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第56回東京龍馬会史跡探訪 その2 (H27.5.30)



世田谷駅

世田谷代官屋敷からボロ市通りを東方向に50mほど進んだ交差点を左折し、200mほど進んで世田谷通りを横切り、さらに50mほど進んだ東急世田谷線の踏切の手前の信号のない交差点を右折します。

細い路地を200mほど進んだ丁字路を左折し、世田谷駅傍で世田谷線を横切り、500mほど進んだ「世田谷区役所西」の交差点を右折した左側が勝国寺です。



世田谷駅から世田谷区役所西交差点に向かう道路


勝国寺

勝国寺は真言宗豊山派の寺院で、吉良政忠(法号勝国寺照岳道旭)が開基となり、世田谷城の裏手鬼門除けとして天文23年(1554年)に創建されました。

吉良家滅亡後も江戸幕府より12石の朱印状を与えられ、御朱印寺として栄え、末寺6ヶ寺を擁した小本寺だったといいます。

また、勝国寺は玉川八十八カ所霊場の48番霊場にあたります。


勝国寺



勝国寺



勝国寺に関する説明を熱心に聞く参加者



土屋簫海の墓所

勝国寺に土屋簫海(しょうかい)の墓所があります。

土屋簫海は長州藩士で、文政12年(1829年)萩に生まれました。

嘉永4年(1851年)江戸に出て鳥山新三郎の家に寄寓し、宮部鼎蔵、轟武兵衛、吉田松陰らと交わりました。安政元年(1854年)父の死去によって帰藩し、萩に塾を開きました。

文章は長州藩少壮中随一という評判を得て、藩主により士分に昇格しました。

杉家の幽室にある松蔭をしばしば訪ねました。松蔭はよく文章の添削を土屋に頼んだとのことです。松下村塾の後援者でもありました。



元治元年(1864年)、病臥に伏している時に禁門の変が起こり、意見書を上申したところで死去しました。36歳でした。

同じ墓所に、簫海の弟で維新後海軍機関大佐となった土屋平四郎が合葬されています。

勝国寺から100mほど進んだ右手が世田谷区役所で、さらに100mほど進んだ左手が若林公園です。

若林公園に隣接して桂太郎の墓所があります。


世田谷公園



世田谷公園

桂太郎墓所

桂太郎は山口県萩の出身で、長州藩士として幕末諸戦に参加、維新後、ベルリンに留学してプロシアの兵学を学びます。

山県有朋、大山巌を輔けて軍制の改革を図り、参謀本部の独立、鎮台の師団改編等を行い、明治陸軍建設に大きな役割を果たしました。

吉田松陰を敬慕、自らも明治33年(1900年)に台湾協会学校(現拓殖大学)を創立して、校長として育英に尽くしました。


明治34年(1901年)首相となり、日英同盟を締結します。明治37年、日露戦争を遂行し、翌年勝利します。

3回内閣を組織し、西園寺公望とともに「桂園時代」を築きました。首相在任通算2886日は最長記録です。

墓所は遺言により、松陰神社に隣接した当所にありますが、墓所エリアに入ることはできません。


桂太郎墓所(公園の椅子の上から撮影)



広沢真臣墓所

広沢真臣の墓所

桂太郎墓所から30mほど離れた場所に、広沢真臣の墓所があります。

広沢真臣は慶応2年(1866年)勝海舟と会談して長州戦争の休戦協定を結びます。

また、坂本龍馬や薩摩藩の五代才助と会談して「商社示談箇条書」を作成しました。

慶応3年には、薩摩藩の大久保利通らと倒幕出兵協定を締結した後、上京して倒幕の密勅を持ち帰るなど、木戸孝允に並ぶ長州の「維新の元勲」です。

明治4年(1871年)に暗殺されましたが、現在まで事件の真相は不明です。墓所エリアに入ることはできません。



松陰神社



松陰神社


松陰神社

広沢真臣の墓所から50mほど進むと松陰神社です。

松陰神社は幕末の思想家・教育者である吉田松陰を祭神とする神社です。

松陰の墓がある世田谷区若林と、松陰の生誕地である山口県萩市にあります。

どちらも、学問の神として崇敬を受けています。


吉田松陰像



吉田松陰他烈士墓所



吉田松陰他烈士墓所



吉田松陰他烈士墓所



吉田松陰墓所

吉田松陰は、安政6年10月27日、安政の大獄に連座して江戸伝馬町の獄中にて30歳の若さで刑死しました。

吉田松陰が刑死した4年後の文久3年(1863年)、高杉晋作、伊藤博文など松陰の門人は、松陰の亡骸を小塚原の回向院よりこの世田谷の若林大夫山の楓の木の下に改葬し、松陰先生の御霊の安住の所としました。


禁門の変後の、長州征伐の際に幕府によって墓は破壊されたが、木戸光允等の手により明治元年(1868年)に松陰以下の墓を修復しました。

墓域には木戸孝允が寄進した鳥居が残っています。

墓所の前にある葵紋のついた石燈籠と水盤は、墓所修復を聞いた徳川氏が、謝罪の意を込めて寄進されたものです。


水盤



石燈籠



石燈籠



石燈籠

明治15年(1882年)11月21日、門人によって墓の側に松陰を祀る神社が創建されました。

現在の社殿は、昭和2年から3年にかけて造営されたものです。

境内に立ち並ぶ32基の石燈籠は、松陰の50年祭に際して、毛利元昭公をはじめ、松陰先生門下の伊藤博文、山縣有朋、井上馨、桂太郎などの縁故者により奉献されたものです。

燈籠にそうそうたる名前が刻まれておりびっくりしました。



松下村塾(レプリカ)



松下村塾(レプリカ)


吉田松陰の教育道場であった松下村塾は、叔父の玉木文之進が天保13年(1842年)寺小屋を開いて、松下村塾の看板を掲げたのが、村塾の名前の起こりです。

吉田松陰が実際に塾生を教育したのは、安政3年8月頃から安政5年末に投獄されるまでの、2年半程度だったようです。


松下村塾(レプリカ)



松下村塾(レプリカ)

松下村塾で薫陶を受けた塾生はおよそ90名前後といわれており、久坂玄端、高杉晋作、木戸光允、山縣有朋、品川弥二郎、伊藤博文など明治維新を通し近代日本の原動力となった多くの逸材を輩出させています。

松陰神社にある松下村塾は、萩の松陰神社境内に保存されている松下村塾を模したものです。



松陰神社通り


松陰神社で今回の史跡探訪は終了し、引き続き希望者で三間茶屋に移動して懇親会が開催されました。


関連のホームページ

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