き誇っていました。

家光が「誰か、馬にてあの梅を取ってまいれ」と命じましたが、石段が急勾配のため家臣は一様に下を向いてしまいました。


出世の石段



出世の石段 上からの方が急に見えます

この時、丸亀藩の家臣・曲垣平九郎が馬で石段を上り下りして、山上の梅を手折りして、家光に献上しました。

平九郎は家光から「日本一の馬術の名人」と讃えられ、その名は一日にして全国に届いたと伝えられています。

この故事にちなみ、愛宕山の正面の坂(男坂)を「出世の石段」と呼んでいます。


愛宕山の境内に「桜田烈士愛宕山遺跡碑」があります。

井伊直弼を討った水戸浪士集結の場所です。

万延元年(1860年)3月3日、時の大老、井伊直弼を水戸浪士が討った桜田門外の変は有名ですが、その水戸浪士が集結したのは、この愛宕神社だったのです。


桜田烈士愛宕山遺跡碑



太郎坊社

浪士たちは神社内の絵馬堂(現存せず)に集結し、神前に祈願したのち、歩いて桜田門に向かったのです。

家康公が建てられた愛宕神社に祈願したわけですから、浪士たちにとって井伊大老を討つということは、幕府のためだという確固たる信念があったのかもしれません。

雪の降る日、愛宕山上に集結する浪士の絵を愛宕神社で見ることができます。



NHK放送博物館


「愛宕神社」の隣りに「NHK放送博物館」があります。

大正14年(1925年)7月、NHKラジオ放送の本放送が愛宕山で始まりました。

80余年を経過し、放送はラジオからテレビ、さらに衛星放送、ハイビジョン、デジタル放送へと大きく進歩、発展してきています。


NHK放送博物館



NHK放送博物館

「NHK放送博物館」は、昭和31年(1956年)に、世界最初の放送専門のミュージアムとして、放送のふるさと・愛宕山に開館しました。

NHK放送博物館では、こうした放送の歴史に関するさまざまな実物展示をはじめ、誰もが自由に利用できる「番組公開ライブラリー」や「図書・資料ライブラリー」なども公開しています。


1階展示フロアでは、ラジオやテレビ放送の誕生を物語る発明や技術が体験できるコーナーで、当時の放送の様子を実感することができます。

2階展示フロアでは、ラジオ放送の誕生から、今日のデジタル放送時代に至る放送の歴史を、さまざまな放送機材や受信機・受像機の実物資料による体系的な展示で紹介しています。


NHK放送博物館



NHK放送博物館前の広場

3階展示フロアでは、放送の歴史を物語るさまざまな資料を通して、放送開始当時の様子や、報道・スポーツ・教育・教養・娯楽番組のあゆみを振り返って見ることができます。

4階展示フロアは、放送のライブラリー、紅白・大河ドラマコーナーです。

NHKが蓄積している放送に関する映像、資料、調査データなどの情報を公開しています。



青松寺


愛宕山から反対側の階段あるいはエレベーターを利用して下りて前方に進み、「愛宕神社前」の信号を右折して100mほど進んだ右手が「青松寺」です。

青松寺は、江戸府内の曹洞宗の寺院を統括した江戸三箇寺の1つで、太田道灌が雲岡舜徳を招聘して文明8年(1476年)に創建しました。

当初は、麹町貝塚(現在の国立劇場・最高裁判所付近)にあり、「江戸貝塚青松寺」と称されました。


青松寺



青松寺

その後、慶長5年(1600年)、徳川家康が江戸城の外堀をつくる際に、現在の地へ移転しました。

寺中に「獅子窟」僧堂を擁し幾多の人材を輩出してきました。

明治8年(1875年)、獅子窟学寮内に曹洞宗専門学本校が開校、翌年、駒込吉祥寺の旃檀林と合併、今日の駒澤大学へと発展しました。



芝公園の桜


「青松寺」の先のコの字型の歩道橋を渡り、300mほど進んだ「芝公園3丁目」の交差点を右折して100mほど進むと右手が芝公園です。

芝公園は日本で最も古い公園の一つで、明治6年(1873年)の太政官布達によって、上野、浅草、深川、飛鳥山とともに芝の5カ所が、日本最初の公園として指定され、以後の公園造成の先駆けとなりました。

