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旧軽井沢銀座通り
軽井沢は江戸時代には、五街道のひとつ中山道が通る宿場町であり、中山道の難所のひとつとして知られる碓氷峠の西側の宿場町として栄えていました。 軽井沢付近には軽井沢宿、沓掛宿、追分宿の3宿が置かれており、これをまとめて浅間3宿といわれていました。 また、軽井沢は浅間山を望む景勝地としても有名でした。
江戸幕府300年の歴史が終わり明治時代にはいると、街道を往来する旅人も少なくなりました。 さらに明治17年に碓氷新道(現在の国道旧18号線)の開通によって、中山道沿いの宿場町は大きな打撃を受け、長く続いた浅間3宿の歴史は終止符を打つことになりました。
その後、明治19年(1886年)にカナダ人宣教師のアレクサンダー・クロフト・ショーが軽井沢を訪れ、その美しい清澄な自然と気候に感嘆し、その夏に避暑に訪れました。 明治21年(1888年)に旧軽井沢の大塚山に簡素な別荘を建て、友人の宣教師たちにも「軽井沢は保健と勉学に適している」と勧めました。
これによって、友人の宣教師たちの別荘も年を追って建ち始めました。 当時の欧米人は、夏休みがあっても故郷への船旅は何ヶ月もかかり、帰ることができなかったため、東京の暑さに耐えきれない欧米人にとって軽井沢は格好の避暑地となったわけです。 これが避暑地としての軽井沢のスタートです。
明治21年に軽井沢〜直江津間が開通して軽井沢駅が設けられました。 さらに明治26年(1893年)には碓氷峠を越える軽井沢〜高崎間が開通し、東京と直結しました。 明治27年(1894年)には軽井沢で最初の洋式ホテル「亀屋ホテル」(のちの万平ホテル)が開業しました。
その後、明治32年(1899年)には「軽井沢ホテル」、明治39年(1906年)には「三笠ホテル」も開業して宣教師、知識人、文化人の間で人気を博し、日本三大外国人避暑地のひとつに数えられるようになりました。
軽井沢教会
大正初期になると大手資本の参入によって土地分譲がはじまり、旧軽井沢中心であった別荘地が南へ西へと開発され、特に第一次世界大戦後の好況を受けて日本人有産階級の人達が盛んに訪れるようになってからは、日本人避暑客が外国人を上回るようになりました。
このため、避暑地軽井沢の様相は外国人先駆者たちがつくり上げてきた質素で高潔な避暑地から日本人的な華やかな別荘地へと一変し、これら日本人避暑客の需要を満たすために各種の商店が建ち並び、軽井沢の中心である旧軽井沢商店街は、「軽井沢銀座」と呼ばれるほどの活況を帯びてきました。 またゴルフ場、テニスコート、乗馬等のスポーツ施設も相次いで新設され、避暑地としての機能もほぼ現在の原型が出来上がりました。
現在の軽井沢は、いくつかのエリアに分かれていますが、今回は軽井沢地区の新軽井沢、旧軽井沢を訪ねました。 1回目は軽井沢駅から軽井沢本通り及び旧軽井沢銀座通り界隈を歩いて廻り、2回目は軽井沢本通り及び旧軽井沢銀座通りの周辺をサイクリングで廻りました。
新軽井沢の中心は軽井沢駅ですが、軽井沢駅周辺は南口にアウトレットができて一変したとのことです。 グルメに関しても高額な旧軽銀座の値段を避けて、リーズナブルなアウトレットで食事をする人が増えつつあるようです。 軽井沢のアウトレットは、全国のアウトレットの中でも一番人気が高いようで、プリンジャムなどの珍しい品物もあるとのことです。
軽井沢本通り
軽井沢駅北口駅前から、旧軽井沢銀座ロータリーまでが軽井沢本通りです。 軽井沢駅北口駅前から北方向に幅広い道が伸びており、歩道も幅広くて歩行者用とサイクリング用に区分されています。 この付近は店と民家が混在していて視界も広がっており、ゆっくりと高原の景観を楽しみながら散策することができます。