当初は増上寺の境内を含む広い公園でしたが、戦後の政教分離によって境内の部分が除かれ、増上寺を取り囲む環状の公園となっています。


芝公園の桜


芝公園の園内を200mほど進むと右前方が東京タワーです。

芝公園は広大なため、東京タワーは芝公園のすぐ隣です。

東京タワーは昭和33年に完成した東京地区の集約電波塔で、正式名称は日本電波塔です。

地上アナログ・デジタルテレビジョン放送(VHF・UHF)及びFM放送のアンテナとして電波を放出していました。

東京スカイツリーの完成に伴い、主な放送施設は東京スカイツリーに移転しますが、FMラジオ波などの施設は残り、災害時などの予備電波塔の役割も担います。


東京タワーには大展望台と特別展望台の2つの展望台があります。

大展望台は地上150mと地上145の2層になっており、エレベーターに乗って最初に到着するのは大展望台の2階です。

大展望台からは、東京はもちろん関東一円の景色を展望することができます。

今回は時間の関係もあり東京タワーには登りませんでした。



増上寺



増上寺



増上寺

東京タワーから芝公園の方に戻り、「東京タワー前」の交差点を横切ると右手が「増上寺」です。

増上寺は浄土宗の七大本山の一つで、三縁山広度院増上寺が正式の呼称です。

増上寺は、明徳4年(1393年)に浄土宗第八祖酉誉聖聰上人によって、武蔵国豊島郷貝塚(現在の千代田区平河町から麹町にかけての土地)に開かれました。

室町時代の開山から戦国時代にかけて、増上寺は浄土宗の東国の要として発展しました。


安土桃山時代、徳川家康が関東の地を治めるようになって間もなくの、天正18年(1590年)に徳川家の菩提寺として増上寺が選ばれました。

徳川家康がときの住職源誉存応上人に深く帰依したため、と伝えられています。

慶長3年(1598年)に、現在の芝の地に移転。

江戸幕府の成立後は、徳川家康の手厚い保護もあり、増上寺の寺運は大隆盛へと向かって行きました。


増上寺



増上寺

徳川家康は元和2年(1616年)増上寺にて葬儀を行うようにとの遺言を残し、75歳で歿しました。

増上寺の徳川将軍家の墓所には6人の将軍が眠っています。

戦災によって徳川将軍家霊廟は焼失し、焼失をのがれた三門、経蔵、黒門などを含む境内は、昭和49年(1974年)完成の大本堂とともに、近代的に整備されています。

この日は、徳川将軍家墓所の特別公開が行われていました。



徳川将軍家墓所



徳川将軍家墓所


かつて増上寺山内の北側と南側に、厳粛かつ壮麗な徳川将軍家霊廟が広がっていました。

御霊を祀るために造営された墓所・本殿・拝殿を中心とした施設の数々には、その当時最高の技術が駆使され、戦前国宝に指定されていました。

しかし、昭和20年の戦災により殆どが焼失し、わずかに残った建物もその指定を解除されました。

昭和33年から学術調査が行われ、南北に配していた墓所は本堂裏手の現在地に改葬されました。


鋳抜門



秀忠公、お江の方の墓所

徳川将軍家墓所の正面にある入口の門が、旧国宝の「鋳抜門」です。

文昭院殿霊廟(6代将軍徳川家宣)の宝塔前「中門」を移築したものです。

左右の扉に5個ずつの葵紋を配し、両脇には昇り龍・下り龍が鋳抜かれています。

規模は勿論のこと、その荘厳さにおいても日光東照宮と並び評された往時の姿を今に伝える数少ない遺構です。


増上寺は東京上野の東叡山寛永寺(天台宗)と共に徳川将軍家の菩提寺です。

増上寺には2代秀忠、6代家宣、7代家継、9代家重、12代家慶、14代家茂の6人の将軍のほか、崇源院(2代秀忠夫人)、皇女和宮さま(14代家茂夫人)ら5人の正室、3代家光公側室桂昌院(5代綱吉実母)はじめ5人の側室、及び3代家光第3子甲府宰相綱重ほか歴代将軍の子女多数が埋葬されています。


徳川将軍家墓所



安国殿の東隣に西向観世音があります。

鎌倉時代、執権北条時頼が観音山に辻堂を建立し、石造の観音像を祀ったことに始まると伝えられています。

慶長3年(1598年)に増上寺が移転してきたことにより境内地に含まれることとなり、山内霊場・西向観音として信仰を集めました。

西向観世音の境内に千躰子育地蔵尊があります。

子育て安産に霊験あらたかとされる西向観音にちなみ、子供の無事成長、健康を願い昭和50年(1975年)より順次奉安されています。

毎年4月に大祭、7月には盆踊り大会が開催されます。



増上寺三門


増上寺にはソメイヨシノ、シダレザクラなど約200本の桜の木が植えられています。

境内の桜は丁度見頃で多くの参拝客がカメラ片手に桜見物を楽しんでいました。


増上寺三門



増上寺大門

増上寺三門から前方に伸びている道を200mほど進むと「増上寺大門」です。

「大門」は増上寺の総門・表門にあたり、地名の由来にもなっています。

現在の大門は、国道の通行整備のため、昭和12年(1937年)に原型よりも大きく、コンクリート製に作り直されたものです。


旧大門は、慶長3年(1598年)に江戸城の拡張造営にあたり、増上寺が芝に移転した際に、それまで江戸城の大手門であった高麗門を、徳川家康から増上寺の表門として譲られたものです。

旧大門は関東大震災により倒壊の恐れが生じたため、両国の回向院に移築しましたが昭和20年の空襲で焼失しています。


増上寺大門



芝大神宮

「増上寺大門」から100mほど進んだ路地を左手に入ったところが「芝大神宮」です。

「芝大神宮」は、伊勢神宮の御祭神、天照大御神(内宮)、豊受大神(外宮)の二柱を主祭神として祀っている、寛弘2年(1005年)に創建された古社です。

当初は飯倉山(現在の芝公園)に鎮座していましたが、増上寺の芝公園への移転に伴い、慶長3年(1598年)に現在地に移ってきています。


このため、古くは飯倉神明宮、芝神明宮と称され、鎌倉時代においては、源頼朝より社地の寄贈を受け、江戸時代においては、徳川幕府の篤い保護の下に社頭はにぎわい大江戸の大産土神として関東一円の庶民信仰を集め、「関東のお伊勢さま」として数多くの人々で賑わいました。

例年9月16日の例祭を中心に、9月11日から21日まで、神輿渡御などの各種神事が行われますが、それらが長期間「だらだら」と続くために、古来より「だらだら祭り」とも呼ばれています。

また期間中に風邪予防にご利益のある、生姜を授与しているところから、別名「生姜祭り」とも称されています。


芝大神宮



芝大神宮

芝大神宮は、歌舞伎の「め組の喧嘩」の舞台として知られていますが、2月の節分祭には、「半鐘祭」が行われます。

これは、芝大神宮の氏子域を管轄する江戸町火消しの「め組」衆が参詣し執行しています。

芝大神宮は、文化2年(1805年)2月に境内で起こった「め組の喧嘩」の舞台であり、この半鐘を鳴らしたため騒ぎが大きくなったといわれています。

このため、半鐘は遠島処分になり、明治時代になって芝大神宮に戻ってきたとのことです。

「芝大神宮」から元の道路に戻り、東方向に300mほど進んだ右手が「世界貿易センタービルディング」です。

「世界貿易センタービルディング」は、昭和45年(1970年)に竣工した40階建て、152mの超高層ビルです。

霞ヶ関ビルに続く東京で2番目の高層ビルです。


世界貿易センタービル



世界貿易センタービル

世界貿易振興を目的として建設されましたが、浜松町駅西口の再開発に合わせて2013年以降解体され、200m級の超高層ビルに建て替えられる予定です。

世界貿易センタービルは、浜松町駅に隣接しており、浜松町駅に戻ってゴールです。



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        風来坊


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