5叉路になっている東雲を過ぎると道幅が狭くなり、両側にホテルやいろいろな趣向の商店が建ち並ぶ、軽井沢らしい雰囲気となります。
軽井沢ニューアートミュージアム
東雲から100mほど進むと右手に「軽井沢ニューアートミュージアム」があります。 世界の第一線で活躍中の日本の現代アーティストの作品や海外のアーティストの作品が展示されています。 美術館理事長の長年の夢である「軽井沢から広く世界に発信するための美術館」として、今年4月にオープンしたそうです。
「軽井沢ニューアートミュージアム」から50mほど進んだ右手が「ホテル軽井沢エレガンス」です。 ホテルの裏手に「森のチャペル 軽井沢礼拝堂」があります。
森のチャペル 軽井沢礼拝堂
旧軽井沢銀座ロータリー付近
旧軽井沢銀座ロータリー
三笠ホテルをモチーフにした電話ボックス
「ホテル軽井沢エレガンス」から500mほど進んだところが、旧軽井沢銀座ロータリーで、旧軽井沢銀座の入口です。 このロータリーに、旧三笠ホテルをモチーフにした電話ボックスがあります。 多くの観光客が記念撮影をする人気のスポットです。
旧軽井沢は、アレクサンダー・クロフト・ショーが第一号の別荘を建てた後、多くの宣教師や在日外国大使、政治家や文化人が別荘を建てるようになり、異国情緒溢れる街となりました。 こうした別荘客を支えるために、旧道には東京や横浜から衣食住にわたり数々の老舗が軒を並べたのが、現在の旧軽井沢銀座の発祥です。
旧軽井沢銀座は、ロータリーからつるや旅館まで500mにわたって続いています。 ロータリーからしばらくの間は道幅が狭くて車両通行止めです。
チャーチストリート軽井沢
チャーチストリート軽井沢の2階は人通りが少ないです
ロータリーから200mほどすすんだ左手が「チャーチストリート軽井沢」です。 「チャーチストリート軽井沢」は、買う、遊ぶ、食べるお店が集まったショッピングモールです。 旧軽井沢銀座通りと聖パウロカトリック教会を結ぶ通りにあります。 「チャーチストリート軽井沢」を抜けた聖パウロカトリック教会の前の通りが、「水車の道です」。
教会通り
「水車の道」は、旧軽銀座を迂回する形でほぼ平行に走る小径です。 水車は、現在は残されていませんが、その昔は「しっぽくそば」や「うどん」の粉を挽く水車がありました。 つるやの当主は代々「仲右衛門」を世襲し、隠居すると「作兵衛」を名乗って水車小屋を隠居所にしていたそうです。 水車は「作兵衛水車」と呼ばれていましたが、大正の中頃からはそういう呼び名も忘れられていったとのことです。
軽井沢聖パウロカトリック教会
「軽井沢聖パウロカトリック教会」は、昭和10年(1935年)に軽井沢在住のフランス人をはじめとする外国人カトリック信者の努力で建立されたといわれています。 英国人ワード神父によって設立されたカトリック教会です。 設計は、米国建築学会賞を受賞したアントニン・レーモンドが担当しました。
傾斜の強い三角屋根、大きな尖塔、打ち放しのコンクリートが特徴で、今日では軽井沢のランド・マークのひとつとして人気を集めています。 堀辰雄が「聖パウロ教会で結婚すると多くの人たちから祝福される」と言われたことから現在でも沢山のカップルがここで式を挙げています。 挙式後も教会と二人との関係は永遠に続くので、いつでも気軽に立ち寄ることができるのも魅力のようです。
アクセス 軽井沢駅から旧軽井沢銀座入口まで徒歩20分。 関連のホームページ 軽井沢観光協会 軽井沢観光情報 旧軽井沢観光ガイド
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